第9章 愛する者の道

 石川女鳥がストライキ組の一人として、改めて声明を出した。――自分達の要求が容れられるまでは、『花のゆくえ』の製作に決して戻らないつもりである。また、資金源である勇進日報社の者とは、余程のことがない限りは関わらない。――そう、はっきりとあらゆる新聞や雑誌に載っていては、村野女史も事態を認めざるを得なかった。声明を出すに至った経緯は知らされていないものの、自分の対応の拙さが引き金のひとつであろうことは容易に想像できる。


 これで、『花のゆくえ』製作続行は絶望的になった。


(この撮影所もいずれ引き払わなくちゃ。そして、どこかの狭苦しい事務所を借りることにでもなるんだわ)

(でもその方が、今後のためにはいいかもしれない)


 女史はもう、映画界から去るという悲痛な覚悟をしていた。脚本家や製作者の職を捨て、これまでもやってきた婦人活動家としての仕事にのみ邁進しようというのである。その領域ならば流石に、あの父子も足を踏み入れて来るまい。それに何より、醜聞に関わらず自分を援けてくれる味方が、彼女の属する婦人会「銀嶺会」には確かに存在する。


 事務室の机上に置かれた封筒を、女史は再び手に取った。届いたのは昨日で、その場で開封してもいる。けれど、何度でも開いて、読み返したくなる。


 分厚い手紙の送り主は、石川夫人だった。言わずもがな、女鳥の母親である。しかしながら彼女は『花のゆくえ』の問題と婦人会の話題とは切り離して考えることのできるうえに、女史の置かれた立場の苦しさをもよく理解してくれる、稀有な人物だった。


『女鳥の方からも度々手紙を寄越してきますが、向こうは向こうで楽しくやっておるそうでございます。今は沈黙を守り、向こうの作品の完成を祈るのが最良だろうと考えます。世論がそちらに向けば、あなたもかの父子を告発しやすくなりましょうから。……辛いお心の内、私も万分の一くらいはわかるつもりでおります。けれども今は忍ぶ時。そしてあなたのお心のためには、他のことで気を紛らせることも必要ではなかろうかと勝手ながら思うのでございます。このお手紙がお手元に参ります頃は、丁度我らが銀嶺会の定期会合が近づいておりましょう。この頃はご無沙汰でしたでしょうから、是非お出で下さいまし』


 こうした意味合いのことが、数枚の便箋に、優しい慰めの言葉とともに連ねてあった。それらに元気づけられて、女史は自分が会長を務める「銀嶺会」に久々に赴く気になったのだった。『花のゆくえ』を発表した辺りからずっと、忙しさにかまけて会合を欠席しており、その間の代理を副会長の石川夫人に任せきりにしていたので、色々また教えてもらわねばなるまい。


 ともかく女史は、長い欠席期間による不安などは大して感じることなく、懐かしい会合場所に車を走らせた。


 会合場所たる、××園の一室では、婦人会員達が女史の来訪を待ち詫びている。待ちながら、雲雀のようにぺちゃくちゃ喋り合う。――少し前までならば、それを諫める者もあったのだが。


「では、大倉夫人、あなたも?」

「えーえ。すっかりあの忌まわしいストライキ組にうつつを抜かしちゃって。兄弟揃って情けないことですわ」

「うちの息子だって。勉強ちゃんとやっているんだから好きなことしても構わないだろって、尋常のくせに生意気申しますのよ。女学生の娘の影響に違いありませんわ。娘は、例の、石川女鳥に恋慕しているのですけどね」

「それくらいならまだ可愛いですわよ。うちの娘なんか、これ見よがしに部屋にルミラとかいう女優の引き延ばし写真なんぞ貼っちまいましたわ。あんなもの飽かず眺めて、いつあんな悪魔みたいな女に感化されるかと思うと、恐ろしくって」

「即刻破いておしまいになればいいのよ」

「皆さん、村野女史がいらっしゃいましたわ」


 その一言で、中年の婦人達は姿勢を正し、日本髪や束髪にわざとらしく手を当てて整えるふりをするのだった。程なくして、女史当人が現れた。


「……ご機嫌よう、皆さん」

「ご機嫌よう、村野女史」


 元気よく挨拶する彼女らを眺め回して、女史は瞬間戸惑った。そこに居並ぶ人々の半数以上を、見知らなかったからである。一方、自分の片腕のように信頼していた石川夫人の他、有能な幹部会員達の顔が見えなくなっているのはどうしたわけか?


