第12章 愛の力
石川女鳥死す! 翌朝の『勇進日報』紙面に躍った衝撃の文字に、誰もが驚愕した。あちこちの店で『勇進日報』だけは飛ぶように売れ、至る所で『勇進日報』を貪り読む人々の姿が見られた。
第一面には、彼女が死に至るまでの経緯が簡潔に綴られてあった。――『彼女は星の彼方から』封切館のキネマパレスから、村野女史との『対決』のために勇進日報社に赴いた彼女。そこへ相前後して現れたのが、舞台役者の石川他磨己、映画女優のルミラ、そして、脱獄囚の男。男は村野女史への私怨に燃えていたが、それを先の2人に糾弾されて激高し、刃物を振り回した。刃は石川他磨己を狙っていたのだが、とっさに庇った女鳥の身に深々と刺さり、とうとう死に至らしめたものである……。
頁を開くと、ここもまた全面を彼女の死に関する記事で埋め尽くしている。中でも目立つのは、村野黎子女史の知られざる過去を繙いたものであった。その筋書きは、人物名や職業こそ変えてあるものの、かの人気記事「独占読みもの・子爵令嬢大波乱物語」と、殆ど違わなかった。記事中の小草子爵は、実際は中原子爵。陽子は黎子。光代は、某電気会社重役・石川氏の夫人で、作中は恵となっていた娘の女鳥、もとい璃枝子の育ての母である。そして音楽家の由良常二は、ごく初期の映画輸入業者たる村野常二。
黎子と常二が若かりし頃、活動写真は漸く出回り始めた珍品で、欧米から輸入したものに好奇心をそそるような解説をつけて上映していた。常二は主に、写真の買い付けや興行の交渉をしていたのだが、解説者や技術者とともに興行地に赴くことも度々あった。黎子とは、たまたま同じ場所で興行した時に出会ったのである。
「黎子さん。あちらでは物語のあるものを写真に撮ろうと様々工夫しているそうです。近い内、日本人が日本で、日本人の客のために写真を製作するようになるに違いありません。できることならば僕がその魁になりたいとすら思うのです。……恐らく初めの内は、単なる舞台の模様を納めるだけでお客は食いつくでしょう。しかしそれでは、すぐに飽きられることもまた明白です。最後にはやはり『面白い』ものでなければ、興行として成立しなくなるわけです。僕は、そうした、内容のある写真を拵えてみたいと常々思っています」
この時、彼が黎子に教示した、欧米の優れた写真の特徴や技術が、後々黎子自身の大きな助けになるのだった。その後、2人は結婚し、彼女は自らを村野黎子と名乗り始めた。そして、愛する夫を殺めたのが、記事中では西山豪左衛門となっていた、北川剛右衛門であった。
夫と死に別れ、2人の娘とも生き別れてただ一人きりになった彼女は、亡夫の遺志を継いで、活動写真の製作会社を興す。名付けて、「瑠璃鳥キネマ」。娘2人の幸福を祈ってつけたことは、もう書くまでもないだろう。丁度この頃、連鎖劇といって、実際の芝居と写真の上映を交互に行う型式の演劇が流行していたのだが、黎子はこの脚本を書いて名を上げた。この時の利益を元手にして、本格的な機材や優れた役者を用いた写真を物していったわけだ。ルリ・キネの名はいつしか、芸術的で洗練された作風をもって知られるようになり、ファンを着実に増やしていく。――あとは皆様ご存知の通り、オペラの舞台で姉妹がそれと知らず再会し、映画の世界で母娘3人がうち揃ったのだったが……運命とは、あわれ、酷なものかな。
――溜息のうちに次の頁を開くと、そこには陣恭太郎の気丈な横顔。特別取材と称して彼の語ったという話が、やはり多くの空間を占めている。
