第4章 夜の狼
恭太郎に連れられてきた銀座のレストランは、左程混んでいなくて雰囲気もよかった。惜しむらくは常に正面もしくは横に恭太郎がいて、ろくに料理が美味しく感じられなかったことだ。
「女鳥さん、腹もできたしドライブと洒落込もうよ」
そう言って腕を取る恭太郎に、女鳥は心底うんざりして、それでも微笑は崩さずに、
「ええ、ありがとう。でも私もう疲れていますの。真っ直ぐ家の近くまで送っていただけないかしら」
と丁重に断った。相手は不服そうだったが、無理強いはしなかった。
運転手に行き先を告げ、後部座席に身を沈める。幌がないので夜風が直接顔をなぶっていくのも気持ちがいい。同時に頭も冷やされて、自分の言うべきことを組み立てる余裕も生まれた。
「……陣さん。撮影所でご自分がおっしゃったこと、お忘れではないでしょうね」
「何のことだい」
「『花のゆくえ』の脚本を元に戻すことですわ。そのために私ここまで参りましたのに」
彼は乾いた笑い声を立てて、女鳥の肩を抱く。酒臭い息がすぐ近くにかかって、女鳥は顔を背けた。
「お止め下さい、陣さん。私の質問に答えて下さいまし」
「脚本のことかい。ハハハ……答えは『ノン』だよ」
「ああ!」
「それよりもね、女鳥さん。僕は脚本のことなんかより、もっと大事な話をしたいんだ。君も喜んでくれるはずさ」
にじり寄り、至近距離で伝えられた言葉。
「僕と結婚してほしい」
女鳥は顔を背けたままであるが、その身体が次第に震え始める。相手はそれを、喜悦の証と受け取り、手を握りしめて幾度も接吻をする。
「止めてッ! 止めて下さいったら」
「なぜ嫌がってみせるんだい、嬉しいくせに」
「嬉しくなんかありませんわ、私怒っていますのよ。……あなたはご自分のことしか考えていらっしゃらない。私と結婚したいというのは、私を愛しているからではなくて、征服したいからなのでしょう。愛の中に征服は含まれませんよ」
「含まれているさ。それでも君が反論するなら、こう言ってやろう。含めてみせる、と」
「嫌ッ」
力づくで迫ってくる男を、押しのけようとあがく。が、やはり両者の力の差が大きく、女鳥は一方的に不利だ。自分でもそれがわかるので、彼女は憤りと悔しさと情けなさとに涙を零さずにはいられなかった。やっぱり、ルミラさんの言うことを聞いて、大人しくしていればよかったんだわ。自分でどうにかできると自惚れた罰が当たったのだわ……。
近くに助けを求められる人家はないかと外を見やるが、生憎月光が雲に遮られて何も見分けられない。そもそも、この走行中の自動車から飛び降りるなんて芸当をしたら、ちょっとやそっとの怪我では済むまい。撮影に支障が出るような危険は冒せない……。かといって、この男の言いなりになるのはもっと嫌!
絶望的な気持ちになって、もう一度外を見やってみる。と、先まで聞こえなかった別のエンジン音が後方から近づいてくるのに気づいた。これには流石の恭太郎も顔を上げた。
「何だ、あの音は」
「ずっと後ろを走っていた自動車ですが、物凄いスピードを上げてきましたよ。もう横に並ぶようです」
運転手の言う通り、白い幌を張った自動車が爆音と砂煙を立てながら、女鳥の側の道を並走し始める。そちらは運転手と、後部座席に、季節外れの毛皮にくるまった貴婦人が乗っているきり。女鳥はその貴婦人に、何ともいえない思慕のような気持ちを抱いた。
その時、件の貴婦人がくるりとこちらを振り向いた。同時に、車の幌が後方に折り畳まれていった。
こちらにいらっしゃい!
貴婦人が両手を大きく広げて微笑む。女鳥は駆けている車の中なのも忘れて、向こう側に乗り移ろうと立ちかける。
「君、危ないじゃないか、止めたまえッ!」
恭太郎の腕が力づくに押さえにかかる。女鳥は何度ももがいた挙句、ハンドバッグを一方の車内に投げ入れることに成功した。恭太郎がそれに気を取られている隙に、女鳥自身も座席に足をかける。そのまま素早く向こう側に飛び込んだ。転げるようにして来た女鳥を、貴婦人のしなやかな腕がしっかと受け止めた。
「畜生ッ」
地団駄踏みながら悪態を吐く恭太郎に、貴婦人が勝ち誇ったように言い放つ。
「元はといえば自分が悪いんじゃないの、女の子に乱暴してサ。それも屋根のない車でなんて、後ろから丸見えで見苦しいったらありゃしないわよ」
外見に反して下町式の啖呵。恭太郎もだが、助けられた女鳥も呆気に取られる。その間に、貴婦人風の女は手ぶりで元通りに幌を上げさせ、恭太郎の車を追い越させた。
遥か後方に遠ざかっていく相手の車を見やって、女は至極面白そうである。
「ああ、せいせいするわね。虎の威を借る狐なんて、私大嫌い――あの車だって自分で買ったものじゃあるまいしさ、何を偉そうにふんぞり返っちゃって、ホホホホ……。ところであなた、石川女鳥さんでしょう。私が誰だかおわかりになって?」
「え?」
不意に聞かれて、改めて相手の顔をまじまじと見る。面識はないはずだが、確かにどこかで見たことがある顔だと思った。でも、どこで……。
女はなおも、大きな丸い目を悪戯っぽく光らせて、含み笑いをしている。
「こう言えば、わかるかしら。私、芸華会にいたことがあるの。他磨己やルミちゃんと一緒に舞台に立っていたわ」
ハッとして身を離す女鳥。彼女の中でひとつの名前が、苦い感情とともに呼び覚まされる。
「丹羽モミヂさん」
「ご名答。どう、芸華会のみんなは元気にしていて? 時々は会うの?」
「ええ、会ってはいませんが、皆さんお変わりないそうですわ……」
女鳥の態度が、本人はそう見せまいと努めているが、どことなくよそよそしくなったのはモミヂにも感じ取れた。その原因も、さといモミヂには大方想像できた。
「女鳥さん、私をお嫌いなのね」
「まあ、そんなこと……」
「嫌いというと、確かにちょっと違うかもね。でも芸華会でもルリ・キネでも、あなたの前に私がいたことを知った時、あなたがどう思ったかくらいは予想できてよ」
それ以上誤魔化し続けることは、女鳥にはできなかった。小さくうなずき、後はひたすら沈黙した。やっぱり自分はこの人には敵わないのだ、と打ちひしがれた心を抱いて。――その肩に、モミヂの華奢な手が置かれる。
「あなたはご自分が、私の後釜として主役の地位にいるのだと思っていらっしゃる。確かに、芸華会の時はそうだったかもしれないわ。私は急にルリ・キネ入りを思い立ち、袂を分かったのだもの。その後の主演女優選びに苦労したことは私の耳にも入ってきた。……でも私はルリ・キネでの仕事が楽しかったから、舞い戻る気もない代わりに、同業他社の誘いに乗る気もまたなかった。可能ならずっとルリ・キネにいたかったわ。……でもある日、他ならぬ村野女史から呼び出されてこう言われたの。ルリ・キネを辞めて、大手のS社に移籍するように、と」
「まあ。あなたからお出でになりたいと思ったのではなかったんですか」
「そうよ。要するに私、追い出されたの。そしてその後に来たのが、女鳥さん、あなただったわ」
「……」
「これはあなたを責めて言っているのではないの。私はね、あなたにもっと自信を持ってもらいたいのよ。この丹羽モミヂをルリ・キネの看板女優の座から降ろさせるほど、期待されている存在なのだと」
目頭が俄かに熱くなる。――内心ずっと意識していた当の相手に、自分のことを認めてもらえるなんて、あまりに思いがけなかった。同時に今まで芸道に打ち込んできたゆえの苦しみの数々が、一度に蘇って波のように、自分自身を押し流してしまいそうだった。――嬉しさとやるせなさの交錯。女鳥はもう嗚咽を止めることができなかった。モミヂに優しく抱き寄せられると、それは一層激しくなった。子供のようにしゃくり上げる女鳥の背を撫でるモミヂの姿。それはさながら慈母のようであった。女鳥は、ルミラに感じるのと似た親しみを、温かさを、モミヂの中に見出していた。彼女へのわだかまりはもうすっかり消失してしまっていた。
自動車は、2人の娘の心を掻き乱さぬよう、静かに、静かに夜道を流して走る。
ゆうべあのようなことがあっても、恭太郎の女鳥への執着は止まらなかった。寧ろ、より馴れ馴れしさが増したといってよい。それが愛情からでなく、身勝手な意地に基づいた征服欲の現れであることは、誰の目にも明らかだった。
「女鳥ちゃん、一人きりにならない方がいいよ。できるだけ俺達の傍についていなよ」
ルミラや栄介達、仲の良い人々がそう言い出して、自然女鳥を護る格好になる。女鳥も、申し訳ない気持ちと心強さを感じながら、彼らの輪の中に身を置く。そうしていると、いつか心が和んでくるのである。芸華会の舞台裏で駄弁っていた時の心安さが、ほんのりと、立ち昇ってくるのである。
今日も撮影の後、ひとつところに集まって皆でワイワイ喋っている。帰るにはまだ少し早いという時間帯。大分傾いてきた西日が眩しい楽屋の裏手に、いつもの顔ぶれが並ぶ。女鳥、ルミラ、栄介。時々、他の面々が来ることもあるが、今日はこの3人だけだ。
「しかし、困ったね、あの脚本には。ルミラさんの出番がすっかり無くなっちまって、俺達も大変ですよ」
「へえ、なんであんた達が大変なの?」
「考えてもみて下さいよ。代わりにあの大根の出番が増えたんで、今まで綿密に計画していたカメラワークや何かが全部パアになったうえに、なおあの大根がよく映るように工夫しなきゃならないんですから。大根のくせに煮ても漬けても不味いんじゃどうしようもありませんよ」
「アハハハ……」
大笑する栄介とルミラ。内容が内容だけに、外に聞こえていたらどうしよう、と女鳥など気が気でない。同時に、そんな小心者の自分が毎度ながら情けなくなる。いつかは一人でも、陣恭太郎やその父親と渡り合えるようにならなければならないというのに。
そう、いつまでも守られてばかりではいけない。今は自分の力で、この状況を打破できないか考えてみる必要がある。……この間の陣恭太郎との件があるから、ルミラのような立ち回りをするのは絶対にだめである。となると、全然別の方向、たとえば映画の出来そのもので、抵抗を示すことはできないだろうか。……
「どうしたら陣父子の『検閲』をかいくぐって良い芝居を残せるかしら……」
無口だった女鳥がぽつりと呟いたので、他の2人の目がそちらに向く。
「まあ女鳥ちゃん、ずっと黙りこくっていると思ったら、そんなこと考えていたの。偉いわね」
「あら、そんな大層なことじゃないわよ。ただ、ふっと思いついただけ」
「でも大事なことだよ。少なくとも、あの大根の悪口並べるよりはずっと有益な話だ。さあ、俺達でひとつ考えてみようじゃないか」
「栄介さん、こういう話題になると俄然楽しそうね」
「本当、目が輝いていてよ」
「よせやい」
かくて意見交換会と相成る。――とにもかくにも、陣父子は観客のことを度外視して、自分勝手にことを進めようとしている。観客は、元になった記事とルリ・キネ作品の雰囲気を頭に描いて観に来るのであろうから、どんなに改変してもそのイメージは損ねてはいけない。台詞がない分、細かな表情や仕草の変化を組み合わせて使う必要がある。困難だが成功したら、言葉よりも雄弁に物事を伝えることができよう。――等々の意見が短時間のうちに発せられる。栄介は手帳に逐一書きつけて、悦に入っている。
「これ、他の人達にも聞いてみようかなあ。尾藤先生、こういうこと大好きだから大乗気で来るぞ」
「大乗気はよかったことね、ホホホ……。まあ、陣父子を除いた全員にやってみるといいわ」
「陣恭太郎がせめて、他磨己さんの万分の一の才能を持っていれば、ちょっと質問くらいはしてもいいんだがね。あの体たらくでは聞いたって仕方ないからね。……あれ、女鳥ちゃんどうしたの。俺の顔に何か付いている?」
「え?」
女鳥は我に返って漸く、自分が栄介の顔をまじまじと見つめていたことに気がついたのだった。それは、懐かしい兄の名が出て、無意識のうちに思いを馳せていたからに他ならない。彼女は素直に答えた。
「ええ、兄さんのことを考えていたのよ」
そう口に出してみると、なお兄恋しさが募って、鼻の奥がツンとしかける。忙しさの中にあっても、時折ふっと懐かしくなるのは故郷の景色だと人々はいうが、女鳥にとっては古巣の芸華会がまさにそれであった。ルリ・キネに来てからかれこれ1年は経とうが、その間芸華会へは決して還らず、したがって兄の姿にもずっと接していない。
「兄さんに会いたい?」
ルミラの問いにうなずくと、相手はにっこりと笑ってみせた。「じゃ、会いに行きましょう」そして、突然の成り行きに何も言い得ないでいる女鳥を促して部屋を出た。――いつ芸華会のことを言い出そうかと、ルミラ達は前から考えあぐねていたのだが、やっとその機会を捉えたのである。少し早いが、喫茶・華で待っていれば、いずれ皆やって来るだろう。――自動車を掴まえて乗り込みながら、女鳥はどきどきと、ルミラや栄介はわくわくと、高鳴る胸を押さえている。愈々、芸華会とルリ・キネに別れた者達の和解の時が、訪れるのだ。
……しかし、彼らは些か浮かれすぎていたのかもしれない。平常心なら気がつくであろうに、この時ばかりは背後をつけてくる人影に、或いは自動車に、全く注意を払わなかった。その人影は、他ならぬ大根、じゃなかった、陣恭太郎のそれである。
女子用楽屋の裏手からげらげらと人の笑う声がするので興味を惹かれ、よくよく聞いてみると、なんとまあ自分の陰口ではないか。すっかりへそを曲げたところで、そこに女鳥も加わっているのを話の端々から窺い知り、今度はやけに腹立たしくなる。そして彼らが芸華会に行こうとそこを去った後、いても立ってもいられなくなって密かに尾行を開始したわけだ。幸い自動車は、自分専用のものを表に待たせていたので、相手方が発進した後も左程慌てずに済んだ。
「若旦那様、浅草の方へ向かうようですよ。道が狭くなりますが……」
「構わん。そうしたら歩いていくさ。向こうだってそうするだろうからな」
2台の自動車は一定の距離を保って、夜なお煌びやかな繁華街、浅草へと駆けていった。
*題名は、帝国キネマで製作され、昭和4年(1929年)2月に封切られた映画「夜の狼」から。
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