 ざわつく気持ちを愛想のよい笑顔で紛らして、声を張り上げる。


「ずっとこちらの会合を空けておりまして、どうも相済みませんでしたわ。私が忙しさにかまけて来られぬ間、沢山のお方が加わったようですね。会長の私から感謝申し上げます」

「皆さん、女史の信念にご感激なさっていらした方ばかりです」

「そう、それは心強いこと。……あの、石川夫人ですとか、今日はお出でになりませんでしたの?」

「ああ、あの方は……ねえ」


 受け答えをしていた田代夫人――人脈は広いが正直、頭の回転はよくない――は意地悪く含み笑いする。


「私達の意見、即ちこの会の総意に反対なさいましたので追放いたしましたの」

「ええ?」

「仕方がございませんわ。あの方達は今のあなたが置かれている状況も理解せず、まるで関係のない議題ばかりを持ち込むのですもの。それに、撫子婦人会との合同にも反対なさるものですから」

「撫子婦人会との合同、ですって?」


 村野女史は我を忘れて聞き返した。撫子婦人会は、村野女史の主催するこの銀嶺会とは理念的に相容れず、常に犬猿の仲だったではないか……? 田代夫人は女史の驚きぶりが可笑しいのか、ひっひっと引きつり笑いをしながら答える。


「ええ、そうですよ。前々から、撫子の方々と我々の理念とはぴったりすると思っておりましたので、勝手ながら、あなたのいらっしゃらない間に決議しましたのよ。それで、大半が賛成をなさいましたので、晴れておめでたく合同したわけですわ。……今この場に見えない人々は皆、反対票を投じた者なのです。その人達は既に除名済みだとご了解下さいまし」


 つまり、自分が席を空けている間に、有能な女性達が幾人も去っていったのだ。それも、他の会員達や、睨視し合っていた撫子婦人会の会員達に追い出されるような形で。――ああなぜもっと早くここに戻らなかったかと悔やまないでもなかったが、得意満面の人々を前にしてそのような素振りはできなかった。彼女達は少なくとも、今窮地に立たされている自分にとって全面的な賛同者となってくれる貴重な存在なのだ。何としても失ってはいけない……。


「そう。よくわかりましたわ。では、石川夫人達がいらっしゃらないのも道理ですわね。それから、改めて、撫子婦人会の方々、ようこそ我が銀嶺会にご参加下さいました。……では、会議を進めましょう」

「ええ」

「議題は、私の記憶に間違いがなければ、新たなる支援先の審査だったかと思いますが……」

「まあ、女史。もっと大事な議題があるではありませんか。あなたご自身にもっと関係あるものですよ」

「『花のゆくえ』の製作続行についてですわ」「ルリ・キネのストライキ組への待遇の問題ですわ」

「皆さん、そうした私的なことを私は会に持ち込むつもりは毛頭ないのですよ――」


 しかし会員達は女史の言葉などてんで耳に入らないように、またもぺちゃくちゃと好き勝手に喋り始める。


「やっぱり、私達は断固として『花のゆくえ』と勇進日報社を応援する姿勢を示さなければなりませんわ、そう思いませんこと」

「ええ、ええ。そして、ストライキ組の解散とその有害なる製作物を破棄させるよう働きかけることも必要でしょう」

「そうですわねえ、女史の名で出せば、世間体にも大いに示しがつきますもの」

(やめて! 彼らの行動を妨げてはいけない……それも私の名でなんて)


 女史の戦慄を見た者は、幸か不幸か、この場には一人としていなかった。


「――ホホホ、では筆の立つ須見夫人、声明文をお願いいたしますわ。次の会合までに、ですよ」

「ええ、任せて下さいまし。名文を拵えて参りますから、ホホホホ……」

「それから、この声明に向こうが従わなかった場合は如何いたしましょう」

「そんなことは、初めから決まっています。製作物の上演を中止させるのです。たとえ彼らが劇場にしがみついても、引っ張り剥がす覚悟で臨むのです」


 この中でも最年長と思しき老婦人が、断固たる態度でそう言い放ったので、人々は自然口を噤んでそちらに向き直った。この間にできた沈黙を、村野女史はやっとの思いで捉え得た。