……ええ、僕も本心では何が何だかわからず、混乱しているのです。どんな男だってそうなるでしょう。愛し合っていた婚約者が突然、あんな形で奪われたら。……あんな形というのは、単に刺殺されたことのみを指すのではありません。女鳥さん、いや、璃枝子さんは、石川他磨己の身を庇ったために死んでしまったのです。彼女としては、ずっと兄としてひとつ屋根の下に過ごしてきた彼を救いたかったのでしょう。しかし、彼、他磨己氏の方は、どうしたと思います? 惨いことに、未だ息のある璃枝子さんを見捨ててその場を去ったのです。血の繋がった姉である瑠美子嬢も同様です。結局、僕が璃枝子さんの最期を看取ることになったのですが(ここで涙ぐむ)……失礼。あの人の雄々しくも悲しい最期を思うと、やり切れないのです。わかって下さるでしょう。……この腕に、まだ温みのある璃枝子さんを抱き、切れ切れに漏れる声を聞き逃すまいとして、僕は顔を近づけました。苦しい息の下からあの人は、こう告げたのでした。『お母様をよろしく。そして、あなたを愛しています』その言葉を最後にあの人の瞳も唇も、永遠に閉じてしまいました。しかし口元は微笑んでおりました。かくも幸薄き生涯でありながら、汚れを知らぬ微笑を残して旅立っていけたのですから、あの人も満足でしょう。そう思わないことには、僕の胸は張り裂けてしまいます。……かくも美しく気高い志を残して逝った婚約者を称えるため、辛いですが、父とともにお別れの会を主宰することにいたしました。石川女鳥を愛する人、村野璃枝子の生き様に感銘を受けられた人、どなたも明日、勇進日報社に隣接する勇進会館にいらして下さい。……
どの記事も、どの記事も、驚愕と感動と憤怒を引き起こさずにはおかない迫力に満ちていた。読者やファンはまるで熱に浮かされたように、案内のあった勇進会館への遠征を実行していくのだった。おかげで翌日、その付近は『対決』の時以上に大混雑の態をなしていたわけである。
東京・丸の内の一角にどっしりと構える、勇進日報社。そのすぐ隣に、いわば社会貢献の一環として作らせた「勇進会館」が建つ。普段は誰それの音楽会やら講演会やら、高級な催しに使われているが、今日ばかりは上下貴賤の庶民の波でごった返している。彼らは一応「弔問客」と言われたが、大抵は、スター目当ての野次馬であった。中に入れなかった者も、建物の外に居並んでさえいれば、喪服の有名人をそれなりに沢山拝見できた。それゆえ、誰からも文句は出なかった。
殊に人々の目を惹きつけたのは、黒いドレスとヴェールを着けた婦人達であった。既に来ていた村野女史のように、また銀嶺会の会員達のように、白い喪服を着るのが一般的だったこの時代、黒い服で参列しているとそれだけで奇異な印象を与えた。
「ありゃ、みんな西洋人なのかえ」
「不思議はないよ、めんどりさんは華族の催しにも引っ張りだこだったんだ。西洋人の知り合いがいたっておかしくはないさ」
誰かがそう呟いて、急に故人の生前愛されていたことを胸に思い起こさせる。何とはなしにしんみりとして、参列者を見送る目にも涙が滲む。
今は丁度、杖をついた白髪白髭の洋装の老紳士が、娘らしき婦人に伴われてゆっくりと建物の中に入っていくところであった。――これで大方の出席者が揃ったらしい。人の流れはぱったり途絶えた。
……建物内部、受付を過ぎ、広い待合室を横切って大ホールへ足を踏み入れる。まず目に入るのが、舞台に設えられた巨大な祭壇。中央の一段高いところに、とりどりの白い花に囲まれた白木の棺が恭しく置かれている。その左右には、主要人物が腰かけている。即ち、陣勇之進と陣恭太郎の主宰者父子と、故人の実母たる村野女史と。一方、客席に目を転じると、前列には故人と直接付き合っていたという弔問客が座り、舞台から遠くなるにつれてさほど関わりのない人物ばかりになってくる(つまり後方は全て野次馬連である)、という並びになっていた。
客席の灯が静かに消されて、舞台上の陣勇之進がついと立ち上がった。白い羽織袴で弔意を示している。
「えー、皆々様。これから石川女鳥嬢、またの名を村野璃枝子嬢との永の別れとなるのであります。嬢はご存知の通り、一昨夜……」
