第10章 奮え若者
「……あんたその足どうしたの」
人目を避けて、待ち合わせ場所たる喫茶・華にやって来たルミラは、開口一番そう言った。
「いや、色々あった……というより、あわされた。とりあえず、行こうか」
ぎこちない手付きで松葉杖をつきながら、少しずつ歩む他磨己。左足にぐるぐる巻かれた包帯が痛々しい。自然ルミラが介添えするような格好になる。心なしか、背後のマダムも心配そうな眼差しを向けているらしく思われる。
外に待たせていた自動車に乗り込んでから、他磨己は漸く、この前の出来事を語った。酔っ払いをやり込めた直後、向こうが腹いせに鉄棒を叩きつけてきた事件である。
「鋭い痛みが走って、カッとなって怒鳴ったらあの男はそそくさと逃げちまった。その後のことは気を失っていたからよく覚えていない。何せ、痛くて、痛くて……。次に目覚めた時は、もうご覧の通りさ(と、左足の包帯を示してみせた)。骨が砕けているとか何とか言われた気がする。あ、いつ頃治るかって聞きそびれたな、いけねえ」
「でも、この分じゃ完治するのはずっと後になりそうね」
「まあな。それから、気を失っている間に、俺……」
彼は話そうとしていた言葉を呑み込んだ。――気を失っている間に、自分は始終女鳥の名を口にしていたと蛍子に聞いた。――しかしながらそう告白したところで、自嘲以外の何になるというのだろう。それならば心にのみ留めておいた方がいいように感じた。彼の女鳥に対する思い、それから疑惑を隠すためにも。
ルミラは聞き返そうかどうしようか少し迷って、結局何も言わないことにした。車内はひたすら沈黙に包まれたまま、夜の街を駆けていった。
やがて、車は指定された料亭の門前で停止する。既に、背広姿の細身の男がそこに立っていた。
「オウ、石川さん、ルミラさん、よくいらっしゃいました」
ねっとりと媚を含んだ話し声で、電話で聞いていた他磨己は勿論、ルミラもこれが例の「不審な男」だとすぐに察した。セールスマンのようににこやかな顔も、下心に染まっているように見えてくる。
とはいえ、2人も役者の端くれ。できるだけ友好的な雰囲気を装い、男のぼろが出るのを待ち構えていた。他磨己との電話の内容から、何かしらの謀があるのは明白であったから。
――予算の関係か知らないが、3人が通されたのは4畳程度の小さな個室。それぞれの膳の前に座ったところで、このささやかな宴は幕を開けた。大して愛想のない娘が徳利や小鉢の類を次々と運んでくる。
「今のところは何もないわね」
「ああ。だが警戒心は捨てるなよ。絶対何か企んでいるから」
微笑の陰で囁き合う2人だが、こうして当初の目的を確かめ合わないと忘れ果ててしまいそうなほど、宴は何事もなく進んでいった。交わす会話も、世間話の域を出ない。
たまりかねて、とうとう他磨己は自分から口を切った。
「隅田さん(というのが男の名だった)、そろそろ本題に入っていただきたいものですね。電話ではあれほどしつこく、俺に映画界入りを勧めておりましたが、もしかして気が変わったのですか? そうそう、それから石川女鳥のことでも大事な話があるとか」
「はい?」
隅田は徳利の最後の一滴を猪口に空けながら、暫し考え込んだ。いい加減顔が赤くなっている。こいつ大丈夫かなと2人がいぶかしみかけた頃になって、「ああそうだそうだ」とやたら大声を張り上げた。
「私としたことが、誠に相済みません……仕事の話をすっかり失念しておりました。ええ、お2人さえその気なら、話しますものを……」
彼はその後もそうした趣旨のことをぺらぺら喋りながら、左手の袖に右手の指を差し入れてごそごそやり始めた。そのすぐ近くには、空っぽの徳利が立ててある。2人がその光景をじっと凝視していることに気づいているのか、いないのか。