「皆さん、ちょっと落ち着いて下さいまし。そして冷静にお考えなさいまし。もう実施が決まり方々で期待されているというような演し物を、中止に追い込むのは、とても困難なのですよ。興行主はそうしたことを非常に嫌うものですからね。それに、彼らの映画を楽しみにしているファンが、中止になったと聞いたらどうなるものか、わかりませんし、製作する彼らだって……」

「村野女史、そんな甘いようでは、ますます付け上がられるばかりです」


 ぴしゃりと叩きつけるように言って、老婦人は分厚い眼鏡の奥から女史を見据える。


「女史のおっしゃるファンの中には、我々の子や孫も含まれているのです。私達が彼らに遠慮して大人しくしているという法はありません。悪いものは悪いのだと教えるためにも、公開を強制的に不可能にするべきです。欲しいオモチャが手に入らなけりゃ泣き喚くでしょうが、そのうち疲れて眠るのがオチでしょう!」

「流石、明快な答えですわ、荒井夫人」「やっぱり6人のお子さんを立派に育て上げただけありますわねえ」


 拍手を始める会員達。この場の空気はすっかりこの荒井夫人とやらがさらってしまった。こうなると、たとえ会長の村野女史といえども口を挟めない。……女史は諦めて、力尽きたように椅子に座った。


(仕方ない。遅かれ早かれ、こうなることは運命だったのよ。ルリ・キネのストライキは、私個人でどうにかできないほどに膨張してしまったのだから)


 それから女史は、内なる疑問の声を封じ込めて、この会合の時間をやり過ごした。女鳥やルミラがこの状況を知ったらどう思うか、それすらも彼女は考えまいとした。全てを丸く収めようとしたところで、もはや無理なのだから。




 案外臆病ですことね、兄様。さっきからの言葉だって、どれも私の目を見ずに言ってのけましたものね。


 兄様、兄様、勘弁して下さいませ! 今の私は、誰の親切も受け容れられそうにないんです……。


 あの日、女鳥に言われた言葉が、彼女の声音や感触とともに幾度も他磨己の脳裏に蘇る。蘇るばかりでなく、衛星のように彼の周囲を回り回って、中々離れてくれない。それは、彼自身があの時の接し方を後悔していることの証左でもあっただろう。といって、あの時他にどんなことを言い、実行することができただろうか? 怒りを焚きつけて無鉄砲な行動に走らせかねなかった、あの状況で?


(本当なら、俺は、彼女の言う通り、真正面から目を見て兄として諭すべきだったんだろう。そうすれば、女鳥だって、冷静な気持ちに立ち返って耳傾けたはずだ)

(それをしなかった、いや、できなかったのは……)


「いやな他磨己さん、また、めんどりさんみたいな人を沢山描いて」

「え?」


 蛍子に言われて漸く我に返る他磨己。彼は、芸華会の次公演の準備で、雑踏の背景画製作を手伝っていたのだが、ぼんやり動かしていた絵筆の下に、似たり寄ったりの断髪娘が幾人も入り乱れているという有様である。それも皆、どこか悲しそうな、繁華街の雑踏には不似合いな、浮かぬ顔をしている。


「いや、これは基準となる人物を沢山拵えて、あとは髪型で違いをつけようというやり方だよ。効率化のためだ」


 自分でもよくわからない理屈をこねながら、断髪にお下げを描いたり、縮れ毛を足したりする。蛍子とて、それが苦し紛れの言い訳だというのは百も承知なので、「ああそうなの」と一言返事したきりどこかへ行ってしまった。他磨己はとりあえず、ほっとした……のも束の間、再び姿を現す蛍子。


「ちょっとー、誰か来て下さらない」

「どうしたんだよ、行ったと思ったらまた戻ってきて」


 大勢描いていた女鳥の分身を隠すようにして、言葉だけは威勢のよい他磨己。しかし相手が自分をからかうためにやって来たのでないことが、その不安げな表情からすぐに読み取れた。


「ええ、さっき表を綺麗にしとこうと思って、出てみたのよ。そしたら、酔っ払いがうちの前うろうろしているのよ。私絡まれたの、振り切ってきたのよ。ねえ、追っ払ってちょうだいな」

「放っとけよ。無視してりゃ害はないんだろうし」

「でもずっと何か喚いているの。『俺は哀れな男だ』『俺は腕利きの舞台役者だ』『悪い女に騙され、再起を図れば若い奴には見捨てられて、ついていたことなんかありゃあしねえ』って、その繰り返し。延々あんな風に喚かれちゃ、ここら全体の営業妨害じゃないのさ」

