第8章 愛と憎
段取りをすっかり決めた後で、予定通りの日程で撮影を開始したストライキ組。綿密に計画しておいたおかげで、撮影の段で手間取るなんてことはなく、順調に仕事を進めていった。超低予算でやるしかないので、衣装は自前だし、使えるフィルムにも限りがある。けれど、それらの事情を超越した魅力が、この『彼女は星の彼方から』にははっきりと窺えた。これは飛び切りの傑作になるぞ……という期待感が、製作する一同の間を満たし始めていた。大体の場合において、こうした予感をさせる作品というのは、後に高い評価を受けるものである。
とはいえ素人には中々、その辺りの区別はつきづらい。陣恭太郎もその一人であった。彼はある日の夕方、のこのこと撮影現場を訪れたのだが、機材がスタジオほど完備されていないことのみ目にとめて鼻で笑った。どうせたいしたものはできまい、と。
「……や、待たせましたな。陣さんの坊ちゃん」
報告を受けて応対に出たのは、監督の尾藤。
「どうも、尾藤さん。ご無沙汰ですね」
「お互いにね。で、何のご用で? こちらは忙しいんで手短に頼みますよ」
「石川女鳥さんに会いたいんですが」
「だめですな。以前彼女にした仕打ちは、全員知っとります」
「村野女史からの言伝です。内密に話さなければならないことですから、早く取り次いでいただけませんかね」
「内密も何もないじゃありませんか」
艶めかしい声が頭上から降ってくる。顔を上げなくても、相手がルミラだということはわかる。
「女史からは、是非女鳥さんだけにと言われているんだ。早く連れて来たまえ」
「ここに来ていますわ、ほら」
恭太郎の目が怪しく輝く。女鳥は心底嫌そうに彼から目を逸らしていたが、それが逆に彼の心をそそるのだ。
「なんだ、それなら話が早い。女鳥さん、僕と一緒に来たまえよ」
「お断りします。本当なら私を連れて行くのではなく、女史を私達のもとに連れて来ていただくべきなのですが」
ハハハハ……周囲に哄笑が響き渡る。それまで鷹揚に構えていた恭太郎、早くも本心を現しかけた。
「客人を嘲笑うとは失敬じゃないか。それも、女史の使いとして来たこの僕を」
「女史の使いでも、女鳥ちゃんだけを引き渡すわけにはいかない。もしどうしてもというなら、私も連れて行きなさいな」
「あなたもねえ……まあ、よいでしょう。女鳥さん、異存はありませんな」
「ええ。ルミラさんがいらっしゃるなら私も構いませんわ。……では支度して参ります」
主演2人の仕事は、今日の分はもう終えているとあって、尾藤はじめ誰も咎めはしなかった。彼女らは、庭に面した控室代わりの小部屋に戻り、外出着に着替えた。ルミラは一足早く終わったので、先に廊下に出て行った。女鳥も後に続こうと足を踏み出した時――。
突如背後から羽交い絞めにされ、口を塞がれた。
「石川さん、お静かになさらないといけませんよ。あなたや他の方々にどんな危険が降りかかるか知りませんよ」
やっと聞き取れるほどの声だったが、女鳥には、この邸宅に務める女中の一人だと判断できた。そしてこの身を拘束するのは恐らく、御用聞き兼用心棒の若者だろう。
「一言もお喋りになりませんように。それを約束できるなら解放いたします。そして私達に、黙ってついて来て下さいまし」
女鳥はうなずいた。
この2人組――そういえば『彼女は星の彼方から』撮影のためにこの邸宅に来てから、新しく雇われた人々だったっけと、女鳥は妙に冷静な頭で思い起こした――は、小部屋の戸から庭に降り立った。ご丁寧に、彼女の靴まで用意しておくという周到さ。彼らは音を立てずに隅の生け垣まで彼女を連れて行った。傍からは判らないが、ある場所を押すと外側に四角く開くようになっているのだ。2人組はそうして、女鳥ともども邸宅から脱出したわけである。彼らは戸惑う女鳥を、近くに停まる自動車の中に押し込んでいってしまった。