「私はねえ、石川さん。舞台でのあなたを拝見して以来ずっと、才能のある方だと思っておりました。そして、あなたの才能を映画界でこそ発揮していただきたいものだと考えておりました。現今の日本映画界は、私の目からしますと、誠に……」
「左手がどうかなさったのですか? 先程からずっと気にしておられるようですが。虫にでも刺されましたかね」
「え、ええそうなのですよ。外に出た時に蚊か何かにやられたのか、いやに痒くってね。お許しを」
しかしながら彼はそれっきり、袖の中をいじりはしなかった。話は再び、仕事のことに移る。それも、以前よりさらに馴れ馴れしい調子で、つんのめるようにしてまくし立てる。初めは離れていた膳が、いつの間にかくっつきそうなほど近づいていた。
「石川さん! これほどまでに言ってもあなたはお断りするのですか。いやはや、意思堅固を通り越してもはや頑迷と言わねばなりますまい。いいですか、あなたの芝居は銀幕の大写しにも十分耐え得るものですぞ」
「何度おっしゃられても答えは同じです。否」
「そんなことおっしゃらないで下さいよ。こうして関係者だけに絞ってお話ししているのですし」
彼は空のはずの徳利を握って、次第に他磨己に詰め寄ってくる。顔だけは赤いが、目は案外しっかりと据わって、多少怒ってみせたくらいでは怯みそうにない。足を怪我している他磨己は、この狭い部屋を逃げ出すこともままならず、じりじりと壁際に追い詰められるばかり。――ただの勧誘でここまでしつこくされるはずがない。どう考えてもおかしい。
傍で成り行きを見守っていたルミラも、愈々不信感を強めた。相手と直接対峙している他磨己は言わずもがなだ。
隅田は徳利を思わせぶりに目の前にかざしつつ、酒臭い息を吐いて他磨己を凝視する。もはや2人の間に会話はない。隅田が他磨己を完全に壁に押しつけ、逃げ場を失わせ得た今、口を動かして何になろう。主導権は、彼の側にある。
「石川さん、よくお聞きなさい……」
勝ち誇ったように言いながら徳利を持っていない方の手で他磨己の肩を掴もうとする。彼の手が触れた途端、他磨己の怒りは沸点に達した。
「無礼じゃないかッ!」
叫ぶなり、猛然と相手の腕をはねのける。その弾みで、隅田の徳利の中身が勢いよく撒き散らされた。彼自身の顔に――。
「アア! アア!」
急に苦しみ悶える隅田。脚が膳にぶつかり、料理や食器が床に転げ落ちる。そこに彼自身も倒れ込む。絶叫に近い悲鳴が、狭い個室にこだまする。きっと外にも聞こえていよう。
他磨己とルミラは逃げることも忘れて、ただ抱き合ってこの凄惨な光景に目を見張るばかり。
「……あんた一体何したの」
「あいつの腕をのけただけだよ。猛烈に腹が立ったもんで……もしかして、馬鹿力で骨でも折っちまったかな。とはいえ、正当防衛だと思うけど」
「……でも、痛がっているのは腕じゃなくて、顔みたいよ。それに、あの徳利は空っぽだったはずなのに、どうして中身が……」
「もしかと思うが……」
2人はそろそろと、倒れたままの男に近寄った。顔を覆う両手をそっとどけてみて、2人は思わず目を背けた。――左頬の辺りを中心に、斑状に焼けただれた顔は、直視するにはあまりにおぞましかった。――ふと他磨己は、自分の洋服の袖から焦げ臭い匂いがするのに気づいた。袖口に点々と、煙草の先程度の焦げ穴がいくつも散っていたのである。
「薬品らしいな。俺達を誘き寄せたのは、これを浴びせるためだったのか」
「ここに未使用らしい小瓶もあるわ。私も標的の一人だったようね」
踏み潰された豆腐の辺りから、硝子製の小さな試験管のようなものを摘み上げるルミラ。確かに、コルクの蓋がきっちり閉じられている。未使用であり、また使える時にすぐ使えるようにしてあったものと見て間違いあるまい。
「……石川さん、ルミラさん。私はこの通り、任務遂行に失敗しました。どうぞ憐れんでやって下さい」
蚊の鳴くような声がして振り向くと、変わり果てた隅田が喘ぎ喘ぎ、一生懸命に喋っているのだった。