水を打ったように静寂な空間を、彼の太い声が渡っていく。凶刃に倒れたスターの最期について今一度滔々と述べ立てた後、彼は息子に場を譲った。告別の辞を伝える役目は、恭太郎に託されていたのである。前日の『勇進日報』に感動的な記事を寄せていただけに、人々の注目はいやが上にも集まった。
「お集まりの皆様、我らの清く気高き石川女鳥ともこれでお別れです」
彼の声は淡々としている。それが却って、憔悴しきった心の内を想像させる。
「彼女はつい一昨日の夜、逆上した脱獄囚に殺害されました。彼を糾弾した義理の兄を、身をもって庇ったためです。一体他の誰に、あんなに雄々しい真似ができるでしょうか。流石は、世の婦人達のために立ち上がり奔走してきた村野女史の血を引く乙女。僕は悲しみ惜しむと同時に、称賛し尊敬の念をも抱いて……」
若き俳優、そして愛しき人を失った悲劇の青年、恭太郎は、ただ気丈に故人を讃えた。この奥床しい態度。感じやすい見物人の一部は早くも涙ぐんでいる。参列者達も俯いて、これから葬られんとする「聖なる乙女」のイコンを瞼に描いているらしく思われた。
「あと僅かの時間しか、彼女の肉体はこの世に居られません。あらゆる憎悪を背負い亡くなった、現代の聖女のために、皆様、どうか心からなる祈りを捧げて下さい。そして、婚約者であり仕事仲間であった僕から、最後に一言、述べさせて下さい。……愛しているよ、璃枝子さん」
小さく吹き出す声、次いでクスクスという忍び笑い。感動の名台詞を思いがけず汚されて、恭太郎は眉を吊り上げる。不心得な参列者は誰かと一行を眺め回す。――と、白髪白髭の老紳士に目が留まった。丁度、黒い喪服の人々に囲まれる形で、彼の白髭が目立っていた。よくよく見ると、その豊かな白髭の奥で、彼は確かに笑みを浮かべていた。
「あなたですな、今お笑いになったのは。この厳粛な時に何という不謹慎な振る舞いですか」
「声が上ずっていますわよ、ホホホ……」
老紳士から一つおいた席に座る婦人も、黒いヴェールの奥から笑い声を響かせた。それは凛としてよく通る、美しい声音であった。
父親の勇之進もしゃしゃり出て、息子の助太刀をする。
「お前さんら、一体どういう了見だね。死者の前で侮辱的な態度を取って。この神聖な儀式を邪魔するつもりなら出て行きたまえ」
「あらまあ、こちらも声が震えていること。父子揃って、威勢はよいけど芝居はだめね」
「ああ。不謹慎だの侮辱だの言っているが、まだ生きている人間を葬ろうとする方が、よっぽど不謹慎で侮辱的だと思うがね」
老紳士の声は、意外にも若々しく、めりはりが利いていた。――陣父子の顔がサッと青ざめる。相手にしているのが誰か、漸く思い至ったのである。――老紳士はすっくと立ち上がり、まず白髭を、次いで目深に被った帽子とその下の白髪を取り去ってみせた。また、婦人の方は黒いヴェールを持ち上げて頭の上で留めた。他ならぬ、他磨己とルミラである。
「さあ、次はあなたの番よ」
ルミラは、他磨己と自分の間に座るヴェールの婦人を、舞台上までいざなった。婦人は静かに舞台の中央に立ち、人々の注視する中、ゆっくりとヴェールを持ち上げてみせた。
「石川女鳥!」「女鳥さん!」「めんどりさん!」
驚愕する人々。雄々しく死んだはずの乙女が、目の前で、艶然と微笑しているではないか! 呆然とする者、叫喚する者、外の群衆に伝えに走る者、興奮のあまり失神する者……辺りは俄かに騒乱の巷と化した。
会館の従業員が、石川女鳥が眠っているとされた棺の蓋を開けた。中にあったのは、幾つもの重石……それだけであった。
「皆さん、お静かに、お静かに願います」
喪服の参列者達が、野次馬連中をなだめて回る。よくよく見れば、彼らもまた芸華会の会員達であり、ルリ・キネの社員達であることに気づかれるであろう。
漸く場が落ち着きを取り戻した頃、再び他磨己が語り出す。