……中々来ぬ女鳥を待って、ルミラと恭太郎とは未だ応接間にいた。
「来ないわね、女鳥ちゃん」
「支度の途中で気が変わったのかもしれないね」
「大いに有り得ることね。私だっていくら変わりかけたことか」
「ハッハッハ……敵わないな、あなたには。しかし肝心の女鳥さんが来られないのでは仕様がない。僕も紳士だ、今日のところは大人しく引き揚げて、また日を改めて来るさ。女史には僕から言っておく」
「そう、それならよろしく」
「では、また」
恭太郎は、今し方来た女中を呼び止めて、玄関までの伴を頼んだ。その様を見やりながら、ルミラは内心ほっと胸を撫で下ろしていた。いくら自分もついて行くとはいえ、女鳥をあの男と同じ空間に置いておくのは嫌な気がしていたので。
「あーあ、お洒落損だったわね。折角だからこの後どこか行こうかしら……」
車のエンジン音が微かにして、あのいけ好かない男が遠くに去ったことを彼女に知らせる。どことなく、辺りの空気が静穏になったのを感じ取りつつ、彼女は元の小部屋に帰った。
「女鳥ちゃん、あの人痺れを切らして行っちまったわよ。……あら?」
見回すまでもなく、その部屋には誰一人存在していない。首をかしげながら、ご不浄やら離れの撮影場所やらを覗いてみる。しかし、女鳥は見つからない……。
先程のエンジン音が、不気味に彼女の脳裏に蘇る。
(まさか……)
小部屋の奥へ進み、障子戸を開け放す。眼前には趣ある庭園が広がっているが、彼女は屈んで、縁側と地面に目を凝らした。――乾いた土の上に、いくつかの靴跡らしき斑模様が残っている。それは、縁側の先から庭園の向こうまで続いているようだった。
彼女は自分の草履を取ってきて、この貴重な痕跡を辿ってみた。下駄入れに女鳥の靴がなかったことも気にかかる。
かの痕跡は、隅の生け垣のところでぐちゃぐちゃとして、留まったことを示した。なぜ生け垣の前で? 不審に思い、ここもよくよく目を凝らしてみると、成程、扉のように四角く開くようになっているのが葉の具合で読み取れた。推してみると何の造作もなく、敷地外に出られることがわかった。
「大変だわ」
呟いた声は、自分のものとは思われぬほど甲高く震えを帯びていた。これではいけない、と彼女は自分を叱咤し、できる限り冷静さを失うまいと努めながら邸宅中を駆け回った。まずは、一同の長たる尾藤に報せなければ。
彼は離れの最も広い間――会議室兼食堂兼その他諸々――で見つかった。運のよいことに、栄介や晃平ら、他の仲間達も一緒だ。
「どうしたんだいルミラ君、そんなに青い顔をして。あれ、あの大根役者君と出かけたんじゃなかったかね」
「その大根役者に、女鳥ちゃんが誘拐されたかもしれませんの」
「何、誘拐だと!」
「その可能性があるということです。恐らく共謀者が、庭の生け垣の隠し穴から連れ出したのでしょう。とにかく今はっきりしているのは、女鳥ちゃんがここにいないという事実です」
「その事実だけでも大層なことだよ。よし、今日の撮影はこれで終わり! 彼女の捜索に専念しよう」
「はいっ」
一同は手早く、それぞれの持ち場を決めた。ある者は警察へ。ある者は邸宅の電話に張りつき。またある者は犯人と思しき陣恭太郎が向かいそうな場所を見回った。『キネ天』編集部に連絡しようという気の利いた(?)者もあった。
そしてルミラは、ルリ・キネの村野女史のもとに単身乗り込んだ。
久々にかつての職場を訪れて、ふっと感傷に浸りかけたが、彼女は義憤の思いでそれを封じ込めてしまった。長い廊下を幾度か曲がって、事務室の前に立った時には、その思いは最高潮に達していた。
扉をノックする。予想通り、「どうぞ」という女史当人の返事がある。
「失礼いたします、女史」
思いがけぬルミラの訪問。女史は咄嗟に椅子を立ったまま、じっとこちらを凝視するだけであった。驚愕のあまり蒼白になった顔……しかし2つの瞳は、訪問者に対する紛れもない愛情に輝いている。そうした眼差しを向けられて、ルミラは内心の喜びを感じずにはいられなかったが、今はそれを表してはならない時だと、強く唇を噛んで耐えた。
