第7章 仲間

 恭太郎の予測通り、翌日の『勇進日報』朝刊にはストライキの一件が大見出しで載った。他紙が掴んでいないネタは大いに活用すべし、というわけか知らないが、ここぞとばかりに扇情的な見出しと文面で飾り立てている。勿論、ストライキ組を悪、女史と恭太郎を善とする二項対立を拵えて、話を簡略化することも忘れていない。読者は恰も大衆小説を読むように、この抗争に血沸かせ肉躍らせた(?)のだった。


 しかしながら読者の中には、この記事の「やり過ぎ」感に却って疑いの念を抱く者も少なくなかった。彼らは主に、学のある若者で、丁度ルリ・キネのファン層と重なる。


「おい、読んだか。お前、あれをどう思う。ルリ・キネの人々が皆あんな悪人だと信じるかい」

「まさか。大体『勇進日報』の書きぶりはいつもああじゃないか。実際あんなに善悪が明確になることはないよ。……俺は、ルミラひいきっていうのもあるが、ストライキ組を応援したいね。彼らの姿勢こそ、真に芸術家のものだと思う」

「俺も同感だ。ストライキっていっても、給金や何かの問題じゃない。ただ良い映画を撮りたいというだけなんだからな。……」

「おーい!」


 中庭の草の上に寝転んで休講の時間を持て余していた2人の大学生は、今し方駆けてきた友人の声に起き上がった。


「よう、どうしたんだ」

「例のルリ・キネ騒動の続報だよ」

「どうせ『勇進日報』の続報じゃたかが知れてら」

「違うよ、今度は『キネ天』だ。ルリ・キネ特集号と題して、ストライキの当事者達の話が載っている。……ほら、読みたまえ」


 大学生達は俄かに真剣な顔つきになって、キネ天こと『キネマ天国』の頁を繰っていった。どこにも、監督の尾藤や看板スターの石川女鳥等の生きた言葉が満ち満ちている。『勇進日報』の扇情的な文章よりも、こちらの方がずっとファンに対して誠実に映る。


 殊にこの大学生達を歓喜させたのは、『キネ天』主筆の程野の編集後記だった。


『本号はルリ・キネの心ある人々のたっての願いにより、大突貫で仕上げたものである。それゆえ様々行き届かぬ箇所もあろうと思うが、お目こぼしいただきたい。


 敢えてどことは書かないが、某新聞では既に、騒動の経緯が報じられていることと思う。それも、大部分捻じ曲げられてだ。その点、我々はルリ・キネの人々の協力を得て真実を伝えている。少なくとも、彼らの芸術に対する真摯な態度は紛れもない本物であることを、読者の方々に信じていただけたなら我々とても嬉しい。


 時として、自らの信ずる芸術の道を突き進むのは、多大なる困難を伴う。経済的困窮、嫉妬、罵詈雑言、等々。今、ルリ・キネの人々はその茨の道のスタート地点を走り出したに過ぎない。途中途中に降りかかるだろう難事を乗り越えさせ、ゴールに導く者は、何であるか? それ即ち、映画芸術を真に愛する人々の存在である。我々のように映画業界に携わる者もそうだが、それより遥かに、銀幕の世界に深い感激を覚え応援してくれるファンの人々の力が必要なのだ。


 今頃ルリ・キネの人々は、こちらも大突貫で、しかし凝りに凝った作品作りの準備を進めていよう。そして近いうちに、皆様の前に供する日が来よう。その日が来たら是非、是非彼ら芸術家集団に声援を送っていただきたいと、切に願う』


「きっと、きっと観に行くぞ。新生ルリ・キネの偉大なる第一作目を」

「ああ、俺も。だが公開まで手をこまねいているわけにはいくまい。俺は早速ルリ・キネの人達宛てに手紙を出すよ」

「それはいい。『キネ天』向けに送れば、然るべき所に転送してくれるだろう。……」


 彼らの中では、『勇進日報』への懐疑心などよりも、芸術家集団に対する親しみや期待の方が断然強まっていった。それこそルリ・キネのストライキ組が望んだことであった。――怒りの感情よりも、愛に基づいた感情の方が、結局は長続きするであろう。そして、それだけ有利な状況に持ち込めるだろう、との考えからである。




 女鳥達の古巣である芸華会でも、『勇進日報』及び『キネ天』特集号は大なるセンセーションを巻き起こしている。勿論、彼らは後者の味方である。今日もお馴染みの喫茶・華にたむろして、一冊の雑誌を回しながら喋り合う。