「陣さん、一昨日の夜の続きを話させてもらいますよ。本当はあの後、あなた方の企みについても暴く予定だったんだが。思いがけず中断されちまったんでね」
「これから話すことは、お集まりいただいた皆様にも是非お聞きいただきたいわ。それから勿論、村野女史……私とこの子のお母様にも」
祭壇近くの席に縮こまっていた村野女史は、白い喪服にも劣らぬほど顔色を失って、今にも卒倒せんばかりであった。
女鳥がまず、人々を見回した。
「本題に入る前に、私がなぜ生きているのかをご説明しましょう。私はあの時、確かに刃物で刺されました。けれど運のよいことに、刃は袴の腰の部分、つまり帯の結び目を突き刺しただけでしたの。お蔭様で身体の方は傷ひとつありませんわ。まあ、驚いたせいかその後気が遠くなってしまいましたけれどね」
「あの状況だから、私も他磨己も、他の誰もこの子が死んだと思い込みました。お母様は失神するし、陣父子はどこかへ行ってしまうし……『勇進日報』に書いてあることと逆ですよ、皆さん……残されたのは私達と、『キネ天』の記者さん達だけ。そのうちに、床に転がるナイフに少しも血痕が付いていないことに気がつき、この子がただ気を失っているだけだと知ったのです。しかしそれを報告しようとした頃には、もう『石川女鳥死す』の朝刊と、このお別れの会が準備され始めておりました。この子の無事を知らされた後でさえも、記事が撤回されることはありませんでした。この方が売上げを伸ばせるからという、そんな理由で」
まあ酷い! 客席からそう叫ぶ声がする。ルミラは舞台上からにっこりと笑いかける。
「ええ、酷いには違いありません。しかしそれが真の目的ではないのです。言わば、本来の目的を遂げる過程で得られる副産物、とでもなりましょうか。それこそ、陣父子がお母様とこの子に執着した理由なのです」
「皆さんは、昨日の『勇進日報』で、村野女史の生い立ち、即ち『子爵令嬢大波乱物語』の元になった話をお読みになったでしょう。あれは全て真実、記者達の調査により明らかにされた真実です。これを初めに知った陣勇之進は、読者に公開するより前に、自分が利用することを思い立ちました。……」
他磨己の語る真実に、人々はじっと聞き入った。当事者である陣父子は普段の威勢もどこかへ、ただ目を泳がせているばかりである。村野女史は深く俯いているので、どんな表情をしているかは誰にも窺えない。
――活動写真界に特異な位置を占める、村野黎子女史の前身がどんなであったか、当時知る者はなかった。次なる大物ゴシップの種を仕入れようとしていた勇進日報社は、秘密裡に彼女の身辺に探りを入れ、数か月かけてその生い立ちをまとめ上げるに至った。当初望んでいたような醜聞ではないが、壮大かつ凄絶な読みもので、目玉記事になること請け合いである。
しかし勇之進は、この記事原稿を暫くお蔵入りにしていた。なぜか? 大衆に供する前に、自分の利益と野望のために最大限利用してやろうという考えからだ。
実はその少し前に、偶然にも、『勇進日報』では中原子爵家の貧困ぶりを知らせるゴシップを掲載していた。過去に、騙されたとはいえ娘を得体の知れない人間に売り渡したといって非難され、助けてくれる者とてない名家の成れの果ての姿。
その一方で、売り飛ばされた娘はというと、美貌と才智と度胸で巧みに世渡りし、遂には活動写真の重鎮に収まってしまった。それも、当時としては誠に珍しいことに、若き女性の身で。その点から、興行界や芸術界のみならず、進歩的な人々の間では寵児となって久しかった。
また、そうした進歩派は大体において、高等学問を受け得る良家の一員であると相場が決まっている。実際、黎子も名門のサロンやクラブに招かれることが多かった。――かつての子爵令嬢時代に、両親に連れられてそうした場に出入りしていたとは、彼女以外の誰が知ろう?