「ルミラさん、よく来て下さったわね」
「女史、私は今とても急いでいるんです。どうか、お咎めにならないで。私の問いに答えて下さい」
相手の様子にただならぬものを感じたか、女史は何も言わずにただ大きくうなずいてみせた。
「ありがとうございます。それでは女史。あなたは今日、陣恭太郎に伝言を頼みましたか」
「いいえ。そもそもあの人とは今日は一度も会っていないわ」
「ああ!」
「どうなさったの、ルミラさん……」
相手は少時頭を抱えていたが、やがてその面を上げた。かっと見開いた瞳に、燃えるような怒りをこめて。その矛先が女史に向けられていることは明らかだった。
ルミラは訪問の目的を語った。陣恭太郎が女史の名をかたって、女鳥を誘い出そうとしたこと。自分も同行することで危機を切り抜けたと思ったのも束の間、陣が辞した同じ頃に女鳥の姿も消えていたことに気づいたこと。庭の生け垣に隠し穴が施されてあったこと。
「女史はご存知ないかもしれませんが……陣恭太郎は一度、女鳥ちゃんに暴行を加えようとした前科があるのです。それ以来私達は、女鳥ちゃんをあの男と2人きりにしないよう用心し、随分気を遣ってきたのです。けれど今のようにストライキ中で離れている状況で、私達は少なからず油断していたんですわ。ここならば安全だと……今になってみれば、何て愚かだったんでしょう」
「でも、相手は陣さんよ。若者の直情的なところと悪戯心が出て、そんな遊びを思いついただけではないかしら」
「遊びですって! たとえ生命を奪われないにしても、望まぬ相手との戯れを要求されるのは、老若男女誰だって地獄の苦しみですわ。女史ともあろう方が、そんなことをおっしゃるなんて、きっとあの父子に一時的に感化されたせいですわね。……ねえ、そうおっしゃって下さいまし」
ルミラはそう言うなり、堰を切ったようにわっと泣き伏した。――女史はこの気丈な乙女が涙を流すのを、初めて見た。それは彼女の後悔に満ちた心を揺るがすに十分すぎるほど、強い印象を与えたのである。
諦めという穴に落ち込んでいた彼女ではあっても、天を仰ぐだけの気力はまだ残っていた。地上から垂らされる縄梯子を掴むだけの気力はまだ残っていた。
今こそ、立ち上がらないでどうするのか! 弱き者の権利を擁護しようと働いてきたこの自分が、権力者の横暴を看過してはならない。まして、自分の大切な少女が危地にあるのだ。他人事で済ませられるものか。
しかし、ああ、運命は残酷である。良心と勇気を奮い立たせようとしたまさにその瞬間、かの無情な電話の呼び鈴が鳴り渡った。
ルミラが受話器を取る。
「もしもし……」
『もしもし、陣だが』
「陣……勇之進氏の方ですわね。私が誰かわかりまして? あなた方のお嫌いな女優の、ルミラです」
陣勇之進からの電話と聞いて、村野女史は気の毒なほど青ざめた。
『お前さんか。まあよい、いずれそっちにも知らせるつもりだったからな。……お前さんの一派は、今血眼になって石川女鳥嬢を探しとるだろう。心配しないでもよい、あの娘はわしの伜と一緒だ。夜にはお前さんの家まで届けさせるぞ』
「今すぐ返して下さいまし。でなければ私達の方で探し出して連れ帰りますから」
『鼻息が荒いな。そのためにわしの方は多大なる迷惑を蒙っておる。逢引きしているだけの伜を誘拐犯扱いされ、理不尽な非難を浴びるこの父の身にもなってみよ。お前さんが女だと思って優しく出ておるが、本当ならば名誉毀損の罪で牢獄にでもぶち込んでやるべきところだ』
「何ですって、あなた方こそ――」
激高しかけたルミラの肩を、しっかと引き留めた手。他でもない、村野女史の手である。