「『花のゆくえ』どうなるかしらね」

「さあな。権利は村野女史の方で持っているから、あの人次第だろう。和解後に撮影を続けるのも、新しい人員を掻き集めて撮り直すのも」

「『勇進日報』と手を切らない限りは、和解は有り得ないさ。実際その方がいいと思うよ。元々芸華会の会員だった者も多いんだし、こうなったら徹底的に芸術的正義を振りかざすくらいはしてほしいね」


 丸椅子に腰をかけながら重松が言う。隣に座った他磨己、例の『キネ天』をめくってにやり。


「お前さんの言う『芸術的正義』如何はさておき、ストライキ組は抗戦の資金集めのために、新しい作品を撮り下ろすんだってさ。梗概も載っているよ。……驚くなかれ、あの栄介が書いたそうだ」

「栄坊が」「まあ、栄ちゃんが」


 俄かに色めき立つ一同。他磨己は重松に『キネ天』を手渡す。


「重松さん、読んで下さいな」


 皆にせがまれて、彼はやや照れ臭そうにエヘンと咳払いする。


「うーん、こう静かではきまりが悪いや。昇、お前バイオリン持っているな。伴奏してくれよ」

「合点です」


 彼は少し音合わせをしてから、しんみりとした旋律を奏で始める。そして、重松はかつての弟子の手になる物語――「彼女は星の彼方から」――の粗筋を読み上げていった。


 ……とあるお屋敷の小僧が、大慌てで主人達を呼びに来た。門の前で少女が倒れている! 主人の他、心優しい令嬢と、幾人かの女中や書生が駆けつける。そこでは確かに、風変わりな美しい少女が気を失っていた。令嬢が抱き起こすと、やっと目を開く。どこから来たのかという問いに、「星の彼方」と答えたきり、他には何も覚えていないらしい彼女を、人々は温かく迎え入れた。殊に、令嬢の親身の愛情は、少女の不安な心を溶かすに十分であった。少女もまた、この令嬢を誰よりも愛した。――遠い、遠い記憶の中にある故郷では、既に失われて久しかった「良心」、その化身が、かの令嬢であるように思われてならなかった。――しかし、楽しい日々も短かった。少女の身体は謎の病のために日々衰弱していき、はや明日をも知れぬ身となったのだ。悲しみに暮れる人々の前に、突如として現れたのは、少女の全てを知っているという怪しき2人の男女。彼らは懐から小瓶を取り出し、少女に飲ませようとする。身体は治るが、「心」を失くすという悪魔のような薬! 少女は必死で彼らの手を押し退ける。それに女中と書生達が加担して2人組と乱闘騒ぎになる。その隙を突いた令嬢は、素早く小瓶をひったくって薬を含み、自ら少女に口移しで流し込む。心がなくなろうと、自分と過ごした時の記憶がなくなろうと、構うものか! 令嬢はどうしても、どうしても、少女に生きていてほしかったのだ。生きている限りは希望があると、彼女は強く信じていた。――季節は移って。陽光降り注ぐ邸の庭。向こうからやって来るのは、堅く冷たい表情をした少女と、彼女を抱きかかえるようにして歩む令嬢である。木陰の四阿の椅子にかける2人。と、やっと少女の顔に花のようなやすらぎの微笑が上り、瞳に令嬢への熱い愛情が立ち込めた。彼女はあの瞬間、例の薬を口にしたわけだが、あの2人組の言うように「心」を失くしはしなかった。口移しをした令嬢の優しさと愛が、少女の生命だけでなく、良心をも、そして幸福をも守ったのである。その頃応接間では主人と、例の2人の男女が話し込んでいる。少女の保護者を名乗る2人は、主人から嘘の容態を伝えられる。「あの子は生命に別条はないが、心を失いました。今は離れに独り、閉じ籠もっています」2人はそれを聞くや、満足げにうなずき、その場を辞した。彼らは、門の前に待たせていた車に乗り込む前に、例の小瓶の薬を一気に飲み干し、美味しそうに唇をひと舐めしてから帰っていった。――見送った女中や書生達は、怒りを目に浮かべる。「これでよいのか?」「あの2人は自分が何をしているのかわかっているのか?」四阿の令嬢と少女は何も知らずにただ睦まじく、身を寄せ合っている。……


 昇の余韻深いバイオリンの音。重松の、抑揚を抑えつつも深みのある声が物語を語り終わると、自然と拍手が湧き起こった。そして、今の物語が栄介の手によるものだと思い至ると、感嘆の溜め息に変化していった。


「栄ちゃんも中々やるわね」

「ああ。実は俺、読んでいて気がついたんだが、この脚本を随分前にあいつから渡されていてね。その時は舞台映えしないと言って突き返したんだが、俺は見る目がなかったらしいや。ハハハハ」

