バスはいつ来るのか?
夢神 蒼茫
バスはいつ来るのか?
「ねえねえ、そこのお兄さん」
婆さんが俺に話しかけてきた。
特にこれと言って何の変哲もない婆さんで、バス停の椅子に腰かけている。
ただまあ、足腰が悪いんだろうか杖を持っている、そんな婆さんだ。
趣味のバイクに
周囲には何かあるでもない田舎道。
強いて言えば、ちょいと立派な洋館風の建物があるくらいだ。
その洋館の前のバス停、近くの洋館を意識してか、小さなログハウスっぽい小屋のごとき待合室がある。
自販機はそれのすぐ横で、そんな場所で俺と婆さんの二人きりだ。
「いつになったら、バス、来るのかね? 待っていても全然来てくれないんだけど」
「ん~? 到着時刻がまだなんじゃないか?」
「そんなことないわよ。だって、あたし、ここで30分くらいは待っているもの」
「田舎のバスだしな~。遅れてんのか?」
バスなどと言うものは、道路事情等によって到着が遅れる事がままある。
事故での渋滞はそうだし、客とのトラブルで足止めを食らったり、あるいは天候不良での遅延など、運行予定通りにやって来ない事も考えられる。
実際、婆さんの言葉が本当かどうかを確認するため、バス停の時刻表を目をやると、婆さんの言葉が本当だと分かった。
懐のスマホを取り出し、現時刻を確認してみると、『15:35』だ。
時刻表によると、『15:30』がバスの到着時刻になっており、確かに到着していない事が分かる。
道行く途中、路線バスともすれ違ったりしなかったので、すでに通り過ぎたという事もなさそうだとも考えた。
「何かしらの事情で遅れてるんでしょうかね」
「困ったわね~。早く帰って夕食の支度をしたいというのに……。それに、孫がそろそろ小学校から帰宅するから、家が閉まっていると困っちゃうわ」
婆さんはため息を吐き、本当に困っているようだというのは分かった。
とは言え、婆さんをバイクの後ろに乗せて、送ってやる義理も義務もない。
そもそも、婆さんがバイクの後ろに乗れるとも思えない。
自分にできる事など何もないし、適当言って立ち去ろうとした。
その時だ。
「田中さ~ん!」
バス停の側にある建物の方から、誰かが叫んできた。
須山、と書かれた名札が首からかけられており、どうやら介護職員だということは分かった。
バス停の近くにある洋館風建物の門には、『特別養護老人ホーム ことぶき荘』と看板が掲げられていることにも気づいた。
(てことは、この婆さんは施設から抜け出してしまった、徘徊老人というわけか)
たまにあるのだ、こういう事は。
ご老人の中には、老いと共に頭が衰え、自分がどこの誰かさえ分からなくなるのだという。
しかし、昔の記憶はハッキリとしている場合もあり、施設に入所した事は忘れていても、自宅についてはしっかり覚えているのだそうだ。
目の前の老婆にしても、今の自分の現状は理解できず、帰巣本能に従って、実家に戻ろうとしたのではと、俺は判断した。
「なんだい、須山さん、あたしゃ、夕食の支度をしないといけないから、早く家に帰りたいんだよ」
お迎えと言うか、連れ戻しに来た職員を邪険に扱う老婆であったが、そこは施設職員として慣れたもの。
ニコリと笑い、老婆に寄り添う。
「田中さん、忘れたんですか? お孫さんは今、修学旅行に出かけてて、急いで帰る必要もないんですよ」
「おや、須山さん、そうだったのかい。すっかり
二人の会話を聞き、すぐに嘘だと分かった。
家に帰らなくても良い理由作り。そのための嘘で糊塗された作り話だと。
「あと、息子さん夫婦も仕事で遅くなるからと、先程連絡がありましたから、そんなに慌てて帰らなくても平気です」
「そうかいそうかい。なかなかバスが来ないからヤキモキしてたけど、それなら大丈夫だね」
「それにほら、今日のおやつは、田中さんの大好きなプリンですよ」
「まあ、そうなのかい! なら食べないと!」
「おうちに帰るのも急がなくて良いですし、食べてからにしましょうね」
「そうだね。そうさせてもらうよ」
そう言って老婆はベンチから立ち上がり、杖を握って歩き始める。
杖つきとはいえ、足取りは割としっかりしており、介護職員の補助なしでも一人で歩いていけるレベルだ。
(ま、ああいうのが一番面倒な手合いなんだけどな)
老いを重ねると、頭にも身体にも衰えというものが出てくる。
しかし、老いの速度は人それぞれ。