勇之進の胸の内で、凋落した前者と、繁栄する後者がぴたりと結びつけられた。うまく事が運べば、現在の財力に加えて、確固たる地位をも掌中にできよう。あらゆる面において、影響力を及ぼすようになるだろう。今はただの成り上がり者だと蔑まれてはいるが、いずれ上流階級の人間をも背後につけてみせる。
彼はそう決心してからというもの、中原子爵家に自ら赴き、経済援助を申し出た。以前のことがあるので子爵夫婦も疑い深くなっていたが、御百度参りが続くとじきに不信感も拭われていったらしい。初めの訪問から一か月ほど経って、子爵家と陣勇之進は正式に繋がった。また、ここに至るまでに陣は子爵の苦労話を全て聞き出し、お蔵入りにした記事と矛盾がないことを確かめた。翌日には、『勇進日報』にかの「子爵令嬢大波乱物語」の連載を開始した。
しかし、所詮人望のない華族を助けたところで、こちらに大した利点はない。勇之進はこの子爵の救済を振り出しにして次の段階に進んだ。即ち、黎子を我が物にすることである。とはいうものの、女一人で道を切り開いてきた手強い相手であるから、一筋縄にはいかない。……そこで彼は、相手の強みと弱みの両方を利用することにした。「子爵令嬢大波乱物語」で彼女の過去が知られていることを仄めかし、その映画化を打診する。過去、即ち殺人の恐怖から逃げ続けてきた黎子にとって、強力な情報網を持つ勇進日報社は脅威にもなり、またいざという時の救いにもなり得るもののはずである。また、ルリ・キネの発展を思えば、大作を物してみたいという気持ちもあるであろう……。陣勇之進の頼みは、何にせよ聞き入れられるに違いないものであった。承諾を取りつけさえすれば、あとは勇之進の独壇場となる。かねてから計画していたことを、ここに来て次々と実行に及んだ。
「……ああ、そうそう、この話の出所をまだ皆さんに伝えていませんでしたね。これは、俗に刺客と呼ばれる、ならず者の一団から聞いたのです。彼らのうちの一人が、俺とルミラを襲おうとしたのを逆にやっつけてやったのですがね。その時に、全てを記した手帳を託されたのです。そこには、陣勇之進氏が日頃から彼らを大いに頼り、その息子である恭太郎氏も私怨から彼らを利用したことを。――俺らは、恭太郎氏の私怨で危うく、顔と喉を無惨に溶かされそうになりましたが」
「まあ!」
誰よりも大きな声を上げたのは、他ならぬ女鳥である。そして憤りの視線を、狼狽える恭太郎に注ぐのだった。
話は続けられた。
『花のゆくえ』映画化の資金を出そうという者は、実際は陣勇之進だけではなかった。巷で話題の新聞記事を、人気の女流脚本家が手がけ、若者や芸術思考の観客に広く支持されるルリ・キネの面々で作ろうというのである。大手出版社や、近代芸術振興に理解ある(ふりをしたい)大会社の数々が出資を申し出ていた。村野女史が目指す「完全に自由な映画製作」を貫徹するのであれば、勇進日報社以外に魅力的な資金源は沢山あったのだ。しかしそれを選択しなかった、否、できなかったのは、理由がある。
彼女は、この頃になって漸く、自分の父母が陣家の援助を受けていること、勇進日報社内に形ばかりのポストが作られて父に与えられていたことを知った。それは同時に、陣家への「恩返し」の義務が、彼女一人の肩にのしかかったことをも意味した。何とかして勇進日報社に大儲けさせなければならない……彼女が『花のゆくえ』映画化を勇進日報社の傘下で行い続けたのには、そうしたわけがあったのである。
