第6章 叛旗
その日の仕事が終わるや否や、恭太郎はさっさと撮影所を引き揚げた。いつもならば女鳥にまつわりついて中々離れようとしないのに、どうした風の吹き回しだろうと人々は訝った。
「やっぱり、聞かれていましたかね、あれ」
「いいじゃないの、聞かれたって、困ることないし。……」
栄介とルミラが噂する横で、女鳥も初めは気味悪く思っていた。が、しつこい人間に今日は煩わされなくて済むというので、じきに平静な心を取り戻した。
その頃、撮影所の門外から一台の自動車が猛スピードで駆け出していった。運転するのは、恭太郎本人。専属の運転手はというと、気紛れなお坊ちゃんに無理矢理引きずり降ろされて、些か途方に暮れている……。
恭太郎の運転する車はひたすら夜道を飛ばし、やがて裏街のある通りに入り込んでいった。人影はおろか街灯すらもないような、暗い寂れた場所である。けれど全くの無人の空間でないことは、時々いくつかの建物の窓から明かりらしきものが漏れて、街路にぼんやりした光を投げかけていることから窺える。車はそうした建物のひとつ、何かの事務所らしきものの前で停止した。……恭太郎は夜の通りを注意深く見回しながら、車を降り、トランクから大きな革鞄を引っ張り出す。そうしてかの建物の正面の扉をノックした。彼がドアノブに手をかける前に向こうから開けてくれる。
「これは、これは。陣様の坊ちゃま、いや大スター候補の陣恭太郎様。何御用で」
「決まっているだろ」
人を食ったようなニヤニヤ笑いを絶やさない、中年の男達。恭太郎はここに来るのはこれが最初のはずだが、男達は微塵の迷いもなく彼だと認識した。父が幾度かここに世話になっているという噂は本当だったと、証明されたわけだ。
何をしにここへ来るかって?「敵を片付ける」よう依頼するためだ。そして今、息子の恭太郎も同じことをしようとしている。
彼は男達の仕事机の一つに、革鞄をどさりと置いた。
「これは、これは……随分な額で。お小遣いが皆無くなったのじゃありませんか、恭太郎様?」
「うるさいな。とにかく、これは正式な依頼だ。これで敵を潰してほしい。金が足りなければ明日また持って来る」
「金額は申し分ありません。で、敵とは……」
「石川他磨己」
「誰です」
「浅草にある芸華会って劇団の俳優だよ」
背後にその敵が迫ってでもいるかのように、恭太郎はびくつきながら声を潜めて告げる。政治経済と無関係な人物には詳しくない男達は、暫くその名前の人物について手持ちの資料を調査していたが、何も情報は得られなかった。
「申し訳ない。しかし明日からでも実地調査に参りますから、ご心配なきよう」
「ああ」
依頼人の顔は既にひどく青ざめている。初めての客にはよくある生理反応である。
「で、恭太郎様。石川他磨己を潰せとおっしゃいましたが、生命を……」
「いや、そこまでしなくていいんだ。要するに、人前に立てないほど無惨な姿になれば、こっちとしては安心できるからな」
「成程。彼はあなたの仕事上の強力なライバルというわけですな、いやよくわかりました。だがあなたは実に、実に酷なお方です」
「つべこべ言うな。金は払っているのだから。ああそうだ、ついでに、ルミラという女優も同じように頼む。渡した金で2人分くらいやれるだろ」
「まあ、そうですね。うーん、ご依頼とあっちゃあ仕方ありませんな、やりましょう。――この契約書にご署名をどうぞ」
「抜かりなくやってくれよ。……じゃあ、さようなら」
――すっかり軽くなった心と、トランク。車を悠々と走らせながら、恭太郎は鼻歌など歌っている。
これで石川他磨己もルミラも問題じゃない! 近いうちにあの忌々しい男と女が、役者としての致命的な損害を被ることは間違いないのだ。
村野女史の脚本も、そろそろでき上がってくるだろう。可能ならそれでごたごたしている間に、件の2人が再起不能になれば完璧である。そして最後には、堂々たる主役の座も、スターの地位も、美しい恋人の心身も、掌中にできるのだ。
もはや誰に対しても引け目を感じなくなると、彼は明日以降の仕事が楽しみでたまらなくなった。
「早く明日にならないかなあ……」
まるで子供のようなことを、鼻歌に合わせて節をつけながら呟く、恭太郎であった。
