第11章 激流

 少しばかり時は戻る。


 女鳥の乗った車は、目的地に着く大通りをひた走っていく。道中ファンに追いかけられないかと気がかりだったが、そうしたことは全くなく、したがって事故等で遅れることもなかった。


「この分だと予定通りに着きますよ」

「ありがとう」


 運転手の岡部が気遣うように言ってくれるのが、不安な心に射す一筋の光となって、女鳥を元気づける。自動車はなおも、滑らかに夜の通りを進んで……。


「……女鳥さん、どうしますか」

「……どうかなさったの」

「この先の道で、何か騒ぎがあったようです」

「迂回できないの?」

「無理ですね。一本道ですし、引き返すのもままなりませんから」

「そう。でも起こってしまったことは仕方がないわ。悪いけれど、行ける所まで行って下さらない。そこからは歩いて行けばいいもの」

「承知しました」


 やがて自動車が停止し、騒動の手前まで来たことを女鳥に知らせた。


 岡部が後部座席の女鳥を振り返る。女鳥は微笑を浮かべ、うなずいてみせた。


「扉は自分で開けるわ。では、行って来るわね」

「お気をつけて、女鳥さん」


 彼女はもう一度大きくうなずいてから、把手に手をかけ、押し開けて夜の道に降り立った。途端に、夜の冷気に乗って人々のわあわあ喚く声が耳に響いてきた。


 ――車道にまではみ出して競り合っていた群集だったが、誰かが後方を振り向いて「石川女鳥だ!」と叫ぶと、俄かに秩序を取り戻した。


「女鳥さん!」「めんどりさん!」「おい、女鳥嬢をお通ししろッ」


 かくて彼女は、何が何だかわからないまま前に前に押し出されていく。そして最前列に来た時、やっと全貌を目の当たりにしたのだった。そこには、車道のほぼ片側を占拠するように居並ぶ婦人達がいた。勿論ただ居並ぶだけにあらず、「若者間の風紀を乱す者に制裁を!」「芸術の攪乱者に罰を!」などと勇ましいことを叫んでいる。ご丁寧に、垂れ幕まで用意しているのを見ては、唖然とし、また呆れざるを得ない。


 道路を塞いでいるという自覚があるのかないのか、迂回したり脇を通ったりする自動車から何度野次られてもお構いなし、これ見よがしに垂れ幕や立札を掲げる猛者もいる。


「あのおばさんども、女鳥さんを『対決』に行かせないためにあんなことしているんですってさ」


 書生風の青年が女鳥に耳打ちで教える。未だ物凄い勢いで喚き罵る婦人達を見やって女鳥は、その垂れ幕に『銀嶺会』とあるのに気づいてハッとなった。銀嶺会……それは村野女史が代表を、そして女鳥の母が幹部を務めていた婦人会の名ではないか。女鳥は母が会を追い出されたと、少し前に手紙で知らせてきたのを思い出した。


 数間隔てて対峙する婦人会員達を、女鳥はじっと見据えた。恐らく半分程は、母が部屋に飾っていた集合写真で見たことのある顔だっただろう。が、今眺めている彼女達のそれは、憎悪のために醜く歪んでいる。本来は、慈愛に満ちた面をしていたであろうに、と考えると、何か悲しいものがこみ上げてくる。


 女鳥は一歩一歩、婦人達の集団の方へ無言で歩み寄った。対する婦人達の方はますます騒がしくなる。


「来たわ、絶対通してなるものですか」

「我らが村野女史に歯向かうなんて生意気よ」

「何が何でも引き返させてやるのです。この娘は若者をたぶらかし、世の秩序を乱す悪魔の落とし子なのです!」


 前列で立札や垂れ幕を掲げる中高年の婦人達が、喚きながら女鳥を睨みつける。中でも、ギスギスに痩せた小柄な老婦人は、顔を真赤にして今にも掴みかからんばかり。――それでも女鳥は怯むことなく、まっすぐに近づいてくる。固く引き結んだ唇に、並々ならぬ決意を窺わせて。――婦人の一人が、脇に置いていたバケツを振り上げた。


 豪快に散る水しぶき。避ける間もなく、女鳥は頭からこの急襲をもろに喰らってしまった。白い肌に黒髪がペッタリ貼りつき、銘仙の振袖からも袴からも、幾粒もの水滴が流れ落ちていく。傍で目にしたファン達がどよめく。一方、婦人達は大はしゃぎである。