彼女は身振りで「代わって」と伝え、あっさりと受話器を引き取ってしまった。ルミラはこの瞬間のことを、後々まで悔やむことになる――。
「もしもし、村野でございます、陣さん。うちの社員が失礼を申しまして、申し訳もございません……」
女史の下手に出た言葉で、向こうが機嫌を直したらしいのがルミラにも伝わった。と同時に、女史の声から、彼女が再び諦めの中に沈んでいったことを悟った。再び、陣父子に服従する道を選んだ彼女……その心の内は、当人以外誰にも理解し得ないであろう。最も近くにいたルミラでさえ、そうだったのだから。
散々ぺこぺこして受話器を置いた女史を、ルミラは憤りに満ちた目で睨みつけた。女史は、無言で目を伏せる以外にどうしようもなかった。
「女史! 今日こそ私はあなたを見損ないました。一体あなたは、何を恐れてあの父子の言いなりになっているのですか。私にはわからない……わかりたくもないわ!」
「ルミラさん、お願い、それ以上何も言わないでちょうだい……」
「ええ、お望み通り何も言いませんわ。そして、あの父子と手を切らぬ限り二度とお会いしません。さようなら」
叩きつけるように言い放って、ルミラはそこを飛び出していった。きっとその足で、彼女の愛する少女を探しに行くのであろう。――今度は女史の方が、泣き伏す番だった。
「ああ、なぜこうも全てが食い違ってしまうの!」
自動車に押し込まれた途端、女鳥は自分が陣恭太郎の罠にかかったことを知った。車種は違うようだったが、運転手の後ろ姿に見覚えがあったからだ。
女鳥は勿論、この場から逃げ出そうとしたのだが、例の御用聞きの男が運転手と立ち話するふりをしながら、こちらに睨みを利かせているので結局できなかった。そうこうするうちに、若主人の恭太郎が戻ってきてしまった。彼は素早く女鳥のいる後部座席に乗り込んで、運転手に発進の合図をする。滑るように、しかし高速で通りを走り抜けていく最新式の自動車。
「女鳥さん、僕の新車はお気に召したかい。前回の教訓を受けて、今度は屋根付きだよ、ハハハ」
「これは立派な誘拐ではありませんの、陣さん。先程の女中と御用聞きのような間諜までお使いになるなんて、随分計画性がありますことね」
「人聞きが悪いな、誘拐とは。いいかい女鳥さん、僕は女史の命令でこうしているんだ。女鳥さんだけに話さなければならないことを伝えるために、多少荒っぽいこともやらざるを得なかったんだよ。それだけは堪忍しておくれよね」
「女史がそんなご命令を出すなんて、今思うと怪しいものね」
恭太郎が言葉に詰まったのが、隣にいる女鳥にはすぐにわかった。何だかんだ策を弄しても、所詮は大根役者、嘘を貫き通す術など持っていない。
「……ああ、確かにこうして連れ出したのは僕の考えだ。それは認めよう。でも誓って言うが、これは君に真剣に話を聞いてほしいがためなんだ。乱暴なことは断じてしない。その証拠に、夜には君をお宅まで送る」
相手がそう言っている以上、女鳥もあまり強く出るわけにはいかなかった。また下手に抵抗して相手を刺激するよりは、大人しく、しかし毅然とした態度を取り続けるのが得策にも思われた。
妙な緊張感の中、彼らはある洋食屋に入っていった。例によって個室に通され、女鳥と恭太郎とは2人きりになる。こうした所に来つけている恭太郎が全て注文し、女鳥はただ沈黙と無表情を守るのみ。そうしなければ、何かの弾みで他人に見られた時、あらぬ疑いをかけられかねないからである。
その点で、彼女の服装は完璧だったといえる。柄の殆どない黒地の着物に、濃紺の袴。しかも、裾を短めにし、履き慣れた革靴を履いて、まるでいつでも逃げ出せると言わんばかり。いつもの透かし彫りの指輪が、唯一の装飾品といえる。まず誰が見ても、彼女が相手に媚を売っているなどとは考えまい。
恭太郎も彼女の陰鬱な出で立ちに出鼻を挫かれたか、積極的に口を開くことはしなかった。2人は無言で、ナイフやフォークを動かすだけであった。