男は黒い着物を着ていた。余程目をこらさなければ、撮影所の正門付近に佇む彼の姿は見出せないであろう。事実、守衛のおじさん達でさえも、見つけられないでいるのだから。
「あと誰が残っている」
「監督や技師達は殆ど。あとは、石川嬢とルミラ嬢ですね」
「わかった。……ああ、噂をすればいらっしゃったぞ」
守衛達の会話に、暗中の男は耳をそばだてる。そっと頭をもたげてみると、確かに、向こうから2人の娘がやって来る。
「お疲れ様です。遅くまで、お稽古でいらっしゃいますか」
「ええ。明日の予習」
「あなた方もご苦労様。また明日もよろしくお願いしますね」
「はい。では、お気をつけて」
2人の娘は正門を出て、少しばかり先に停めてある自動車の方へ向かう。そこを捉えようと、男は兎のごとく飛び出して――。
「女鳥ちゃん危ないッ」
突然ルミラに抱きすくめられて、女鳥は何が何だかわからない。自分は今ルミラの腕の中におり、足元には? 見知らぬ禿頭の男が倒れ伏している。この一瞬で、何が起きたというのか……。
「女鳥ちゃん、大丈夫?」
耳元でルミラに囁かれたが、答えられるはずもない。今の状況が呑み込めていないのに、何が「大丈夫」なのかしら。――無言で固まっていると、ルミラは頭ごと包み込むように自分を抱き締めた。恐怖で口も利けない状態なのだと思ったらしい。それは大きな勘違いなのだけれど……。
「おいお前、いきなりこの方達に掴みかかろうとして何のつもりだ!」
ご主人の一大事とばかり、自動車からすっ飛んできた運転手・岡部が一喝。今しも守衛に身体を起こしてもらった男は、突然門の影から駆け出していって、女鳥の胸倉を掴もうとした。ルミラが彼女を庇ったために、目標を失って無様にも地面に転げ落ちたが、反応次第ではもっと厳しい対処も必要になるだろう。
男はぶつぶつ呟きながら、ゆっくりと立ち上がる。ザンバラになった禿頭と無精髭、小太りの体形が不健全な生活ぶりを露呈している。まあまあ背丈があり、血走った目で見下ろされると、流石のルミラも怯みかけた。
「……お前さんら、俺を知らないのか」
「知らないわよ。どこで知り合うっていうのよ」
「石川女鳥に手紙を出している」
「本当、女鳥ちゃん?」
腕の中の彼女は、ややあって「知りません」と首を振った。
「ですってよ、おじさん。出鱈目言ってこの子に近付こうったってだめよ」
「そんなはずはないッ。もう何十通となく送ってきたんだ。俺は元々名のある舞台役者だった。俺を活動界に売り込んでくれと――」
「とっととお行き。さもなきゃ警察を呼ぶわよ」
「クソッ女のくせに――」
黒ずくめの中年男は悪態吐きながら、足早に闇の中に消えていった。もはや追いかけて警察署に突き出すまでもない。
女鳥とルミラは守衛に付き添われて車内へと落ち着いた。扉が閉められるや、車は滑るように走り出して、撮影所を遠く後に引き離した……。
女鳥は沈黙したまま、先程の出来事をひとり思い返していた。隣に座るルミラも黙りこくっているから、恐らく同じことを考え込んでいるのだろう。
「知りません」と相手を否認した自分の声が、やけに鮮明に蘇る。本当は、「手紙」と耳にした時点で誰だか予想できていた。『花のゆくえ』に携わり始めた頃に1通目が届き、その後もほぼ毎日、同じような内容のものが手元に来るようになった。一度に5通も6通も来ることだってあったが、関わり合いになると面倒そうだったし、人に見せても心配させるだけだと思って、無視していた。ただ、文面にはきちんと目を通し、脅迫まがいのことなどが書いていないか確かめた。最近のものも、特に以前と変わったところもなかったから、放っておいたのだった……。
「……女鳥ちゃん」
「え?……あら」
今更のように、自分がルミラの手を握っていたことを知る。手紙の記憶を探る時、無意識に恐怖を感じていたのだろうか。鼓動も心なしか速い。
「さっきのこと、まだ気にしていて? まあ、簡単に忘れられることじゃないものね」
「ええ、確かに簡単に片付けられるものではなかったわ。――実はねルミラさん、私あの男の手紙、貰っているのよ」
「本当に?」「本当ですか」
目をまん丸くして詰め寄りかけるルミラ。運転席の岡部も驚いている風である。