「よくやって下さいましたわ、大倉夫人!」「さあ、観念なさいよ!」「こんな格好で女史と張り合うなんて、身の程知らずというものですわねえ」「早く引き返しなさいまし」


 キャアキャアと、まるで娘のようにはしゃぐ婦人達だが、その顔は身勝手な喜悦のために醜く変わり果てていた。一致団結して他者を排除する優越を、ここぞとばかり味わっている。女鳥を応援しに来た若者達が抗議の声を上げてもどこ吹く風、なぜって彼女らには「女史のため」「若者達を浄化するため」「芸術を健全化するため」というご立派な大義名分があるのである。そう、たとえ形骸化していても――女鳥が口を開こうとするだけで「生意気よ!」と喚き立てるような真似をしても――大義名分には違いあるまい。ひょっとしたら、女史の意思よりも、彼女らはこの大義の方を重んじるのかもしれない。


「皆さん、私は女史と話し合うために――」

「お黙りなさい、不良娘のくせに!」

「いいえ、黙ってなんかいられません――一体あなた方は何をなさりたいのです? ただお互いの理解の場を奪っているだけではありませんか。あなた方にいつそんな権利が与えられたのですか!」


 鋭く切り込む声に、さしもの婦人連も一瞬たじろぐ。しかし、ギャラリーが女鳥を応援し始めたのを知ると、躍起になって応酬を始めた。自分達こそ女史の一番の理解者なのだ、その自分達が敵を退けて何がいけない、味方が正しいのはわかり切っているのだから議論などいるものか、云々。


 この喧騒の真ん中に立つと、女鳥には自分の足場の脆さがよくわかる。そもそも、敵と味方に分類すること自体がナンセンスなのだということ。女史派の婦人もルリ・キネのファンの若者も、本質は同じなのだということ。自分が正しいと思ったものにしがみつくが、その不安定な柱は見て見ぬふりで済ませていること。


 ふと、女鳥は、女史も同じ気持ちを味わってきたのではないかと思うに至った。……そして、静かに、婦人達に告げた。


「私はあなた方の敵になったつもりはありません」


 予想もしていなかった言葉に呆気に取られて、しんとする婦人達。――何も聞き取れなかった背後のファン達が、女鳥の勝利を称賛し、婦人連中を罵る。女鳥は彼らを振り返り、よく通る声で厳しく諫めた。


「あなた方もお止めなさい。あなた方にだって、他人を口汚く罵倒する権利はないのです。たとえ、誰の後ろ楯があったとしても」


 ――静まり返った人垣の中を、女鳥はずぶ濡れのまま突き進んだ。幾つもの眼が見送る中、彼女は勇進日報社の社屋へと消えていった。




 女鳥と婦人会員達の闘いは、勇進日報社社屋の大会議室の窓からも眺められた。『対決』を目前にした村野女史も外の喧騒に引き寄せられて、とうとう全てを見てしまった。


 婦人会の者がいつの間にかこの近くに来ていたことにも驚いたが、何よりも女鳥の気迫に心奪われずにはいられなかった。彼女は本気で、この自分に立ち向かおうとしている。他者を受け入れない頑固さや、我を通そうとする強引さとは絶対的に違う真剣さが、窓の外からも伝わってくるようだ。


(流石はあの子だわ)


 女史はいつしか女鳥に、今は敵同士となっている少女に、敬意にも似た感情を抱いた。婦人の一人が水を浴びせた時には、思わず憤怒のために拳を握りしめたほどだった。


「石川嬢がそろそろ到着します」

「女史、愈々だぞ」


 勇進日報社の社員、それから陣勇之進が続けざまに女史を促す。息子の恭太郎も目線で、女史の立ち位置を示してくる。『キネ天』の記者達のみが冷めた目でその様を見守っている。


「ええ」


 諦念を眉間に漂わせて、女史は言われた通りにする。しかし、その心の内はどうであろう? 忘れかけていた感情の炎が、再び燃え出してはいないだろうか……?