「お話しになっては傷に障るのじゃありませんか。どうぞ、ご無理なさらないで……」
「いいえ、ルミラさん、話さないわけにはまいりません。私はあなた方の顔を、ひいては役者生命そのものを、今の私のように台無しにしようと謀ったのですから。そしてそれは、ある人の依頼によって為そうとしたものなのですから。ここに全て、書いてあります……」
彼は自らの背広の内側を指し示した。他磨己がそっと探ると、確かに、分厚い革の手帳がポケットに収められている。
「これですか?」
隅田はうなずいた後、力尽きて失神してしまった。丁度、騒ぎを聞きつけた人々が医者も引き連れてやって来たところであった。
他磨己とルミラの2人は、簡単な取り調べのみですぐに帰された。2人は元のように自動車に乗り込み、浅草の他磨己の住まいに向かった。そこで、かの手帳を紐解いたのである。
女鳥のこと、ルミラのこと、村野女史のこと、果ては陣父子のこと。どれも、ごく一部の者しか知らないはずの情報ばかり。無言で読み続ける他磨己もルミラも、心ここにあらずといった風であった。隅田が託した秘密の物語に、2人の内面は滅茶苦茶に引っ掻き回されていた。
蒼白な顔に浮かぶのは、怒りか、驚愕か、はたまたその両方か、どちらでもないのか。彼ら自身にもわからない。
問題の新作『彼女は星の彼方から』の封切日。そして、夜には例の『対決』が予定されている。
この日の『勇進日報』は朝刊から、その2つの話題に多くの紙数を割いた。通常こうしたゴシップは夕刊に載せられるものであるだけに、相当躍起になっていることが窺える。
ルミラは癪だと思いつつも、敵情観察の必要性から『勇進日報』を定期購読していた。自分の名では怪しまれるので、女中の駒子の名義で取ってもらっていた。
ここ暫くは種切れと見えて、お座なりの陰口や事実無根の醜聞に終始していたのだが、『対決』が近づくにつれて俄然、村野女史を持ち上げ始めた。些か唐突な感じがしないでもなかったが……。そして今日、『対決』を直前にしてその盛り上がりは頂点を迎えたのだ。
まるまる一頁、女史の決意表明と題してまとめられた記事の数々。どれも扇情的、かつ好戦的な文句に満ちている。女史が書いたとは到底信じられない低俗さ。ルミラは我知らず唇を噛んでいた。
その隣の頁には、腹立たしいことに、陣恭太郎の応援文と写真がでかでかと掲示されている。彼こそ女史の真の理解者で、映画芸術への協力者でございという面構え。
一般の読者が読んだら、女史は芸術と正義のために立つ雄々しき女性、恭太郎はその賛同者にして将来有望な芸術家と映ってしまうだろう。反対に自分達ストライキ組は、無秩序な謀叛人どもとしか思われないだろう。何て酷い情報操作だろうか!
と、すぐ後ろから女鳥が覗き込んでいるのに気づいてハッとなる。
「まあ女鳥ちゃん、吃驚するじゃないの」
「ごめんなさい。あんまりルミラさんがお怒りのようでしたから、何が書いてあるのかと……」
「そう、私そんなに怒って?」
「ええ、背中越しにもわかるほど」
2人はどちらからともなく吹き出した。そして、改めてその紙面を2人して広げて見るのだった。
「愈々今日よ。女鳥ちゃん、怖かない?」
「大丈夫。私達には観客という味方がいて下さるわ。栄介さんもこの間言っていらしたじゃないの」
それは、撮影を終え、編集作業もそろそろ完了するという頃合いのこと。出し抜けに栄介が、監督の尾藤に、また仲間達に向かってこう提言したのだ。
先生。俺らには、観客という味方がいます。彼らに効果的に訴える必要があると思うのです。つまり、映写するフィルムの末尾に、俺達の宣言文を入れてみたらどうかと考えているのです。……奴らには新聞がある。でも俺達には、スクリーンがあります。同時に多くの人が同じ感動を覚えるのです。その特性をこの時こそ、使うべきだと思うんです。作り話だけを映し出すのが映画じゃない。そうでしょう?