「ええ。ファンレターに混じって、何通か。どれも、手紙自体には署名が無くて、封筒は宛名だけ書かれてあったわ」
「では、あの男が何者かはわからないのね。内容は」
「さっき言っていたのと同じことよ。自分は元々名のある舞台役者だった、映画界に売り込んでほしいって。可笑しいわね、私達にそんな権限があると本気で思っているのかしら」
「笑い事じゃないわよ、女鳥ちゃん。何でもいいから、接触を図ろうって輩が、予想以上にたくさんいるものなんだから。……いいこと、変な手紙を受け取ったらすぐ見せるのよ」
言葉つきは厳しいが、ルミラは決してただ怒っていたのではない。その瞳に確かな心配と愛情のこもっているのが女鳥にはよくわかる。わざとではないとはいえ、ルミラに隠し事をしたことを、女鳥は素直に反省した。
車が自宅に着く頃には、とうに真夜中を過ぎていた。灯が点いている家は、この辺ではここだけだ。女鳥とルミラとは疲れた身体を早く寝台に埋めたいと願いながら、玄関へと足を踏み入れた。
「ルミラ様、女鳥お嬢様、お帰りなさいませ」
「ただいま、駒子さん。まだ起きていらしたの」
「ええ、半時間ほども前でしょうか。横畑栄介さんとおっしゃる方が見えられて」
「まあ、栄介が? まだここにいて?」
「いいえ、明日の朝迎えに来る、大事な話がある……とおっしゃられて、すぐお帰りになりました。自転車で来られたようでしたが」
「こんな夜中に……」
一体何があったのだろう? 翌朝の電話や電報を待てずに、わざわざ自転車を駆ってまで告げるようなこととは……。
「女鳥ちゃん、とりあえず今日はもう休みましょう。明日のことは明日よ、今気を揉んでいても仕方がないわ」
「そうね、ルミラさん」
2人は、できる限り平静を装って就寝の支度にかかった。全てを終えて布団に潜り込んだ後も、女鳥は中々、胸がどきどきと波打ち、目が冴えて寝つかれなかった。撮影の疲労感だけが重く、重くこの身を沈めて強引に眠りへと引きずり込むまで、彼女はただ、朝のことだけを考えていた。
予告の通り、栄介は翌朝に女鳥達の自宅にやって来た。時間は9時少し前。女鳥達がいつも撮影所に出かけるぎりぎりのところを狙って来たのだろう。ちなみに、今度は自転車ではなく、自動車で訪れた。
2人を先に乗せ、自らは助手席にかける栄介。運転手はと見ると、同じルリ・キネの役者仲間たる綱本晃平である。
「あんたまでいると思わなかったわ」
「仕方ないだろルミさん、人が足りないんだからね。あとは栄坊に聞いてくれ」
栄介が語るところによると、こうであった。
昨夜。監督の尾藤や栄介らは、撮影の打ち合わせを終えて、帰り支度をしていた。そこに、紙束を抱えた雑用の小僧が通りかかる。紙束とは即ち、村野女史が書き改めた『花のゆくえ』の脚本である。
「おい小僧さん、1部くれ。どうせ明日になったら配られるもんだろう」
「はあ、どうぞ」
そうして彼らは新しい脚本を受け取った。尾藤のみ、その場でパラパラとめくってみていたが、やがてその顔が険しく引きつり始める。
「監督、どうしました」
「お前達も読んでみろ。こんなの俺達が知っている『花のゆくえ』じゃねえ」
言われて、今し方貰った脚本を読んでみる一同。じきに彼らも、監督と同じか、それ以上に激しい反応を見せた。それは、今まで撮ってきたフィルムが全て無駄になりかねないほどの改変、否、改悪版であった。まず、主役が瑠美子と璃枝子という2人の乙女ではなく、なぜか精二に変わっている。精二の恋人となる璃枝子はまだしも、瑠美子の出番が大幅に減らされている。精二は英雄的な好青年として書かれているのに引き換え、璃枝子はただのか弱い少女に、瑠美子は徹底的に懲らしめるべき悪女に仕立て上げられている。等々……数え上げればきりがない。
「こんなもの、撮りたくありません」
一人がそう声を上げる。皆、同じ気持ちであったに違いない。義憤の炎に胸を燃やして、ただ黙りこくる一同……。その沈黙を破ったのは、他ならぬ尾藤であった。これから自分の家に集まって、明日からの計画を立てよう。
「それで、俺達はみんなして、尾藤監督のご自宅に行きました。そこで夜更けまで話されたことは、こうです。つまり、『花のゆくえ』の脚本が初版でよしとなるまで、自分達は撮影をストライキしようと。それで、ゆうべ俺が方々を駆けずり回って報せに行ったってわけです」