「うーん……」


 考えるふりをしてみせたが、考えるまでもなく、自分が行くしかない状況だった。用心棒になり得る重松ら、屈強な男性陣は丁度別の劇場に招かれて留守だし、居残っている僅か数人は揃ってひょろひょろと頼りない風貌で、到底不審人物には立ち向かえそうにない。同じ痩せているでも、看板役者が務まる程度の体力と態度の尊大さ(?)は持ち合わせている他磨己ならばまだ可能性はあるというもの。


 それに、蛍子によるその「酔っ払い」評に、ぴんと来るものがあった。以前ルミラが、ルリ・キネの撮影所付近にそんな男が出没したと報告してきたのを思い出したのである。そいつは、女鳥に妙な手紙を何度も送りつけた挙句あのような狂行に及んだとのことだったが、今劇場の真ん前でうろついている「酔っ払い」と同一人物ならば、一発のめしてやらねば気が済まない。……と、このように自らの中に闘志を奮い立たせて他磨己は、背景の前から漸く立ち上がった。その後ろから蛍子が、水を得た魚のようにひょいひょいとついて行った。


 ――件の酔っ払い男は、蛍子に教えられるまでもなくそれとわかった。左右にふらふら揺れながら劇場の前を輪状に巡り歩く、どう見ても不審な人物。確かに、蛍子の、或いはルミラの報告と全く同じことを大声で繰り返している。「俺は哀れな男だーア、俺は役者だったんだーア」云々。


 他磨己は男の視界に入る位置を見極めて、そこに仁王立ちになった。


「おっさん、いい加減にしろよ」


 厳しい声で一喝。中年男は漸く、こちらに注目した。……が、大人しく引き下がるわけでは勿論ない。男の眼には、彼らは自分の悲劇講談の聴衆としか映らないので、益々激しくがなり立てた。


「おい聞けよ。俺ほど不幸な男はいねえんだぜ。悪い女に捕まったのが運のツキで……」


 酒臭い息を吐きつつ、他磨己の肩を掴もうとする。しかし、容赦なく突き飛ばされた。地面に転がりざま男が吠える。


「何しやがる!」

「それはこっちの台詞だ。初対面の人間に挨拶もなく掴みかかる奴があるか。早く失せろ、この虫けら野郎」


 突き飛ばされた男は、無様な姿で地面に転がったまま野良犬のように唸っている。口の中で、下品な侮蔑の言葉を並べているらしい。その視線は、相手の、絵の具のついたズボンをたくし上げた白い脛と、下駄履きの白い足の辺りをぼんやりとさ迷う。


 ――男が一向立ち上がらないので、他磨己はさらにもう一歩進んだ。これが最後通告だ。冷酷な声を、男の禿頭に突きつける。


「とっとと消えろ。そして二度と顔を見せるな。我が身が可愛いなら」

「クソッ……どいつもこいつも」


 よろけながらもどうにか身を起こす男。その姿を、凍てつくような沈黙とともに見つめる他磨己。どちらが勝ったかは誰の目にも明らかであろう。後方の物影に隠れながらこの光景を見守っていた蛍子が、思わず含み笑いを漏らす。


 と、男は目にも止まらぬ速さで懐中から棒状のものを取り出した。打たれると思いとっさに身体を交わしかけた他磨己。しかし男が狙ったのは彼の、下駄履きの素足であったのだ。


 強打する音が辺りに響く。


「早く出て行けッ!」


 他磨己の権幕に、先までの偉そうな態度はどこへ行ったか、男はすくみ上がってほうほうの態で逃げて行った。からからと転がる鉄の棒と、下卑た捨て台詞と唾とを置き土産にして。


 ――厄介者がその場から見えなくなった瞬間、他磨己の身体がくずおれた。


「他磨己さん!」


 後ろではらはらしていた蛍子が駆け寄る。遠巻きに見ていた、通りの店の人々も心配そうに近寄ってくる。


 鉄棒の直撃を受けたらしい左足の甲は、既に赤黒く腫れ上がって、熱をもってさえいた。


「何て酷い……許さない、あのクズ男! ああ、私がこの人を呼びに行かなければ……」

「おけいさん、怒るのも悔やむのも後になせえ。タマキ坊の手当をしなきゃなるめえ。とりあえず、劇場の中に運び込もう」

「ええ」


 けれど、浅草の人々に運ばれながら辛そうに喘ぐ彼を見ていては、やはり怒り悲しまずにはいられない。


 彼は、あの鉄の塊が振り下ろされた直後に倒れなかった。男を完全に追い払うまで、物凄い痛みに耐えて屹立し続けたのだ。何という気丈さだろうと感心すると同時に、ただ後ろに立っていただけの自分が嫌になる。こんなことになるなら、いっそ最初から自分一人で男に立ち向かうべきだった。