 ……女鳥は濡れねずみのまま、雫をぽたぽた垂らしながらこの『対決』の場に姿を現した。彼女はまっすぐに女史一人だけを見据え、力を込めて、語りかけた。


「村野女史。私達ストライキ組と、その応援者の方々の思いを、仲間として、どうぞお聞き入れ下さい。そしてご自分のお心以外の何にも惑わされずに、感じ、考えていただきたいのです」

「……」

「女史。私達は善悪の判断がつかないのではありません。単なる反抗心や反逆欲求を満たしたがっているのでもないのです。ただ、自己表現の方法を求め、他者のそれに心からの共感を持とうとした。それだけのことです。この意思は、自分だけが所有できるもので、決して他者からの強制や抑圧を受けてはならないものです。自分を所有できるのは、自分だけなのですもの。そうでしょう?」

「……」


 沈黙する女史。女鳥は相手の眼差しに迷いのようなものを見出した。あと少しで、この人の心を変えることができる気がして、女鳥は更に懸命に語りかける。


「女史。私は先程あなたを応援する方々から洗礼を受けましたが、その時心から思いましたのは、私達は敵味方に分かれて対立する必要などないのだということです。心からの共感と先程申しましたけれど、お互いのうちどちらかでもそのような気持ちを持っていたならば、事態はもっと早く収まったかもしれません。少なくとも、対立を煽る言葉に乗せられ、躍らされることはなかったはずですわね」

「……」


 相変わらず女史は黙りこくっている。女鳥は辛抱強く相手が話し出すのを待った。そのうちに、相手の瞳に、迷いとともに恐怖が浮かんでいるのをみとめた。


 なぜそんな感情を抱くのだろう? こちらは理解を求めて一生懸命に話したのに……。半ば苛々として女鳥は、ふと相手から視線を逸らした。その時になって漸く、相手の後方に陣父子が立っているのに気がついたのだった。子供は険しい顔で、父は苦々しい顔で、女史の背中を刺すように見つめている。無言ながら、絶対に妥協させまいとする圧力が感じられる。


 このように露骨に口止めされているのを目の当たりにしては、女鳥も腹を立てずにはいられない。余程外に出てもらおうかと思ったところで、微かな物音がしたので振り向く。


 ……なぜ今まで気づかなかったかと、俄かに背筋がぞっとする。小太りの薄汚い男が、扉の陰から、こちらの様子をずっと窺っていたのである。




 男は、自分の出る幕を見定めていた。女鳥がこちらに一瞥をくれたのを合図に、堂々と会議室に入り込んできた。さながら英雄か、王者のように。


「黎子、久し振りだな!」


 彼はやにわに、そうがなった。女史の表情が絶望的なまでに強張る。その時、女鳥はハッと思い当たった。この人、いつかの酔っ払い男だわ……。かの真夜中の出来事が、彼女の中に鮮やかに蘇ってくる。


 無意識にあとずさったところで、ふと背後に人の気配を感じて女鳥は危うく飛び退きそうになる。


「まあ、兄様!」


 なぜいらしたの? いつ足をお怪我なさったの? 色々と問いたいことがたくさんあったが、それを問わせない威圧感が兄の全身から発散されているようで、できなかった。こんな兄は、妹の女鳥でさえ見たことがないものだった。――そのすぐ後ろには、これまた蒼白な顔をしたルミラが、半ば背中を向けて立っていた。


 ふいに、酔っ払い男が威儀を正して(とはいえ足元はふらついている)、口上を述べ始める。


「皆々様、お初にお目にかかる。拙者はこの女に人生を壊された、哀れな男でござる。拙者は元々、旅芝居の一座の花形役者なりしも、ここにいる黎子、その候は小夜女と名乗りしが、その女と婚約し、幸福の絶頂にありし者でござる。だがこの不実な女は、活動写真の興行師、村野という若造と密会しガキまでこさえ、挙句出鱈目を並べて村野との結婚を座長に認めさせ、悠々と一座から去りたれば……何しやがる、放せッ」


 今し方駆けつけてきた警備員達に取り押さえられて、独特の台詞回しもどこへやら、男はあっという間に本性を現した。


「女史、今の話は本当かね? どこかで聞いたような話じゃないか、え?」


 陣勇之進はにやにやと、村野女史の後ろを行き来しながら尋ねる。女史はますます血の気を失い、唇まで震わせている。息子の恭太郎はといえば、女鳥の傍に他磨己とルミラがいるのを見て青くなったり赤くなったり。――その間も男の喚きは止まらない。