彼の言葉には説得力があった。真先に感心の声を上げたのは尾藤である。
ああ、お前は凄いところに目をつけた。そうだな、今すぐ取りかかろう。栄坊、これはお前が監督としてやってみろ。
誰もそれに意義を挟む者はなく、皆が栄介を取り巻いて指示を仰ぐ。初めは少し戸惑いかけた彼も、やがていつも以上にてきぱきと人々を動かし、また自らも大いに働いた。俳優としては女鳥のみが駆り出された。出来栄えは? 今夜の封切後に明らかになろう。
「うまくいくといいわね、女鳥ちゃん。そうしたらきっと何もかも元通りになってよ。……少しはゆっくりできるようになるはずよ」
「ええ、ルミラさん。今日一日を頑張って、明日からはちょっとお休みをいただいてもいいわね」
今更ながら2人は、自分達がここのところずっと働き詰めであったことを思い出した。今日の封切と『対決』を一つの区切りとし、明日からは一週間ほど休暇を取るのも悪くない。
女鳥は、あれ以来ずっと会っていない兄の他磨己が、無性に恋しかった。もし明日から休みになるのならば、真先に彼に会いに行こうと決めた。今日の大仕事を終えて一皮むけた妹の姿を、兄はきっと認めてくれるに違いない。そう思うと、いても立ってもいられないような気さえする。自分の無邪気さが我ながら可笑しくて、女鳥はいつか微笑を浮かべていた。
――その頃、当の他磨己はというと。
こちらは妹と違い、ちらとも笑みを見せず、じっと黙りこくって頭を抱えている。あの哀れな隅田のしわがれた声が、一緒にいたルミラの淡々とした声が、耳底にこびりついて離れないのである。また、手帳にびっしりと書き込まれた文字が、ともすると眼前に浮かび出でるのである。恰も彼自身に決断を迫るがごとく……。
東京は神田、規模は小さくとも趣味の高さで知識階級の人々を惹きつける、その名も「キネマパレス」! 通常は洋画を専門に上映している館が、今夜ばかりはルリ・キネの話題作を封切上映する。テケツ売場の前では、熱心なルリ・キネ映画のファンが数時間も前から居並んで、興奮気味に議論し合っている。日曜の夕方、若い男女や家族連れがその様を奇異そうに眺めながら通り過ぎていく。
季節は初夏。爽やかな風が、ファンの少女の袴の裾をそよがせる。……女鳥のファンの少女達は、示し合せたように「めんどりさん」スタイル――振袖に、短く着付けた袴と、革靴――でやって来る。また、それを目印にして新たなファンが列に並ぶ。その繰り返しのうちに、座席券のみならず、立ち見の券まで全て売り尽くされてしまった。
続々と埋まっていく座席を、舞台袖から覗き見て、栄介も興奮を禁じ得ない。
「凄い! 立ち見まで出始めましたよ。こんなのルリ・キネ始まって以来の大盛況じゃありませんか」
「その通りだよ、栄坊。それも皆、根っからのファンらしいな。顔つきでわかる」
「顔?」
「ああ。皆、自分の確固たる意思で、ここにやって来た。『勇進日報』の記事を鵜呑みにした冷やかしの客は一人もいない」
監督の尾藤に言われて、栄介は改めて目を凝らしてみた。確かに、居並ぶ人々の表情には、自分の信じるものを正しく、また最後まで信じ通すという心意気が漲っているように見える。それは単にルリ・キネのストライキを応援するだけにあらず、『勇進日報』に代表される旧弊さ、低俗さに染まってなるものかという彼ら自身の抵抗を示しているのかもしれなかった。
「幸先がよいですね。こちらを罵る奴がいたら困ると思っていましたが、杞憂でしたね――」
栄介がそう口にした時、館内の照明が落とされた。パレス専属の須田弁士が説明台に立つと、熱のこもった拍手が辺りにこだました。そうして愈々、『彼女は星の彼方から』の映写が始まった。