 申し訳なさに涙ぐみながら、もう一度、他磨己を見やって……その唇が頻りに何かを呟いているのに気がつく。よくよく観察すると、「女鳥」と呼んでいた。


 女鳥……彼の妹の名を。




 某興行主宅の離れ。一通り『彼女は星の彼方から』の撮影を終えて、尾藤達ストライキ組は心からなる万歳を叫んだ。次いで拍手が、朗らかな笑い声とともに澄んだ空に吸い込まれていく。


「お疲れ様、2人とも。素晴らしい演技だったよ」

「ありがとうございます」


 主役の女鳥とルミラとは揃って頭を下げた後、お互いを労わり合うのだった。


「ルミラさん、今まで本当にありがとう。私いつも助けられてばかりだったわ」

「謙遜することないわ、女鳥ちゃん。私もあなたが相手役でどんなにやりやすかったか」


 ――2人が撮影用の衣装から私服に着替えていると、外が俄かに賑やかになる。耳をそばだてると、どうやらこの邸宅の主人夫婦が何か振る舞ってくれたらしい。我知らずいそいそとした足取りで、控室たる小部屋を出て行く。


「ああ、ルミラさん、女鳥ちゃん、やっと来た。ほら、奥様お手製のレモン・スカッシだ。旨いぜ」

「栄介さん、取っておいてくれたのね、ありがとう。……美味しいわ」


 硝子の杯に注がれた薄黄色の甘い飲み物は、目にも爽やかだが、連日の撮影や何かで披露した身体にも一層染み渡るようである。


「栄介さんは、この後もまだ仕事?」

「ああ。今度は編集作業さ。どんなに巧みに撮れた画でも、編集が拙いと駄作に落ち込んじまう。やりがいがあるよ」

「脚本に撮影に編集に、栄介さんは何にでも重宝されるのね。熱中しすぎて身体壊さないようになさってね」

「お気遣いありがとう。でも女鳥ちゃんだって、まだ休めないだろう。今度の『対決』の準備でさ」

「ええ……」


 彼らの言う『対決』とは、その名の通り、ストライキ組とかつての雇用主――即ち村野女史が相対して互いの意見を述べ合うというもの。勿論「第三者」の立ち会いのもと行うのだが……。


「本当に大丈夫かい? 勇進日報社の主催みたいなものだろ。当然、話し合いの場に陣父子も出しゃばってくるだろうし」

「ええ、だから『キネ天』の記者さん達にも同席をお願いしたんじゃないの。女史の側に陣父子が立つなら、私達にも誰か付けなきゃ不公平だって」

「まあ、君がそう言うなら『第三者』の問題はさて置いて……。女鳥ちゃん、本当に、本当に、一人きりで乗り込むつもりか」


 念を押す栄介の声につられてか、周囲の者達も心配そうな視線を女鳥に投げる。横にいるルミラまでも、どこか懇願するような眼差しをしている。


 しかし女鳥は、決然とこう答えたのだった。


「ええ。私一人で平気よ」


 ――丁度1週間前に、勇進日報社の名入りの封筒がこの邸に届いた。それこそ『対決』の詳細を記した、いわば敵からの果たし状で、一同はこれに応じるべきかどうかを長いこと論じ合った。


 この論争に終止符を打ったのが、それまで黙って周囲の意見を聞いていた女鳥であった。


 皆さん、これは私達が女史と和解できる唯一の機会かもしれません。応じるべきですわ。


 そして少し間をおいて、この大役は是非自分に与えてほしいとはっきり伝えた。一同は驚きながらも、大切なスターを危地に赴かせることはできないと反対した。しかし女鳥の決意は固く、誰が何と言おうと折れない。