「随分思い切ったわね」
ルミラはそうとしか返事をできず、女鳥に至っては何も言い得なかった。2人の胸中には、『花のゆくえ』を無惨に書き換えた女史への憤りと失望、そうせざるを得ない状況に陥らせた陣父子への怒り、そして今後自分達はどうなるのかという不安が渦巻いていた。
そう、今後自分達はどうなるのだろう? いや、どうすべきなのだろう? ストライキに入れば、収入の途は絶たれる。しかし、だからといって女史の、ひいてはその裏にいる陣父子の言いなりになるのは御免である……。
2人の心の動きを見透かしたように、栄介は力強く言った。
「これから××会館に行きます。大方皆さん集まっていますよ。そこでこれからのことを決めます。みんなで意見を出し合って、真の芸術のために奮起しようじゃありませんか」
「……ええ」
芸術のために頑張るのは、芸術家として当然だが、その芸術の名のもとに誰かを傷つけるような結果にはしたくない。……女鳥が遅れて返事したのは、内心でそのような言葉を呟いていたからだった。
一行は、××会館で一番大きな会議室に向かった。
「みんな忙しいんで、誰も出迎えに来られないんです。俺が案内しますよ」
栄介はそう言って皆の先に立って歩き始めた。他の者もその後に続く。次第に、数多の足音やら話し声やら、辺りが賑やかになっていく。
「ああ清水さんかい、さっきの話はまとまりましたか……ヨシッ! これで場所は確保したぞ。……」
途中、廊下にある電話機で怒鳴らんばかりに喋り散らしている男がいたが、それが即ち尾藤監督なのだった。女鳥達が聞けた会話は、残念ながらこの部分のみ。
会議室の隅の椅子に腰かけて待っているうちに、ばらばらと見知った顔が集まって、各々適当な席に着く。無精髭が目立っていたり、髪に櫛が入っていなかったりする者もちらほらいる。きっと昨夜から尾藤の家に詰めていて、そこから直接こちらに向かって来たのだろう。それというのも全て、今後の「計画」を立てるためだ……。
最後に、電話を終えた尾藤が意気揚々と会議室入りしてきて、漸く全員が揃った。
「やあ石川君、ルミラ君、ようこそ。済まんねえ、こんな朝っぱらから呼び出して。栄坊から話は聞いているかね」
「ええ、大体は。『花のゆくえ』をストライキなさるのでしょ」
「そうだ。その卓の上にあるのが、昨日入手した脚本だ。それでは演じる気も起こらないだろう」
2人はいぶかしむような手つきで、無造作に積まれた冊子を手に取った。パラパラめくってみても、その改悪ぶりが伝わってくる。もはや題名と役名以外、かつての面影を残す何物もない。
「これ、本当に女史が書いたのかしら」
「別人が書いたとでも言うのかい、ルミラ君」
「そういうわけじゃないけれど。陣父子のさしがねのあったことは疑いようがありません。きっと脅されたか、弱みを握られたかして、改変を要求されたのでしょう。でなければ、あの村野女史が自信作をあっさり作り変えるはずがありませんわ」
「だが、仮に脅されたとしても、芸術家が大資本に屈服するというのは、大いなる恥辱なのだよ。それに何より腹立たしいのは、長年働いてきた我々に、女史が相談してこないことだ。我々の芸術的良心よりも、陣父子の金力を当てにした時点で、彼女との協力関係はもはや望むべくもないのだ。わかるね」
「……ええ、よくわかりましたわ。もはや私達と女史の繋がりは、どうあっても修復できないということが。少なくとも、脚本が初版に戻されるまでは」
「ああ。我々の要求はただそれのみだ。普通のストライキのように、金銭的なことは何ひとつ求めない。これがせめても、我々の芸術への敬意であり、女史に対する……」
「敬意、ですか」
尾藤は小さくうなずいた。口ではどんな厳しいことを言っても、彼らとて、長年をともにしてきた仕事仲間であり頼れる上司であった村野女史の良心を、信じていた。いつかはこちら側に翻ってくれるだろうと、心の底では期待していた。――その内面の優しさは、女鳥にもルミラにもひしひしと伝わり、春の陽のように心を暖かく照らしてくれた。
「それならば、私、喜んでストライキに参加いたします」