陣勇之進の罠は、『花のゆくえ』製作開始時には既に、四方に張られていたといってよい。撮影現場には、主要キャストの一人として息子の恭太郎を送り込み、不穏な空気があればすぐに報告させた(いくらかは彼の主観も混じっていたことは否めないが)。自分自身も度々出向いては、その権力を示威していた。そして一方で、頼みの綱たる刺客の男達を遠方の監獄に送っていた。目的は、20年ほども前の殺人犯、北川剛右衛門を脱獄させること。それをいち早く『勇進日報』の記事にすること。……村野女史が陣父子に反旗を翻そうとする時に記事を見せれば、敵の逃亡に震え上がるに違いない。そしてまた、陣家の絶大な力に守られているという立場を自覚し、ますます言いなりになるであろう。……陣の思惑通り、女史はあの日、即ち使い走りの栄介が夕刊を買いにやらされた日から、父子の方針に従順になってしまった。陣父子は図に乗って、女史を便利な道具のように利用し続けた。
「……ここから先は、俺達のこの告発で未遂に終わったことですが、お話ししましょう」
陣家は中原子爵の血を引く村野女史を味方にし、華族社会への入口にするつもりであった。
『花のゆくえ』封切予定日は、陣の思惑により、北川剛右衛門の処刑と重なるように計画されていた。――こちらから罠をかけたとはいっても、実際に脱獄した北川は、捕まれば即座に極刑が下るはずだった。つまり、彼の存在が不要になった時点で、警察に通報しさえすれば、わけもなく片付けられる。証拠も何も残らない。――彼らは北川の処刑の日を、村野女史の真実をも世間に公開する日、つまり彼女とその娘が華族の一員であることを知らしめる日にするつもりだったのである。さらに、次女の璃枝子を恭太郎の婚約者ということにすれば、名実ともに陣家は華族の親戚になれる。――なぜ璃枝子か、というと、旅芸人一座と浅草の劇団で育った瑠美子よりも、堅実な中流階級で育った璃枝子ならば、華族社会からも好意的に受け入れられるだろうという考えからだった。そのために、瑠美子と、璃枝子が思いを寄せているらしい他磨己の存在を消しておく必要があった。――そうして上流階級の人々にも一目置かれ、庶民からは敬われ、同業他社からも悪罵を言われずに済むようになる。何せ、芸術志向のインテリゲンチャと女性陣御用達の村野女史、そしてルリ・キネのスター石川女鳥が傘下にいるのだから。彼女らを楯にすれば誰もおいそれと批判できなくなるわけだ。そうして自らの権勢を駆使し、やがては政界に進出する。一介の成り上がり商人が、一国の文化から人心から政事まで支配するようになる……なんと壮大な夢ではないか。
「そして、私はこう付け加えて差し上げますわ。なんと愚かな妄想ではないか……と」
ルミラの一言で、陣父子への追及は終わった。彼らは今やもう力なく、舞台上の椅子にがっくりとうなだれていた。――しかし、これで全てに決着が着いたわけではない。
女鳥は父子の脇を通り抜けて、隅で縮こまっている村野女史と対峙した。
「村野女史。あなたが手を組んでいた相手は、とても手強いものでしたわ。人の生死をも自分の利益にしようという人達でした。あなたが、引きずられてしまったのも、無理なかったと思います。……でも」
女鳥――赤ん坊の時に生き別れた娘――の瞳に冷たい光が射す。女史の顔がさっと強張る。
「ここから先は、あなたご自身の意思でお決めになって下さいまし」
これまでの非礼を認めてルリ・キネの一社員に戻り、また、愛娘2人の母としてともに歩んでいくか。それとも、陣父子と勇進日報社への「恩返し」を続けて華族の地位に戻るか。
密かに慈しんできた実の娘達の、氷のような眼差し。ずっと尊敬されてきた婦人会員達の、容赦ない非難の眼差し。数多いる見物人の好奇の眼差し。現実のものかどうかを問わず、熱した針のごとくこの身を突いてくる、あらゆる眼差し。それらはいずれも、彼女に降りかかるこれからの困難を暗示している。母親になるにも、芸術家になるにも、或いは華族になるにも、彼女は茨の道を歩まねばならないのだ。