「この分なら、映画自体にも大分栄介の意向が反映されるんだろうね」

「なおのこと、観に行かなきゃならんなあ」


 雑誌を他磨己に返しながら、重松は心底から明るく笑った。過去のしがらみを水に流し、兄貴分として弟分の出世と成長を素直に喜んでいるのが、傍からも明らかなほどであった。昇もバイオリンを風呂敷で包みながら、栄介のことを頻りに褒めていた。それを聞く面々も、満面の笑みを浮かべている。


 しかしその中で――皆と同じ明るさを装ってはいるものの――他磨己のみは何か釈然としないものを内に抱えていた。


 原因が、妹の女鳥であることは彼にも察しがつく。理由は、突き詰めようとすればするほど、手の届かぬところに飛んでいってしまう気がする。このもどかしさよ……しかしながら、まさにそれこそが求める「理由」であることを、彼はいつ、自覚するであろうか。


『キネ天』特集号の反響の凄まじさは、ストライキ組に次から次へと寄せられる手紙の束からも窺い知れた。個人に宛てたもの、彼ら全員に宛てたもの様々だが、全てが激励目的というのは共通していた。『勇進日報』は大新聞だが、その悪質な記事に惑わされていない者がいるのだと、一人一人が声を上げているかのようだった。何と心強い味方を得たことであろう!


 ストライキ組の面々は今や些かの不安も持たず、独立作『彼女は星の彼方から』製作に邁進している。「ここ、こうしてみないか」「この方がよくはないか」などと、職域に関わらず意見を出し合うのも、生き生きとして楽しげ。令嬢役のルミラは言わずもがな、少女役の女鳥も「この表情は如何」「手の形はこうした方が、伝わりやすいんじゃなくって」と色々な演技のパターンを考えては、監督を(良い意味で)悩ませている。――そうそう、彼らは既に、撮影場所たる某興行者の邸宅の離れに陣取って、計画を練っている。撮影自体は、きっかり1週間後に開始、それから2週間後に完了の予定。その後は大急ぎで編集を施して配給に回し、今から1か月のうちには銀幕にお目見得するという算段。いくら顔の利く村野女史や陣勇之進でも、この短期間に手を打つことはできないであろうし、できたとしても効果的なものにはなるまい。彼らがうかうかしている間に『彼女は星の彼方から』が世間の評判を取れば、即ちこちらの言い分が正しいことが伝われば、向こうも折れざるを得ないだろう。その時こそ、ストライキの成功、彼ら芸術家の勝利なのだ。


 女鳥はそのために、仲間達と使命を全うしようと努めている。しかしながら、その日の仕事を終えて家に帰ると、何か言い知れぬ寂しさを感じるのを、どうしようもできなかった。そんな時彼女が机の引き出しからそっと取り出すのは……『花のゆくえ』初版の脚本。それを胸に抱いて目を閉じると、かつての活気あるルリ・キネの風景が浮かんでくる。今のストライキ組も物凄く活気があるし、楽しい現場ではある。しかし、確実に足らぬものがある。……村野女史の明朗な声や、愛情深い眼差しに相当する何か。否、村野女史が与えるものに、代替品なんかない。……彼女は今更のように、女史の存在がルリ・キネの大事な柱だったのだと思い知った。


 彼女の感じる寂しさは、早い話が故郷恋しさ、母恋しさであった。――時々、無性に女史に会いたいと思う夜がある。全力で仕事に打ち込んだ後ほど、疲労も濃い。それを和らげ、癒してくれる女史の慈愛が、母親の温もりのように欲しくなる。丁度この夜がそうで、彼女は脚本を抱き締めて、いつしか涙を流しさえしていた。


「どうしたの、女鳥ちゃん。まだ灯を消さないでいるなんて……まあ、なぜ泣いているの、どこか痛い?」


 様子を見に来たルミラが、驚いて揺さぶる。その拍子に、『花のゆくえ』の脚本がぽろりと女鳥の腕から落ちた。……それだけでルミラは全てを悟った。


「わかるわ、私にも……。ルリ・キネが早く元通りになるといいわね」


 脚本を抱いていた女鳥を、今度はルミラが抱いてやる。胸の中に泣き伏す女鳥を、暫しの間撫でさすっていたルミラだが、ふと小さな呟き声がその耳に届いた。


「ねえルミラさん……女史って、お母様だったのねえ……ルリ・キネのお母様だったのねえ……」


 胸の中から漏れた声は、それきり聞こえなくなった。静かな安定した呼吸音からして、女鳥は慰められている最中に眠ってしまったらしい。となると、先程の呟きは寝言か、まどろみの中で発された言葉だったのだろう。……返事は来ないと知りつつも、ルミラは微笑んで答えてやらずにはいられなかった。

「ええ、その通りね」




*題名は、帝国キネマで製作され、昭和4年(1929年)1月に封切られた映画「仲間」から。

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