張り詰めた空気の中、人々はその美しい映像に、行き届いた演出に、巧みな芝居に引き込まれ、やがて物語の世界に入り込んでいった。彼らは、女鳥演じる少女の境遇に同情し、ルミラ扮する令嬢の心優しさに胸打たれた。悪人が登場すると申し合わせたように野次を飛ばすのも面白い。須田弁士の声が切々と物語を語り、専属の楽団が美しい音色で画面を彩って……そして観客の息もつかせぬうちに、少女と令嬢との愛溢れる幕切れへと繋がっていく。
エンドマークが出ても、観客達は拍手や歓声を止めなかった。と、その時。突如として目の前のスクリーンに字幕が映写された。
『映画は終わった』
『だが、現実は終わっていない!』
にこりと微笑する女鳥の大写し。客席中が沸き返る。
『彼女はまさに今、行かんとしている――』
『敵の陰謀を白日の下に晒すために』
ばさばさと入り乱れる新聞紙のカット。内容どころか出版元さえ明らかでないが、人々はそれが『勇進日報』だと即座に直感したに違いない。
『諸君!』
『彼女に多大なる声援をお願い致します』
『あるべき我らがルリ・キネに立ち返るために』
『映画を愛する人々、そして』
『映画芸術の発展のために!』
再び女鳥の大写しがにこりと笑い、くるりと振り返って颯爽と歩き去っていった。
――今度こそ館内に灯がともって、上映が終了したことを告げた。しかし、一人として帰ろうと腰を上げる者はない。今し方目にしたものに興奮冷めやらず、誰もが何かを始めたくてうずうずしているようだった。
彼らの熱意は、やがてある一つの噂となって館内を駆け巡った。
「石川女鳥と村野女史の対決はどこでやるんだ」
「勇進日報社の社屋だよ」
「いつから?」
「夜の9時」
「あと1時間か」
「先回りしないか、おい。女鳥嬢に事あれば、俺達で護ろうじゃないか、諸君!」
一人の青年がすっくと立ち上がってそう叫ぶと、次々とそれに和する者が現れる。
「賛成、賛成!」「俺も行く」「私も行くわ。勇進日報社は知り合いが勤めているから、場所知っているの」「よし、案内して下さい」「ええ、いいわ。丸の内方面なの。……」
人々は勇み足でそこを出て行った。結果として、観客のほぼ全員が勇進日報社方面に向かっていることになる。……とうとうカーテンコールに呼ばれ損ねた主要キャストとスタッフ連中は、些か面食らいつつ、無人の舞台に立ち尽くした。
「君、初監督作は予想以上の出来栄えだったようだね」
弁士の須田が苦笑いしつつ、栄介の肩をポンと叩く。
「ありがとうございます。嬉しいやら、吃驚やら……」
例の予告部分を仕上げた張本人の栄介、戸惑いを隠せない。そこへいくと尾藤なんかは、流石のもので、余裕綽々としている。
「俺はこうなると思っていたよ。石川君に味方が沢山できて、よかったじゃないか。そうだろう、ルミラ君」
「ええ、味方ができたのは私も嬉しいのですけれど……」
女鳥を護るという目的のもとに集まった者達であっても、結局は興奮した群集に変わりはないのではないか。何かの弾みに大事故が起こらないとも限らない。万が一、そうなったとしたら、女鳥も無事では済むまい。暴徒化した人々を、女鳥一人の力で食い止められるとはとても思えない。
「女鳥ちゃん、私も一緒に行く――」
たまりかねてそう告げかけたルミラを、そっと制止する女鳥。
「大丈夫。私は一人で行くわ。是非そうさせてちょうだい」
そして女鳥は、一同に向き直って『対決』に赴くことを宣言した。その後、表で待たせていた自動車に単身乗り込み、走り去ってしまった……。