それならば、自分が真に正しいと信じた道を進もう。
張り詰めた沈黙が場を支配する中、女史は椅子を立ち、歩み寄った。女鳥の方へと。
「来て下さると信じていたわ。……お母様」
「璃枝子」
目の前の娘は、春の日射しのような優しい微笑を、自分に注いでくれていた。母娘の絆を断ちかねない行為に加担していた自分を、許してくれるというのか……そう悟った瞬間、黎子の瞳から止めどなく涙が溢れてきた。なぜ、陣父子への反旗を翻そうと何度も思いながら実行に移せなかったかという、後悔が今更のように胸に迫ってきたのである。
「ごめんなさい、ごめんなさい、璃枝子。瑠美子にも、ルリ・キネのみんなにも……」
「お母様、ご自分をお責めにならないで……」
いつの間にかルミラこと瑠美子も駆けてきて、母を抱いた。2人の娘に寄り添われながら黎子は、この偽りの葬式会場を出入口の方へ向かっていた。参列者や見物人に化けたルリ・キネの仲間や芸華会の面々がその後に続く。
と、黎子がふと足を止めて、後方を振り向いた。
「陣さん。恭太郎さん」
父子は黎子の呼びかけが聞こえているのかいないのか、身じろぎひとつしない。
「私は大切な人々と芸術的良心を守るために、あなた方に協力を求めていました。けれどそれがいつしか、私の自由を奪う枷となっていたことに、愚かにも暫く気づかなかったのです。決断しさえすれば、私は自分の力でどうにかできたはずでしたのに。きっと、過信と誇りと、心弱さのせいですわね」
「……」
「あなた方父子は、私に、正義とは何かを教えて下さいましたわ。けれどそれは、生きている我が子を葬らなければ保てないものでした。そんな程度の正義ならば、私は潔く捨てましょう。その代わり、生まれ持った人間の良心を新たな指針として生きていきます。さようなら」
別れの言葉を告げると、黎子は、再び前に向き直った。涙の痕は痛々しいが、その顔はどこか晴れやかである。客席の人々にも、また建物の外で待っていた群集にも、その力強さは確かに伝わった。「村野女史万歳!」「ルリ・キネ万歳!」「頑張れよ、女史!」歓呼の声が響き渡って、帰っていく映画人、舞台人達を賑やかに送り出した。
璃枝子は暫く母と、姉とともに並んで歩いていたが、ふと折を見て、列の後方に回った。そこには、まだ足を引きずって歩く他磨己と、介添役の蛍子がいた。
蛍子は璃枝子の姿をみとめると、よく心得たとばかりうなずいて、そっと前の方に移っていった。自然、介添の役目は璃枝子が担った。
「今日はありがとう。おかげで、全てが元の鞘に収まったわ」
「あ、ああ……」
彼は明らかに赤面して、柄になく戸惑っている。女鳥と呼ぶべきか、璃枝子と呼ぶべきか、未だ決めかねているのである。それは彼女の方も同じようなものだった。いっそ、自分から駒を進めてみようか。
「嫌ね、いつも自信満々なのに、こんなによそよそしくなさって……他磨己さん!」
ハッと振り向いた彼の瞳は、丸く大きく見開かれて彼女を凝視する。かつて、兄と妹として接してきた時分には現れなかった、否、隠してきた愛情が、その眼差しに立ち込めてくるのがわかった。
「お前のためなら、一肌でも二肌でも脱ぐつもりでやってきたまでだよ。璃枝子」
「まあ、俄かにお元気になったわね、他磨己さん」
「よせやい。ほら、列に遅れるぞ」
「ええ」
けれど内心では2人とも、遅れてもいいと思っていた。その方が、この幸福を少しでも長く引き伸ばせるに違いないからである。
*題名は、松竹の加茂撮影所で製作され、大正13年(1924年)1月に封切られた映画「愛の力」から。
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