 自惚れだとお思いになるかもしれませんけれど、私は女史とも陣父子とも繋がりを持つ唯一の人間です。全てを丸く収める可能性が、私にあると思ってはいけませんかしら。


 とうとう一同は彼女に説得されて、彼女をストライキ組の代表として『対決』に送り出すことにした。とはいえ不安が消えたわけではないので、先程の栄介のように、頻りに念押ししてしまうのが常であった。それに対する答えもまた、いつも同じく「一人で平気」。気のせいか、尋ねる度に彼女の意志はますます強まっていくらしかった。感化されたのか、この頃では皆も、女鳥に密かに期待するようになっていた。


「まあ、確かに我々の中では石川君が最も適任なんだろう。あの頑固な女史や陣父子も君には一目置いているし、映画ファンにとっても君の言葉は大切な意味を持つだろうから」

「ありがとうございます、監督。決して皆さんを後悔させるようなことはしませんわ」


 彼女の力強い返事に、自然と拍手が湧く。彼女は少しばかり照れたが、恥じらいはしなかった。自分こそ皆の代表として、女史達に主張し、談判しに行くのだと、その瞳をきらめかせた。――彼女は、恭太郎の策謀に陥れられかけたあの日、そして兄・他磨己の機嫌を損じてしまったあの瞬間から、変わらぬひとつの思いを抱き続けていた。即ち、自分一人の力で何かを成し遂げなければならないということである。今回の『対決』の話を最初に聞かされて彼女は、それこそが自らが成し遂げるべき「何か」なのだと直感した。――自分の愛するもの、信じるものに最大限の誠意と勇気を見せる絶好の機会となることは疑いなかった。これを逃して他者の栄誉としたならば、一生後悔するであろう。彼女はとうとう、そうまで思い詰めたのである。


 ルミラはそうした女鳥の姿を目の当たりに見てきて、心配はしても、精一杯の応援はしようと決めていた。今までも女鳥の意思を尊重してきたつもりではあったが、思えばどれも、何かしらのお膳立てをしていたかもしれなかった。今度の『対決』は、文字通り女鳥だけの力で、とことんやらせてあげようと彼女は自らに言い聞かせ続けた。


「ルミラさあん、お電話でございます」

「はアい」


 呼びに来た女中について、ルミラは一人、賑わいを離れた。


「……電話って、どなたからです」

「石川他磨己さんとおっしゃいました」

「そう」


 口には出さないが、不安が彼女の胸をよぎる。無精者の他磨己がわざわざ電話をかけてくるなんて、まずもって珍事といわねばならない。一体、何の用件だろう? もしや、陣父子の魔手が芸華会にも迫っているのではあるまいか……。


「……もしもし、ルミラだけど」

『ああ。急に済まない。どうしてもお前の耳に入れておきたいことがあって』

「どんなこと? 女鳥ちゃんに関係することかしら」

『多分な』


 彼はつい昨日、不審な男から食事の誘いを受けたのだと、打ち明けた。


『奴は、俺を好待遇で活動屋の仲間にしようっていうんだ。食事の場で口説き落とすつもりらしいや。初めは断ろうと思ったんだが、どうも裏に何か隠しているみたいなんで、暫く話を合わせてみた。ハア俺が御所望ですか、ホウ、うちの劇団には有能なのが沢山いる、そいつらも一緒に連れて行きましょうか……とかね』

「小芝居はいいから。で、どうなって?」

『それは向こうが嫌がった。どうも俺だけが目当てみたいだ。芸華会の中では、な』

「どういうこと」

『お前に無断で悪いが、お前の名前も出してみたら、それは是非呼んでくれというんだな。……で、散々焦らして、やっぱり活動は性に合わないからとフイにしようとすると、大急ぎでこう言うのさ。実は女鳥のことも話したくて、と。じゃあ当人も同席させようかと提案したら、俺とお前2人だけいればいい、とさ。ひとまず後で返事することにしたが、愈々おかしいと思わないか』

「ええ。……あんたと私だけに何かを言う、或いは何かをする心積もりなのね」

『ああ。女鳥や他の関係ない奴を排除して、俺達だけを目的にするってことは……』

「考えたくないけど、私達は狙われているのに違いないわ。相手は陣父子のどちらか、或いはどちらも、でしょうね」

『だが、それなら何のために?』

「私達の身に何かあれば、スターとしての女鳥ちゃんの後見役は恐らく村野女史に、つまりはその後ろにいる陣勇之進に移るはずよ。その息子の恭太郎は、女鳥ちゃんを婚約者にしたがっている。前に無理矢理あの子を手籠めにしようとして失敗して以来、ストライキ組の皆で護っているから手出しはできていないだけで、いつか奪回してやろうと機会を窺っているはずだわ」