「思い出したぞ、そこにいるのは石川女鳥だな! お前にも責任はあるんだ。俺が役者としての復帰を頼もうとしたのに、お前はずっと無視し続けた。直談判しようとしてもすげなく追い返した。もし俺の力になってくれたなら、俺はこんな騒ぎを起こしてまで妻の不貞を訴える必要はなかったのになあ」


 女鳥は何も言い得なかった。男の理屈に呆れ果てたのである。見るからに怪しく素性も知れない人間に、手を貸す方こそ頭がおかしい。


 ずっと黙って男の暴走ぶりを、また集まった人々の様子を注視していた他磨己だったが、この時やっと口を開いた。


「おっさん、嘘のお涙頂戴物語なんか、誰も感動しやしないぜ。俺に劇場の前でさんざ喚いといて、足までこんなにしやがって(と松葉杖を示した)、その上まだ美談を語りたいっていうのかい? 真っ平だね」

「何ッ俺は嘘なんかついてねえッ」

「――それじゃあ、真実を知っている私が証人になって差し上げますわ」


 艶やかな声が響き渡って、一同はハッと視線を巡らせる。


「だめよ!」


 悲痛な叫びが、村野女史の口から迸った。が、ルミラは前に出て、やはり他磨己がしたように、居並ぶ人々をじっくりと見回すのだった。陣勇之進、恭太郎、村野女史、勇進日報社の記者達、『キネ天』の記者達、他磨己、女鳥……。そして最後に、怪しい男をじっと凝視して、彼女は皮肉な笑みを浮かべた。それは傍から見ても、ぞっとするほど凄絶な表情であった。


「ねえおじさん。私が誰だか覚えていらっしゃる?」


 男は、相手のあでやかな着物姿を上から下まで眺め回して「知らん」と言い放った。


「そう。よくぞおっしゃいました。ということは、この石川女鳥嬢に直談判しようとした時にいた女が誰かも、わかっていらっしゃらなかったのね」

「ああ、あの乱暴な女か! 何とかいう女優だろう」

「ええ、そうですとも。でも私、その後で知りましたの。――3歳の時の私とあなたとは、面識があったということを」


 彼女の顔から笑みが消え、眼差しが一層鋭い光を帯びる。


「おじさん。私の本名は、村野瑠美子というのです。これを聞いて覚えがないとは言わせませんよ。私のお父様はあなたの手で殺されたのですから!」


 息を呑む音がそこここで起こる。窮地に陥った男、相変わらず取り押さえられながらも、ひどくもがいて怒鳴り散らした。


「このクソ女、アバズレめ、勝手ばかり言いやがって――」

「何が勝手だ。それはお前の方だろう」


 ぴしりと厳しく抑えつける他磨己。


「そもそも、お前と村野女史が婚約していたという話自体、事実じゃない。お前が片思いか征服欲のあまりに作り上げた妄想に過ぎないのさ。実際は、女史は村野氏と興行先で出会って恋に落ち、誰に咎められることなく愛を深めていったそうだ。そのうちに、一座の皆に祝福されて正式に夫婦となった。その時点でもう、旅芝居の一座からは離れていた。子供、つまりこの瑠美子が生まれたのはその後のことだ。……まあ、活動写真の興行を続けながら子育てしていた村野夫婦のことだから、何かの折に同じ地方でお前さんの一座と出くわしていてもおかしくはないがね」

「私が3つの時、旅先で妹が生まれたわ」


 ルミラ――瑠美子と呼ぶべきであろうか――は、強張った微笑を漏らした。心なしか声音も堅く、震えているようにも思われた。女鳥は彼らの話を聞いていて、何かどきどきと妙な緊張感が胸中を往来するのを感じた。


「お父様、お母様、私、妹。家族4人、宿屋でくつろいでいた時、あなたが現れた。手に銀色の刃が光ったのを、大人になった今でも覚えている。あなたの爛々とした異様な目つきも。お母様は私と妹をその腕にかばい、お父様ひとりが立ち向かった。そして、あなたの凶器の下に倒れた。……あと少し遅かったら、私達母娘も同じ目に遭っていたでしょう。けれど悲鳴を聞きつけた大人達が、駆けつけてきてくれて、間一髪のところを逃れ得たの。その時にあなたが叫んだ言葉……それが私達母娘の運命を変えたんだわ。そうでしょう、お母様?」