デザートの皿が来る頃になって、恭太郎はやっと本題を切り出した。洋酒の酔いが程よく効き始めたものらしい。話し始めれば彼はそれなりに雄弁だった。
「女鳥さん、僕の頼みはたった1つきりさ。つまり、女史のもとで僕と『花のゆくえ』の製作を続けてほしいということだよ。僕ら3人以外は、全く新しい面々でやる。親父の新聞で希望者を募れば、すぐに集まる。どうだい……」
女鳥は何も言わない。小さな硝子鉢の中で、ミルクに浸した苺をひたすら潰している。カチャリ、カチャリというフォークの響きが彼女の立てる唯一の物音。――しかしそこに何らの意味も見出し得ぬ恭太郎は、相手が反論してこないのを幸い、ますます饒舌になる。
「僕はねえ、女鳥さん。あの下らない筋書きと安っぽいセットの『彼女は星の彼方から』なんか、妨害されればいいとすら思う。女鳥さんは何もそっちで頑張らなくたって、日本の活動界の粋を集めた『花のゆくえ』に出られるのだから。あんな即席の写真なぞに出て、君の輝かしい将来に暗影を投げてほしくないな」
「安っぽいだの即席だのとおっしゃいますけれど、それは極限まで無駄を切り詰め、必要最低限のものだけで済ませられるよう工夫を重ねた結果です。いざ銀幕にかけてみれば、そんな感想はどなたも抱かないはずです」
潰し終えた苺を、紅色に染まったミルクとともに匙ですくう女鳥。平然と『彼女は星の彼方から』を擁護する女鳥。彼女を何とかして翻そうとする恭太郎の方が、寧ろ焦慮を感じ出した。
「そう。では君は我が国を代表する大作映画よりも、そのちっぽけな……」
彼もまた苺をフォークで潰そうとしたが、苺は中々思い通りにならず、フォークの背をつるりとすり抜けてしまう。ある時は硝子鉢の外にまで飛び出す始末。彼は諦めて、というより苛ついて、潰れぬ苺にそのままフォークを突き刺して食べ始める。その様子を、既に食べ終えた女鳥が、冷やかな眼差しで眺めている。
店を出て、陣家の自動車が停まっている場所まではいくらか距離があった。――店に入る前、女鳥は何度この場で逃走しようと思ったか知れない。しかしながら辺りは、目的の店の他は空地や雑木林ばかりで、救助を求められる民家ひとつないときている。がむしゃらに走ったとて相手は恵まれた体格の若者、おまけに自動車まで持っているのだから、勝ち目など最初からないのである。――無理とは知りながら、女鳥は恋人のような腕組みを要求してくる恭太郎を振り切りたいと切に願った。
2人が雑木林の脇を通っている頃だった。ふいに、目の端でパッと閃光が散ったように思って、女鳥はそちらを振り返った。しかしそこはただの林で、何かが、或いは誰かがいるのか、それすらも見分けられない。――きっと気のせいだわ。そう思い直して再び前を向いた時だった。
突如、木立の闇の中から人影が躍り出してきた。
「女鳥さん、下がって。……誰だ、君達は。何が目当てだ」
恭太郎が息巻くと、人影はアハアハと笑い出す。月の光がサッと彼らの上に射して、3人並んでいるのが漸く読み取れた。単衣だったり詰襟だったり袴だったりと服装は様々だが、一目見て不良とわかる、下卑た、どこか満たされぬ表情をしている。
「ハハハ、やっぱり大根役者だ。台詞が棒読みだぜ」
「俺達は、てめえとその親父が排斥しているルリ・キネのストライキの応援者さ」
「成程ね。だが僕らは、我が国の芸術界に悪影響を及ぼすものを糾弾し、人々の蒙昧なる精神を目覚めさせ、正道に導く使命があるのだ。君達のような者にも、正しい芸術観を持ってもらいたければこそ――」
「ごたごたうるせえよ、クソッ!」
3人いる不良のうちの一人が、恭太郎に掴みかかる。と、咄嗟にその間に割って入ったのは白いしなやかな腕。
「石川女鳥……」「女鳥さん……」
月夜の薄明かりの下で、男達は彼女の存在に初めて気づいたかのように見やる。青ざめた光は、彼女を一層神秘的に、また艶めかしく浮かび上がらせる。