『そうか……』

「それに、あんたも知っているだろうけど、例の『対決』がある。彼ら父子は、絶対に自分達が勝つように仕向けるわ。手段も選ばずに。……で、どうする?」


 他磨己は瞬時の間考えてから、言った。


『例の食事の誘いは、乗ってみるよ。ルミラ、お前には悪いが、同席してほしい。嫌なら断ってくれてもいい』

「断るもんか。寧ろ望むところさ」

『ありがとう。……じゃあまた連絡する』

「待って」


 通話を切ろうとする相手を、咄嗟に制するルミラ。その途端彼女は、これからすることの重大さに、がくりと膝の力が抜けてしまいそうな気さえした……。


『何だ』

「……もしかしたらその日、女鳥ちゃんのことで大事な話をするかもしれないわ」


 相手は明らかに、不審を感じたようである。が、この場では何も聞き返すことなく「わかった」と一言答えたきりで、通話を打ち切ってくれた。


 ルミラはその後も放心したように、暫し受話器を手にしたまま呆然と突っ立っていた。その胸の内に、激しい感情が嵐のごとく巻き起こっているのが、太く長い溜息からも察せられよう。




 ルリ・キネの事務室にいながらも、村野女史は相棒のペンを持つこともなく、ただ映画雑誌をめくって時間を潰していた。会社にも、婦人会にももはや必要とされなくなった今、こうして過ごすほかなかったのである。


 あと何日かの後、勇進日報社主催の『対決』があることは勿論知っている。が、どうにもやる気にならない。本当は敵方を、つまり女鳥を言い負かすだけの材料や何かを用意し、万全の状態で臨めるようにしなければならないのであろう。そして恐らくは、女鳥達の方もそうしているはずである。


 けだるい手付きで、昨日買った雑誌を一頁一頁めくり、見出しのところだけをぼんやりと流し見る彼女。ふと、その視線がある記事に釘付けになる。


『注目の新作『彼女は星の彼方から』の封切に先立ち、主役2人は語る』


 見出しの下には、女鳥とルミラの顔写真。ここ最近の村野女史は、無意識のうちに2人の、そして例の映画の情報ばかりを追いかけている……。


『この作品が皆さんに注目いただけることを本当に嬉しく思っております。私達の作品に込められた思いを、まっすぐに受け取って下さい(石川)』

『私はこの作品を、ファンの方には申し訳ないのですが、ある大切な人に捧げたいと願っているのです。その人はこの言葉を、自分に向けられたものとして読んでいるのかわからないけれど、きっと思いは伝わっているはず。そう信じています。いいえ、信じさせて下さい(ルミラ)』


 女史の頬に久し振りに、本当に久し振りに、微笑が戻った。


 これらの言葉が自分に向けて語られたものだと、女史は信じて疑わなかった。このような逆境にあっても、なお自分の良心を信じてくれる2人の優しさを思うと、女史の目にはひとりでに涙が滲んでくる。2つの陣営の間で立ち往生しているだけの自分が、たまらなくもどかしくなる。


 ああ、こんなことをしていてはいけない。他人の言いなりにならず芸術と自由のために立ち向かい、突き進んできた昔を思い出すのだ。愛する人々のためにも!


 女史は身内に勇気が湧いてくるのを感じつつ、ペンを手に取った。インク壺のインクを含ませてから、まっさらな原稿用紙を文字で埋めていく。彼女は今、陣父子と勇進日報社への絶縁状をしたためているのである。これを書き上げた暁には、彼女はストライキ中のかつての仲間達のもとで新たなスタートを切ることができる……そう考えていた。


 しかし、運命はやはり無情なものである。彼女が原稿用紙に署名を施そうとしたまさにその時、かの冷酷な足音が近づいてきた。はっとする間もなく、ドアが開いて足音の主が姿を現す。彼、陣勇之進と村野女史とは無言で対峙した。