女鳥の声も姿も、今までにないほど生き生きと明るく、力強かった。ルミラとてもそれを認めないわけにはいかない。けれど、なぜ大切な、大切な彼女を一人で危地に遣ったのだろう。ただの一言も止められなかったのだろう、という、今となってはどうしようもない悔恨が次々とルミラに襲いかかった。まるで、この後に悲劇が約束されているとでも嘲るように。
「……やっぱり私も行きます」
誰に言うともなく言って、ルミラは舞台を降りてそのまま客席を走り抜けた。外に出て、はたと立ち止まる。このキネマパレスから、どのようにして勇進日報社の社屋まで行けばよいのだろう。先程の観客の後について行ければよかったのだが、既に彼らの姿はどこにも見えなくなっている。当惑して暫し立ち尽くしていると、見慣れぬ自動車が目の前で停止した。
「ルミラ!」「ルミちゃん、久し振り! 早く乗りなさいよ」
幌付きの自動車の窓から、他磨己が顔を出す。次いで、かつての仲間だった丹羽モミヂが、屈託のない笑みを向けてきた。
「まあ、どうしてあなた方が」
「いいから早く乗りなさいってば。女鳥さんの『対決』の応援に行くんでしょ。私はただの足代わりだから、詳しいことは他磨己から聞いてよ」
断っても仕方がないので、後部座席に乗り込んだ。他磨己は手短に、女鳥の『対決』の場で陣父子を告発することについて説明した。それから、こうも付け加えた。
「実は、陣父子とは別に、懸念していることがあるんだ。例の、隅田氏の手帳に書いてあることが本当なら……」
ルミラはそれ以上聞くのがなぜか恐ろしいような気がして、ふっと顔を背けた。他磨己もそれ以上は口を噤んだ。
「……道、渋滞しているみたいね」
モミヂの独り言が、取り残されたように車内に響く。
*題名は、帝国キネマで製作され、大正15年(1926年)3月に封切られた映画「奮へ若者」から。
*作中にある「テケツ」とは、「チケット(Ticket)」のこと。
*作中のキネマパレスのモデルは、神田の淡路町にあった実在の映画館「シネマパレス」。洋画を専門にしているが、昭和4年(1929年)には日活、松竹の傑作大会を行うなど、よいものは積極的に上映する方針だったようである。
作中に登場する須田も、実際にシネマパレスで活動していた弁士「須田貞明」をモデルにしている。「若手中の逸足として東部説明界に渋く明るい説明ぶりで人気のあった、そしてパレスをよく理解して(、)一寸スペイン文学かロシア文学かの感じのした彼、長身の彼、和服の彼、牛込っ児の彼、撞球、野球の好きな彼」……当時のプログラムによれば、こんな人物だったそうだ。その須田さんは、昭和4年9月にパレスを辞める際、プログラムに別れの辞を残している。これが往時のパレスを偲ばせる貴重な証言だったので、ここに一部を引用する(旧漢字・旧仮名遣い改め)。
(前略)
スマートな、可愛らしいパレスでの二年間はいろんな意味で僕に多く教えてくれるものがありました。緑の不滅燈(、)立派な説明台、オレンジ色のカーテン、みんな忘れ難い思い出です。
(後略)
(『週刊シネマ・パレス VOL.4 No.39』〈日本映画テレビプロデューサー協会編『懐かしの復刻版 プログラム映画史 大正から戦中まで』(日本放送出版協会、1978年)〉)
ちなみに、シネマパレス所属の弁士と楽団(昭和3年(1928年)当時)は以下の通り。
弁士…荒井雅吾、須田貞明、松本政次郎、武井秀輔、水谷正夫
楽団…オルケストル・ロココ
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます