第5章 紅筆

 女鳥達は浅草の手前まで自動車で、それからは人目につかぬ通りを歩いて喫茶・華へと向かった。女鳥は、できるなら芸華劇場を外観だけでも見ておきたかったのだが、大通りに面しているので人ごみも物凄く、諦めるしかなかった。


「華」は通常営業終了後ということもあり、仲間内だけで伸び伸びと過ごせるのが有難かった。


「まあまあ女鳥ちゃん、ルミちゃん、栄ちゃんも、よく来てくれたこと! 会わない間に、すっかり活界の星になっちゃったわねえ。ご飯はまだなのでしょう、食べていきなさいね」

「ありがとうマダム、そうするわ。……芸華会の人達は、今日いらっしゃる?」

「そろそろ来るはずよ。座って待っていらっしゃいな」


 言われるまま、奥まったテーブルに着いたものの、女鳥の目は出入口のドアに釘付けである。ルミラに指摘されてハンドバッグは椅子の脇に下ろしたが、その間もじっと、チョコレート色の木のドアを見つめるほどの熱心さ。――それだから、来客を知らせるベルがチリンチリンと鳴った時、彼女は咄嗟のことに身体が動かなかった。


「やあ、今日は先客がいるのかい」

「他磨己、久し振りねえ。私達のこと覚えていて?」


 そう言いながら立ち上がったルミラに、瞬時驚く他磨己。瞳を泳がせて、その傍らに座る妹の姿を見出すのにさして時間はかからなかった。2人の燃えるような眼差しが、空中でぴたりとかち合う。「女鳥!」兄の唇から漏れた名は、この緊張した空間に一種の鋭さをもって響いた。女鳥はふらつく足取りで、立ち尽くす兄のもとへと歩んでいく。


「……」


 兄妹は、芸華劇場で邂逅した昔日のあの日と同じように、互いを見つめ合ったまま黙りこくっている。しかし傍で見れば、その瞳に複雑な感情の交錯するのが読み取れるはずである。嬉しさ、気まずさ、悲しみ、欲求、ある種の憤り、そして紛れもない愛情……。


「兄様!」


 胸が一杯になった女鳥は、ただそれだけを口にすると、大胆にも目の前の彼に抱き着いた。すぐにハッと我に返って身体を離そうとしかけたが、相手の腕がそれを止める。同じように抱き返すことによって……。


 あの卒業式の日以来のわだかまりは、消え去ったかに見えた。


「兄様、もう私のこと怒っていらっしゃらない?」

「ああ、寧ろ応援しているよ。お前が驕らず、真面目に芝居を勉強しているとわかったからね」

「芝居だけじゃないわ。声楽と舞踊も、専門の先生に毎週見ていただいているのよ。ほら兄様、ロベルティーニ先生、覚えていて? 私を最初に認めて下さった声楽の先生。あの方のお弟子さんが東京にいらっしゃるので、歌はその方に習っているの」

「それならなお安心だな。兄さんはお前の黄金の喉が錆びついてやしないかと、そればかり心配だったのでね、ハハハ」

「嫌な兄様ねえ……」


 先まで言葉が出なかったのが嘘のように、饒舌になる女鳥。他磨己も大らかな笑い声を響かせて、ひどく機嫌が好いらしい。しかしながら、彼の声の中に何かよそよそしいものがあるのを、女鳥は敏感にも感じ取った。


 やがて、重松や昇、彦也、蛍子らがばらばらと「華」を訪れ、そのうちにマダムの料理も出て来て、一同は昔に還ったごとくうち騒いだ。女鳥も、先程の懸念は勘違いだったのかもと思うようになった。それほど、兄・他磨己の表情は晴れ晴れとして見えたので。


 ――この少し前まで、喫茶・華の窓に近い壁際で煙草をふかしながら、陣恭太郎はそれとなく店内の様子を窺っていた。自分には冷淡な女鳥が、あれほどの感激と好意とをもって抱き着いた男の存在……。それが、女鳥達が店に入って暫くした頃、数人連れでやって来た若者のうちの1人だと思い至ると、恭太郎は吸いかけの煙草を地面に叩きつけた。靴底で苛々と踏みにじりつつ、お付きの運転手に命令する。


「さっき店に入っていった奴の名前を探って来い」

「どなたです。結構いらっしゃいましたが……」

「目鼻立ちの西洋人じみた細身の男だ。最初に入っていった」

「はあ」


 運転手は顔中を疑問符だらけにしながら、それでも坊ちゃんの命令を遂行した。近くの店や行き交う人々に幾度も聞き合わせて、やっと彼らが「芸華会」という劇団の面々だということが判明した。その看板俳優たる石川他磨己こそ、坊ちゃんの言う通りの人物像であることまで突き止めて、漸くご報告に及んだ。


「ふうん、石川他磨己、か」


 恭太郎はそう呟いて、ふとにやりと口元を歪めると、一人すたすたと元来た道を戻り始めた。慌てて運転手が後を追いかける。


 彼らの自動車が浅草を去った後も、喫茶・華の窓にはまだ煌々と明かりが灯っていた。




 村野女史は明け方頃になって、事務室の机にうつぶして眠りこけていたことに気づいた。腕の下には、書きかけの原稿用紙。恐らく意識を失う直前のものだろう。ミミズののたうつようなインクの跡が縦横に走っていた。字の形を成してすらいないこの代物を、いつもの彼女ならば笑い飛ばして済ませたに違いない。しかし今の彼女……陣勇之進の度重なるだめ出しとルリ・キネ社員の反発の板挟みに遭い、疲弊し切った彼女には、このインク跡こそ自分の本当の姿であるように思われてならなかった。苦しみ悶えた挙句、誰にも伝わらぬ言葉ならぬ言葉を生み落とす生き物……。


「そんな下らないことを考える暇があったら、ものになるシーンを書いたらどうなの、黎子」


 自分で自分を叱咤し、椅子を立つ。洗面所で身だしなみを整えているうちに、日が大分高くなってきたので、そのまま朝食を買いに外へ出る。春の朝の冷気が肌に心地よく、呼吸すると頭の中までもすっきりと冴えてくるようだ。


 歩いて数分の所にあるパン屋に入ると、顔なじみの女店員がにこやかに挨拶してくる。


「村野女史、おはようございます。また仕事場で寝られましたの? いけませんよ、無理をなさっちゃあ」

「ええ、わかってはいるのだけど、どうしてもねえ。……餡パンと、ハムパンいただける」

「餡パンと、ハムパンですね」


 ガラスケースの中から、パンを取り出しながら、話し好きの店員は言葉を続ける。


「本当にね、女史には健康でいてもらわないと困ります。私なんか、女史のお書きになる活動が楽しみで頑張っているようなものなんですから。他の活動の女優は、何かっていうとすぐ袖を顔に押し当てて泣いたり、気を失ったりするじゃございませんか。でもルリ・キネのものは決してそうはせず、自分の持てる力で物事を解決していますでしょ。だから見ていて胸がすかっとするし、自分にもできそうな気がしてくるんですよ。……」


 店員のルリ・キネへの賛辞は、女史を幸福にさせた。帰る道々、2つのパンが入った紙袋を胸に抱いていたが、じんわりと温かく感じるのは、焼き立てパンの温もりのためばかりではあるまい。


 再び事務室の机に向かい、買ってきた餡パンをかじりながら原稿用紙にペンを走らせる。以前、陣勇之進に文句をつけられた部分の直しであるが、前後の繋がりを考えると丸々書き換える必要があることに、女史はずっと頭を悩ませていた。


 私は芸術家だ。そして新時代の女性のためにペンを以て闘う身なのだ。今までの脚本だって、その熱意を込めて書き上げてきた。しかし――と彼女は内心で打ち消さざるを得ない――『花のゆくえ』は、その片鱗があるとはいえ、成り立ちからして毛色が異なるものである。それが多くの人に話題にされる理由であり、陣勇之進に目をつけられる理由であり、また自分が引け目を感じる理由なのであろう。


 女史はいつしかペンを持つ手が止まっていることにも気づかない様子で、またもじっと考え込んでしまう。と、そこへ快活なノックの音が響く。


「おはようございます、村野女史。入ってもよろしいですか」

「ええ、どうぞ」


 女史は声の主、陣恭太郎を招じ入れた。彼はこの頃よくここを訪れて、何気ない話をして帰っていく。それだけでも、女史は正直なところ嬉しかった。ルリ・キネの社員は、自分に反感を持ち始めており、以前のように親しく話し合い意見を交換し合うこともなくなっている。孤独な彼女の心を慰め元気づけるのは、今はひとり恭太郎あるのみ。それがどんなに、危険な状況かも知らないで、或いは知っていても見て見ぬふりをして、彼女はこの逢瀬を楽しみにしている。


 事実、この手厳しい女史の心を掴み得るほどに、恭太郎は優しく誠実であった。……外面は。


「今日も脚本の修正ですか」

「そうよ」

「お大変だと思いますが、頑張って下さいね。映画を楽しみに待っている人があるのですから。……僕もその一人です」


 そんな風な調子で彼は、言葉巧み、節巧みに鼓舞する。女史のペンはそれを受けて、すらすらと動いていく。彼の声を聞いていると、彼女の中で半ば持て余していた精二という人物が、初版とは異なる性質をもって、まざまざと浮かび出てくる。その姿形や立ち振る舞い、喋り方が、目の前の青年に重なる。彼、陣恭太郎こそ、『花のゆくえ』の精二である……そんな確信が生まれるのも時間の問題であろう。そして、当初『花のゆくえ』に込めていた意味を忘れるのも。


「……ええ、精二の出番は大分増やしているわ。璃枝子との恋愛模様の方を強調するためよ。映画の、それも大作に仕上げるには、恋愛とそれに絡まる心情の変化というものを描かなくてはね」

「そうですね、女史。メロドラマに定評のあるルリ・キネなんですから、ロマンスをふんだんに取り入れるのは良いご判断だと思います」

「そうよね、やっぱり! 以前は家族愛を重視した作りになっていたのだけど。私も恋物語の方に舵を切るべきだと感じていたの。でも書き直す分量が多いので躊躇していたのよ。だめね、真に良いものを生み出すのを面倒臭がっては……。恭太郎さん、私頑張るわ。きっと素晴らしいものを仕上げてみせるわ」

「ええ、存分に御奮いを! ああ僕もお手伝いできればよいのですが、専門外ですので、応援するしかできません」

「いいのよ、あなたの応援は百人力ですもの……」


 女史はにっこり笑った後、「よし」と気合いを入れて再びペンを持ち直した。原稿用紙は、傍で見ていても気持ちいいほど、すぐに文字で埋め尽くされていく。今朝、ミミズののたうつようなインク跡を残したことなど、彼女の頭からはとうに消え失せていた。


 さて、所謂「筆が乗っている」状態の女史は、わかっているのだろうか? 明確に判別しないまでも、僅かでも気がついているのであろうか。恭太郎が、脚本の直しについて激励するばかりで、「父に発言を撤回させましょう」といった類の言葉を一言も発さなかったことに。それは、子の口から、父の命令に従事するよう仕向けられていることを意味する。父たる陣勇之進の声には眉を寄せた女史も、息子の恭太郎の声には喜んで耳を傾けた。2人が、態度が異なるだけで同じことをしているという事実に、賢明な彼女が思い及んだか、否か。


 或いは……却って、今こそ新たなる『花のゆくえ』をもって世のために踏ん張る時だと奮起したかもしれない……?




 邸内のだだっ広い洋間の真ん中に、立ち尽くす男3人。彼らは邦光家の実権を握ろうと画策し、如何にして精二らを追い出そうかと話し込んでいる。うち1人が煙草を取り出して咥え、マッチを擦る。ぽっと明るくなる手元。


 その時、突如として、瀟洒な扉が喧しい音とともに蹴破られ……。


「カット、カットだ! そんなじゃ、だめだ、何度言ったらわかるんだ」


 尾藤監督が立ち上がって怒鳴り散らす。倒した扉を忌々しげに踏みつけながら、精二役の陣恭太郎が口を尖らす。


「僕は言われた通りにしましたよ。少し後ろの方から走ってきて、片足で力一杯蹴り上げたんじゃありませんか」

「馬鹿ッ。それはあくまで『何をするか』を伝えたに過ぎん。君のような役者というものは、『何をするか』に加えて『どう見せるか』まで考えなければならんのだ。そこに役者の個性が現れる。いつまでも手取り足取り教えてやいられないんだぞ」


 ただの役者でこんなに出来の悪い、おまけに態度も悪い奴に出会ったら、尾藤は即刻解雇を言い渡すだろう。しかし相手は出資者の息子にして、上司のお気に入り。この頃では後者の可愛がりぶりが目に余るようになってきたこともあり、下手をするとこちらの首が飛びかねない。


 困ったように弟子の栄介を見やると、彼は一瞬ニヤリとして、こう提案する。


「監督、陣さんができないとおっしゃるなら、『見本』を見せたらどうですか」

「『見本』か! いいところに気がついたな」


 反復したその単語に、どんな意味が込められているか、恐らくは恭太郎以外の全員が勘づいた。ともあれ、尾藤は『見本』として、ルミラに同じ場面をやってみせるよう命じた。


「ええ、ようございますとも」


 倒れた扉をもう一度据え直させてから、尾藤自ら開始の合図を送る。ルミラは、恭太郎のように助走をつけず、すぐ後ろから扉を蹴り倒してみせた。……横になった扉を踏みしめる長い脚、それを伝い上るように視線を動かすと、見下ろすような冷たく鋭い眼差しにぶっつかる。


「これだよ、私が求めていたのは!」


 尾藤が飛び上がるようにして叫ぶ。他の者も同じ気持ちだった。


「突如として扉が倒れる。ここで観客はまず度肝を抜かれる。この時、視線は横倒しの扉、つまり地面にあるんだ。そこから脚、胴へと視線が移り、顔で止まる。その時の表情で、観ている者の心をがっちりと掴まねばならんのだよ。勿論掴むだけでなく、その場の状況に相応しい表情でなければならんのは言を俟たんが……。おい、陣はどこだ」

「出て行きましたよ、監督。大方、女史の所に泣きつきに行ったんでしょう」

「全く、指導しがいのない奴だ。おいみんな、NGの連発でいい加減疲れたろう。暫く休憩でいいぞ!」


 やれやれ、とばかりに椅子や床にへたばる一同。本当に、大根だって転がせば転がるものを、自称スター候補の陣恭太郎は妙に意地を張って、指摘されても直そうとすらしないのだ。同じ場面ばかり演じて、飽きてくるのもわかるが、一体誰のために同じところを繰り返しているのか……をせめて考えてほしいと思う。ずっと付き合わされてきた女鳥やルミラは特に強く感じていよう。


 しかし怒ってばかりいても体力を削がれるだけなので、女鳥はセットの端に座りながら、先程『見本』になったルミラの姿を思い起こすことにした。あの演技は誰が何度見ても、胸がすくような感じがするであろう。


(そう、まるで……他磨己兄様の芝居に似ていたわ。いっそ相手役が兄様なら、こんな困ったことにはならないのに)

「女鳥ちゃん。何考えているの。楽しいこと?」


 ふと見上げると、ルミラが快活に笑っていた。女鳥も自分で自分の頬に手をやって、微笑していたことに気づく。


「ええ、さっきの『見本』のことよ。ルミラさんの芝居、とても素敵だったわ」

「ありがとう。女鳥ちゃん、他にも考えていることあるでしょう」

「わかって? 兄様のこと」


 隣に腰を下ろしたルミラは「ああ、やっぱり」とうなずいて微笑を浮かべる。


「そろそろ昔の相手役が恋しくなって?」

「そういうわけでもないけれど……兄様が相手なら撮影も捗るでしょうね」

「そりゃ、そうさ」


 いつの間に来ていたのか、栄介も傍らにしゃがみ込む。手には新聞紙を持っているが、今日日付のものではなかった。女鳥は訝しそうにその紙面の文字をぼんやりと見つめていた。


「いっそのこと、他磨己さんを推薦しようと思ったくらいだ。してもいいかなあ」

「してよ、栄介。いくら出資者の息子だって、作品の質を落とす奴はごめんです、てさ」

「でも今の女史が聞いてくれると思います? 何を吹き込まれたのか知らないが、あの大根にすっかりお熱じゃないですか」

「あれは、そういうふりをしているだけじゃないの?」

「いや、俺が見る限りでは本心からのようですよ。……うーん、あの時とは状況が違ってきているのかなあ」


 言いながら栄介は、手にしていた古新聞を広げる。


「何それ。3月13日……随分前のものじゃないの」

「はい。以前に女史が陣勇之進に脚本の書き直しを命じられたその瞬間、俺は立ち会っていたんです。その時に陣から、当日の『勇進日報』の夕刊を買って来いと言われて、その通りにしました。……この後は、俺は部屋を出たので立ち聞きしたに過ぎないのですが、陣はこの夕刊の記事のどれかを用いて、女史を脅迫していたようだったのです。――この古新聞は後で手に入れたものですがね」

「そんな昔のもの、取っといた人がいたのねえ。……どうれ、何か気になる記事あって? 女鳥ちゃんも探してみてよ」

「ええ」


 そういうわけで、女鳥を真ん中に、栄介とルミラがそれぞれ端っこを持って、古新聞の点検が始まったのだった。3人とも目を皿のようにして細かい文字を追っていくが、さて女史の弱みにつけ込むような記事は見当たらない。


「これ、関係あるかしら。勇進日報社が平和会書房を買収した、ていうの」

「ああ、それは俺聞いていました。女史は『花のゆくえ』の出資元を勇進日報社からこの平和会書房に切り替えて再出発しようとしていたらしいんですが、買収のために全て水泡に帰してしまったんです。……これとは別に、脅迫の種があるようでしたが」

「じゃあ、これは? アメリカでは『トーキー』なんてものの研究が盛んなのですって。映画から音が出るなんて、吃驚ね」

「女史なら喜び勇んで、全編台詞入りの『トーキー』を作りたがるよ、ハハハ」

「そしたら愈々あの大根はお払い箱ね。それに、映画に音がついたら、あの唐変木の他磨己だって馬鹿にしなくなるわ。舞台人と同じだけの技量が必要になってくるでしょうからね」

「じゃあルリ・キネで最初の『トーキー』を作る時には、芸華会全員に声をかけてやりますよ。主役は女鳥ちゃんと他磨己さんのゴールデン・コンビだ」

「いいわね」「いいわねえ」


 思わず手を打つ女鳥。と、その頭上に影が差す。俄かに辺りが暗くなったので目を上げると、例の大根役者が怒りを隠し切れぬ様子で立ちはだかっていた。恐らく彼はその少し前から、3人の会話を聞いていたのであろう。――女鳥はバツが悪くなって、再び俯く。ルミラが機転を利かせて言葉を継ぐ。


「まあこれご覧なさいよ。殺人犯が脱獄したんですって、怖いわねえ」

「ルミラさん、怖いことありませんよ。ここからずっと隔たった所の話ですよ。……」


 しかしそんなやり取りで誤魔化しても、もう遅かった。


 陣恭太郎は憤然として、再びセットから姿を消した。向かった先は、勿論、村野女史のいる事務室である。


 恭太郎から事の次第を聞かされて――幾分か誇張されているが――、女史も憤りを禁じ得なかった。彼女はこの期に及んで、いや、この期に及んだからか、恭太郎が至極真面目に撮影に取り組み、芸の上達に努めているのだと信じ切っていた。必死に努力する人を、それも多勢で、嘲るとは何事か! 彼女はこの頃では撮影所に姿を現すことは稀になっていたので、実態――恭太郎が努力もしなければ、その姿勢を改めようともしない――を知る由もなかったのである。


 加えて、女鳥達はこの誠実な(女史にはそう見える)青年を退けて、あの高慢ちきの舞台至上主義者、石川他磨己を推薦しようというのだ。女史は未だに、あの若者を芸華会から引き抜こうとしてこっぴどくやられたことを忘れていなかった。彼女は芸華会の面々とルリ・キネ移動組が和解したことをまだ知らなかったが、知っていたとしても、あの石川他磨己だけは許さなかっただろう。彼女の中では彼はなお、「ルリ・キネの敵」で、それを覆す何事かをしてくれない限り、警戒せざるを得ないのである。


 その警戒心は、今や、女鳥やルミラをはじめとする社員に向けられようとしている……。


「女史」


 善の権化、恭太郎が厳しい表情で詰め寄る。


「あなたは『花のゆくえ』を通して、人々に訴えなければなりません」

「ええ」

「最後には善良なる者が勝利する。そうでない者は悔い改めるまで救われぬ。それこそ我々が伝えるべきことです」

「ええ」

「今のままではルリ・キネは、芸術の名を借りて人々を堕落させる悪魔にすらなりかねないのです。それを阻止できるのは、女史、あなただけなのですよ!」

「ええ、わかっているわ!」


 彼女は先から、赤インクに浸したペンで脚本の手直しを続けていたが、今また書く速度を増した。一心不乱に紅筆を走らせる彼女を目の前にして、恭太郎は喜悦の表情を浮かべずにはいられなかった。まるで、新たな力を神から与えられた勇者のように。




*題名は、帝国キネマで製作され、大正15年(1926年)10月に封切られた映画「紅筆」から。

*作中の時間は昭和3年(1928年)の春頃としているが、この半年前に、アメリカでは初のトーキー映画「ジャズ・シンガー」が公開されている。とはいえ、全編お喋りのオンパレードだったわけではなく、歌唱シーンなど部分的に音声が付く、パート・トーキーだった。「お楽しみはこれからだ!」の名台詞(というより名翻訳)が有名。これが爆発的にヒットしたので、アメリカでは急速にトーキー映画の研究・製作が進んだ。

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