「……」


 彼は伴の者を一人連れて、ずかずかと奥まで入ってくる。


「陣さん。約束もしていないのにいきなりやって来て、この無礼は何ですか。ここは私と社員のための仕事部屋なのですよ。ご自分の会社の社屋と勘違いされては困ります」

「社屋か。ハハハハ……それもよい」


 陣氏は全く意に介していない。出鼻を挫かれて、女史は一瞬言葉に詰まった。


「時に、女史。例の『対決』の準備は進んでおるかな」

「私、あれには出ないつもりでおります」

「ほう?」


 彼の太い眉がぴくりと吊り上がる。


「陣さん、よくお聞きなさいませ。私はもう、自分の愛する人々と芸術のためと称して、自らの心と乖離したことをし続けるのは嫌なのです。それでは誰も幸福になるはずがないのですもの……。ならば私は寧ろ、どんな危険や苦難を被っても、自らの良心に従い、正直に生きていくべきだと思うのです。それこそが、人々が私に望むことであると、やっと悟ったのです」

「言いたいことはそれだけかね」

「あと一言だけございますわ。陣さん、私はあなた方父子と勇進日報社とは、今後一切関わりを持ちません」


 女史は力を込めて、そう言い切った。そして、手元の原稿用紙に素早く署名をして、封に入れて閉じた。


「この後お宅にお送りする予定でございましたが、丁度いらっしゃいましたから、今差し上げます」


 敢えて高飛車に言ってのけ、封筒を相手に押しつける。彼は無表情のまま、封を切って中の用紙を開く。


「……ほう。絶縁状か」

「ええ」

「こんなものまで用意されたのでは、仕方ない。どれ、わしも署名して正式に受け取ろう。書くものはあるか」

「ええ、お持ちしますわ」


 勝ったのだ! 喜びに上ずりそうな声をどうにか抑えつつ、自分の机からペンとインク壺を取っていそいそと陣の前に置く。


 彼は手近な机に用紙を広げ、女史の用意した筆記具に手を伸ばす。ペンを執るのだと誰もが思うだろう。しかし彼が掴んだのは小さなインク壺の方であった。


 バシャッと音を立てて、黒いインクが用紙に、机に、更には傍らにいた女史の着物にまで飛び散った。


「何をなさるんですッ!」

「ハッハッハ……」


 彼は心底から可笑しくてならぬというように、高笑いを止めなかった。


「随分なお人好しだな。わしがそんなものを本気で受け取ると思うか。お前さんはわしらの大事な取引材料だ、自由にさせておくわけにはいかん。ましてや、こんなことを企てていると知ったからには……」


 彼の目が残忍な光を帯びていくとともに、女史の顔は恐怖に蒼ざめていく。


「あの男に、お前さんや他の2人の居場所を伝えてもいいのだぞ」

「やめて、それだけは! やめて下さいまし! わかりましたわ、あなたのおっしゃる通りにいたしますから、どうか……」


 跪かんばかりに泣きつく彼女。人々から正義の女性、芸術に生きる女流作家と崇められる彼女が、自分の経済力と策略の前には無に等しき存在となり下がるとは。陣氏は残虐な喜びをしゃぶり尽くすように味わう。


「まあ、わかってくれたならよい、よい。それはそうと、お前さんの着物まで汚してしまって済まなかったな。一張羅だろう」

「ええ……」

「『対決』の日までに、わしが良いのを見立てて贈ろう。いつも思っとったが、女史はその社会的地位に見合わず地味であった。『対決』ではせめてもう少しましな格好をして、敵方を萎縮させてやりたまえ、ハハハハ……」

「……」

「女史、『対決』では石川女鳥嬢が相手だが、負けは承知せん。情けはいらん。しっかりやれよ」


 高笑いを響かせて、彼は伴と一緒に室を出た。ややあって、女史の慟哭する声が背後に聞こえてきた。しかしそれも、自らの足音と笑い声に紛れて、やがて気にならなくなる。


「考えれば哀れな女だ。たった一人で立ち上がりし者は、倒るる時も孤独なるべし、か。おい、今の文句は良いな。次号の記事で使えるよう書いておけ」

「ハイ」

「それが見出しだ。小見出しは、そうだな、机に寄りて頭を抱える、悲しき姿を誰か知る。その肩の小刻みに震えしも、慰むる者ひとりとてなし……」


 手帳に陣氏の思いつきが書き留められていく。が、それは思いつきにあらず、現在たった一人取り残された女史の姿を、最もよく言い表していたのである。




*題名は、マキノ映画の御室撮影所で製作され、昭和4年(1929年)11月に封切られた映画「愛する者の道」から。

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