「お互い冷静にならなければいけませんわ、そうでしょう?」
囁くような低い声が、彼らを正気に返させる。しかし、些か正気になりすぎたかもしれない。
「おい、めんどりさんよ。何でお前さんがここにいるんだい」
「まさか、この大根役者と逢引きしていたんじゃあるめえな」
彼女が否定するより前に、恭太郎が得意気に割り込んでくる。
「ああ、彼女が連日の撮影で疲れているから、気晴らしに外へ連れ出してやったんですよ」
「じゃあ、同意の上で?」
「勿論ですとも、彼女も喜んで――」
「まあ、嘘よ! 私は騙されて……」
しかしながら女鳥の弁明は真面目に取られるわけもなかった。大抵の場合、若い娘は逢引きの瞬間を見られた時、恥じらいから自らを取り繕うものだと思われているからである。まして今は薄暗い夜、彼女の顔が羞恥のために紅潮したのでなく、憤りのために蒼白になったのであっても、誰も気がつかない。
不良達はさも可笑しそうにげらげら笑い出した。
「おい、やっぱり噂は本当だったんだよ」
「噂って? どんな噂ですの」
「めんどりさん、知らねえのかい。知らねえなら言ってやらあ。つまり、めんどりさんが陣家の手先で、ストライキ組に探りを入れる役目を仰せつかっているとか」
女鳥は全身総毛立ち、血液が逆流するほどの衝撃を感じた。かつて、これほどの侮辱を見に受けたことがあったであろうか? 酷いとも恥知らずとも口にできぬまま、彼女はやり切れぬ悔しさに身体を震わせることしかできなかった。横に立つ恭太郎が、不良と同じようににやつくばかりで、弁護すらしてくれないことにも暫く気づかなかった。
その時、彼らを黄色い光が照らし出した。辺りが真昼のように明るくなり、黒い影がずーっと向こうまで伸びていく。
「いたぞ!」「女鳥ちゃん!」
夢の中から響くような懐かしい声がして、次の瞬間には女鳥は温かい腕に抱きすくめられていた。
「女鳥」
「まあ、兄様……」
頭上から降ってきた声に、そしてこの身を抱く腕の逞しさに、匂いに、女鳥は驚かずにはいられなかった。仲直りしたとはいえ、その日以来また疎遠になっていた他磨己。その人が今、こんなに近くにいるなんて……。
もう一人の声の主たるルミラは、果敢に敵と対峙していた。
「あんた達。あの子に言い、あの子にしたことを私にもやってみな」
「いや、俺達は、その……」
「できないっていうの? そんなに浅ましいことをしたのなら、私は断じて許さないよ」
ルミラの凄味に圧倒されて、不良連中は土下座しかねぬ勢いで先程の顛末を述べ立てる。それを聞いた彼女が彼らを快く許した……わけがない。なお怒りをぶちまける結果となった。
「情けない! それでよくルリ・キネの味方だと言えたものだわね。反抗児を気取るにしても、私達の敵たる『勇進日報』を鵜呑みにして罪のない子をいじめるなんて、下衆も下衆のやり方だわ。本当の反抗っていうのは、確固たる意志と良心に基づいて為されるものよ。わかったら、とっとと帰れ!」
ほうほうの態で駆け去る3人組を見やってから、ルミラはもう一方の敵に向き直る。真に怒りを示すべきはこちらであると言わんばかりに、その黒眸を爛々と光らせて。
「全く、大変だったわよ。陣家の行きつけの店に、片端から聞き合わせて漸くここにいたことがわかったんだから。……さて、あの女中と御用聞きは白状したわよ。私達ストライキ組の動向を探るためにあんたから寄越されてきて、度々連絡を取り合っていたと」
「何のことだい」
「とぼけないでよ――」
一歩前に出かけた時、背後の雑木林で微かなざわめきがした。気が立っていたルミラは激しい勢いで振り返り、「誰ッ」と鋭い声を響かせる。間もなく、がさがさと草木を掻き分けて、男が数人飛び出してきた。恭太郎が息を呑むのがルミラの耳にも届いた。
「誰です、あなた方は。……ああ、わかったわ。『勇進日報』の記者さんじゃありませんか」