「……ええ」


 急に呼びかけられて村野女史は、それしか口にできなかった。その胸中には、昔日の痛ましき思い出が嵐のように渦巻いているであろうものを。瑠美子もその様を目の当たりにすると、自分の口からは悲劇の結末を語るのはどうしても心苦しくて、その先を続けることができない。他磨己が代わって話し始める。


「お前は女史と幼い姉妹に向かって、こう言ったらしいね。『復讐してやる。てめえら、3人ともあの世へやってやる。初めに黎子、それからそのガキ、最後に赤ん坊の順だ』……と。その後お前は監獄に行ったわけだが、女史は万が一脱獄された時の用心に、子供2人を養子に出すことを決意した。いざ自分が殺されても、子供達はそれぞれの場所で生き延びてくれるとただ信じて。……そうして、母娘3人は離ればなれになり、子供2人に至っては父母の記憶も薄いままに成長していった。母の女史はルリ・キネを興して映画界の重鎮の一人に。姉娘の瑠美子は別の旅芸人一座に引き取られた後オペラ女優を経て、ルリ・キネの専属スターに。そして妹娘の――」


 そこまで話された時、男が一瞬の隙を突いて警備員達の拘束から逃れた。と思う間もなく懐に手を突っ込みざま、他磨己に向かって突進していったのだ。足を怪我して、容易に逃げ得ぬ彼は俄かに戦慄を感じた。


「お前、何を――」

「うるせえッ!」


 男が振り上げた手には、銀色のナイフが光っている。あの日と同じように。


 鋭い刃が雄叫びとともに振り下ろされて――。


「やめて! やめてちょうだい! ああ、璃枝子!」


 響く悲鳴。女史の狂ったような泣き叫ぶ声。他磨己の手を離れて滑り落ちた松葉杖の衝撃音。人々のあたふたと行き交う足音がこだまする。


 ……倒れた他磨己は、ゆっくりと目を開いてみた。と同時に、自分の胸に覆い被さるそれに気づき、絶句した。


 ナイフが目の前で光った瞬間、動かせぬ我が足を自覚した。もうだめだと目を瞑ったが、その時何者かに突き押されたことはわかった。


 それがまさか、彼女であったとは。


「間に合ってよかったわ、兄様」


 恐る恐る身を起こすと、彼女……女鳥が自分の身体にしがみつきながら、弱々しく笑いかけているのが目に入った。袴の腰の部分に、未だナイフの柄が刺さってゆらゆらと揺れている。それがふとした弾みで、ぽろりと床に落ちた。


 冷酷なほど鋭く響く金属音。


「ああ!」


 村野女史はショックのあまり、その場に失神してしまった。男は既に取り押さえられ、どこかへ連れ去られていくところである。


 こうしてはいられない――他磨己の頭もはっきりしてきて、今どうするべきか、考える余裕が出てきた。しかし、先まで女鳥の腰に刺さっていたナイフを見やることは、どうしても忍びなかった。


 彼はズボンのポケットから手巾を引っ張り出し、それを女鳥の袴の下に差し入れて強く押しつけた。次第に温みゆく手巾は、自分の体温によるものか、女鳥の血潮によるものか……? 確かめるのも恐ろしくて、彼はその状態のまま、女鳥を抱きしめ続けた。


「嬉しいわ……私本当に嬉しい……兄様が私をこんなに力一杯抱いて下さるのですもの……」


 彼女は、無邪気な子供のような、安心しきった微笑を浮かべて他磨己をじっと見つめている。その澄んだ黒眸には微塵の苦悶もない。しかしながら、悲しいことに、他磨己の背に回された彼女の手は、力なく、ずり落ちていく。


 いつか傍らに膝をついていた瑠美子も、その様を瞬きもせずに見守っている。


「……『キネ天』の方々がお医者様を寄越して下さるって」

「……ああ」


 丁度、女鳥の腕がだらりと垂れ下がった。その面は眠るように穏やかで、美しい。


 2人は無言で、首をうなだれたのだった。




*題名は、帝国キネマ小阪撮影所で製作され、昭和2年(1927年)9月に封切られた映画「激流」から。

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