女鳥は微笑とともにそう宣言した。
「私、ずっと考えていましたの。芸術の名のもとに、他の誰かを傷つけるような行為をしなければならないのなら、自分は手を引こうと。けれど監督や、皆さんの真意が理解できましたから、杞憂で済みましたわ」
「よかった、石川君!」
「監督、私もお仲間に入れて下さいましね」
「勿論だとも、ルミラ君。いや、正直なところ、2人という才能あるスターがいなければ我々の計画は暗礁に乗り上げかねなかった」
尾藤は、2人が来る前に進めていた「計画」を聞かせてくれた。――ストライキに入るにあたって、差し当たり困るのが資金のやり繰りである。『花のゆくえ』撮影で得ていたお給金が、この状況下で継続的に支払われるわけがない。そこで彼が考えついたのが、超低予算(とはいえアイデアは一流ものを!)の作品を手早く撮り上げて公開し、その収入で食いつなごうというもの。つい先程まで彼が電話をかけていたのも、この実現のためだった。
「いやね。みんなに、特に石川君とルミラ君に相談せずに一人決めしてしまったのは甚だ申し訳ないが……撮影場所は既に確保した。昔鳴らした興行主が郊外に大きい邸を持っていて、そこを暫く借りられることになったんだ。で、肝心の映画のプロットだが、これはまだ一寸もできていない」
「では、大きい邸が出てくる脚本を拵える必要があるというわけですな、ハハハハ……」
「それなら俺、ずっと前から温めているものがあるんですが……」
ふと栄介がそう言って立ち上がったので、皆の目が一斉にそちらに向いた。いつも物怖じしない彼にしては珍しく、頬を赤らめながら披露した物語とは? さて、如何なるものであろう。
同じ頃、村野女史は久方振りの出勤――ずっと仕事場に泊まっていたので出勤も退勤もなかったに等しい――の後、事務室の自分の席に着いた。が、いやにしんと静まり返っているのが気にかかってならない。撮影場所と離れているとはいえ、足音ひとつ聞こえてこないのは奇妙である。
それでも女史は、必要な書類を広げて仕事にかかった。そのうちまた賑やかになるだろう。
やがて、規則正しい革靴の音が彼方から響いてきた。ほら、やっぱりみんないるんだわ……微笑を漏らしかけた時、ドアをノックする音がした。
「村野女史、お早うございます」
「ああ、恭太郎さんなの、お早う。撮影はこれから?」
「それどころじゃありませんよ、女史」
「まあ、それどころじゃないって……?」
「とにかく、これをご覧なさい」
慌ただしく靴音を鳴らしながら、室に入り込んでくる陣恭太郎。よく見ると、手に一枚の紙切れを持っている。
「それは?」
「正門の柱の裏側に留めてあったんです。心してお読みなさい、僕らは裏切られたのです」
「エッ!」
そう言われても、また該当の箇所を指差されても、何が何だか呑み込めぬ。文字を目で追っても、視線が滑って、まるで事実を受け入れるのを拒むかのようである。
『我らは芸術を愛するが故、ルリ・キネを愛するが故、敢えてストライキを実行す。解除の条件は左の通り。
一、『花のゆくえ』初版の脚本を正とすること
二、芸術の迫害者たる勇進日報社の傘下から離脱すること』
そして、裏側には監督の尾藤をはじめ、自分以外のルリ・キネ社員全員の署名が並んでいた。その中に、女鳥とルミラの名もあるのを発見して、女史は愕然とするほかなかった。一致団結して作品を作っていた頃の思い出が、めまいのように彼女の頭を掻き乱す。たまらなくなって額を押さえると、すかさず恭太郎が声をかける。しかし、労わりのためではない。
「女史。こんな蛮行を許してはなりません。僕らも毅然とした態度を取る必要があります」
「どうやって……?」
「ひとまず僕は、父にこの件を話します。今からやれば、明日の朝刊か、遅くとも夕刊には間に合うでしょうよ。……では、また」
靴音が再び遠ざかっていくのを、半ば夢のように聞きながら、女史はなおも額を押さえ続けていた。自分のしたことの誤りに、漸く気づいたのである。しかし、些か遅すぎた。
*題名は、日活の京都撮影所で製作され、昭和3年(1928年)1月に封切られた映画「叛旗」から。
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