「ええ、そうです」
「何のためにそんなところに隠れておいででしたの。きっとそのカメラに証拠がおありでしょうね」
恭太郎が狼狽して、身振りで証言を止めさせようとしている。傍らにルミラがいるのにもお構いなしでそれをやっている様子は、滑稽極まりない。なお面白いことには、記者達がその無言のメッセージを読み取れなかったのか、敢えて無視したのかは定かでないが、ともかく馬鹿正直に自分達の使命について喋り出したのである。
「ええ、私どもは恭太郎坊ちゃまのお言いつけに従い、この茂みに隠れながら、坊ちゃまと石川嬢が来るのを待ち構えておりました。明後日の記事で、お2人の逢引きの現場を捉えたと書くためにです」
「写真は撮ったの?」
「ええ、撮りました、2枚ほど」
――このやり取りを、女鳥と他磨己は、迎えの自動車の中でじっと耳を澄ませて聞いていた。それまで女鳥は、自分が何のために誘拐されたかを知らずにいたが、この時初めて真相を理解したのだった。即ち、自分は陣父子の正当性を裏付ける人物として引っ張り出されたのだと。
(夜には私を家まで送る、なんてよく言えたものだわ。その道中で証拠になり得る写真を撮りさえすればよかったんですものね)
この雑木林を通りがかった時に、パッと閃光が散ったような気がしたが、あれは気のせいなどではなかった。あれこそ『勇進日報』のカメラが焚いたフラッシュに他ならなかった。なぜその時に不審に思わなかったかと、今更ながら悔しさが込み上げてくる。
自分一人ではそうした負の感情を抱え切れなくて、女鳥は時折隣の兄にその思いを吐き出した。悔しい。悲しい。自分が情けない。
それらに対して、兄の答えはたった一つきりであった。お前は悪くない。――しかしながら、女鳥が欲しかった答えは、こんなものではなかった。
「兄様は私にそんな甘いお言葉を下さるけれど、私は甘やかされるばかりが慰めになるとは思わないわ。今の状況ならなおさらよ。……私はどんなことにも立ち向かえる、強い人間になりたいの。こんな風にいつも守ってもらってばかりなんて、嫌なのよ」
「お前はそう言うがね。実際は十分に色々な物事に立ち向かって、多くを成し遂げているじゃないか。理不尽な苦しみも耐え忍んでいるじゃないか」
「私はそうは思えない。本当のことを言ってよ、兄様」
「本当に、お前はもう十分に強くて、賢いんだよ。これは本心から言っているんだ」
「嘘だわ。まだ言っていないことがあるはずだわ」
「……ああ。正直に言えば、兄さんはもう、これ以上お前が苦境に立たされるのを見ていられない」
「まあ、そんなことだと思いました。案外臆病ですことね、兄様。さっきからの言葉だって、どれも私の目を見ずに言ってのけましたものね」
女鳥は口に出した後で、ハッとした。兄の優しさを嘲笑で返してしまった自分に、一番吃驚していた。次いで、相手を怒らせたかもしれないとたまらなく不安になった。
「兄様、兄様、勘弁して下さいませ! 今の私は、誰の親切も受け容れられそうにないんです……」
肩に縋りついて懇願するが、兄は顔を背けたきり、一言も口を利いてくれなかった。彼は怒っているのだと女鳥は思った。「お前は悪くない」と言ってくれた彼が、今は、自分に対して何の言葉もかけようとしないではないか。
負の感情に支配され、余裕を失くしていた女鳥の心は、このことで更に痛手を負ってしまった。
溢れる感情を、女鳥はひたすら涙で流すしかなかった。恭太郎を打ちのめしたルミラが助手席に座り、運転手の岡部に合図を送り、自動車が走り出したことも、気がつかぬほど、女鳥は泣きに泣いたのである。
*題名は、東亜キネマ京都撮影所で製作し、昭和3年(1928年)に封切られた映画「愛と憎」から。
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