ゆえに、身体と頭のギャップが生じる。
今の老婆とて、受け答えは割としっかりしているし、体の方もまだ元気だ。
しかし、施設に入所した理由の方は覚えていないようである。
最近の記憶がなく、昔の方をよく覚えているという、認知症の老人に有りがちなパターンだ。
おやつを食べているうちに、家に帰ろうとしていた事すら忘れてしまうだろう。
正直、ああはなりたくない。
決してなりたくてなるものではないが。
「いや〜、すいませんね、バイク乗りのお兄さん。迷惑かけちゃって」
「いえいえ。介護士さんも大変だね。よく抜け出すんだろ、ああいう人って?」
「ええ、まあね。でも、こいつがあるから、遠くまでは逃げ出さないんですよ」
そう言って視線を向けるのは、バス停だ。
改めて見てみると、田舎のバス停には不釣り合いな物が多い。
やはり目に付くのは、立派な造りの待合室だ。
大抵のバス停は野ざらしが当たり前。
せいぜい、軽く屋根が付いている程度。
しかし、ここのバス停はちょっとしたログハウスっぽい小屋が建っており、ベンチも硬い木製やプラ製のものではなく、割とクッションの効いた良いものだ。
しかも、すぐ横には自販機まである。
田舎のバス停とは思えない充実ぶりだ。
「まあ、確かにこんな田舎には不釣り合いなバス停だわな。待つ分には割と快適か」
「もちろん、それにも理由があるんですよ。なんでだか、分かりますか?」
介護士からの質問に、俄然興味が湧いてきた。
考えてみれば、このバス停は“浮いている”。
周囲にあるものと言えば、畑や田んぼ、田舎道に沿って民家がぽつりぽつり。
そして、目の前の介護施設。
(田舎の風景としては、特段取り上げるものはない。この異様に立派なバス停を除けば)
周囲の田舎の風景に溶け込まない、なぜか立派な
やはり秘密があるのかと、俺はバス停の外観をじっくり観察したが、理由が見えてこない。
『
(いや、待てよ、これはもしや)
しかし、ふとした閃きが俺の頭の中に駆け巡る。
この異様なバス停、そこの中でもさらに違和感が生じるものを、俺はもう見ていたのだ。
もしやと思い、それを確認してみた。
それは“時刻表”だ。
バス停や電車の駅にはつきものの、発着時間が書かれている物だ。
次にいつ到着するのか、それさえ見ればすぐに分かる、当たり前のように存在する設置物。
時刻表とはそういうものだ。
そして、その閃きが正しかった事を、俺は時刻表を見るなり確信した。
「この時刻表、めちゃくちゃバスが来るじゃないか! 30分、40分くらいの頻度で、バスが来る!」
それは田舎の路線バスではあり得ないものだ。
都市部のバスなら、それこそ5分、10分で次々と来るものだが、それは運ぶ人が来るからであり、人がいない田舎のバスなんぞ、なかなか来ないのが当たり前である。
それこそ、1本逃せば1時間待ち、2時間待ちは
ひどいところだと、朝夕だけ走っているなどという所もある。
だというのに、このバス停の時刻表によると、割と早い間隔でやって来ており、田舎の路線バスとは思えないほどだ。
これもまた、“異様”なのであった。
「さすがはバイク乗りのお兄さん。田舎の交通事情には通じてるね」
「まあね。てか、バスなんて、ここいらじゃすれ違ったりしなかったけど?」
「そりゃそうさ。だって、ここは“バスがやって来ないバス停”だからね」
なんとも意味深な回答だ。
バスの来ないバス停、それは無用の長物という意味でもある。
バスが定期的にやって来るからこそ、バス停はバス停足り得るのだ。
全くもって訳がわからない。
何だというのだ、このバス停は。
「バスが来ない? 廃線バスのバス停か? と言うか、『
それはそれで異様な事でもあった。
聞いたこともないバス会社に、バスが来ないというバス停。
聞けば聞くほど異様な話だ。
疑問符が頭上に浮かぶ俺に、介護士はニヤリと笑う。
「実はですね。このバス停、ドイツの心理学者が考案したものなんですよ」
「ドイツの学者が?」
「その学者先生曰く、『介護施設の前にバス停があれば、自宅に帰ろうとする徘徊老人は必ずバス停に留まる』とね」
答えを聞き、成る程と納得。
徘徊老人の特性、バスの特性、双方が噛み合う見事な見識だと感心した。
「老人が自宅に帰ろうとしても、自分の足じゃ無理だ。そうなるとバスに乗ろうとする」
「そうそう。だから目立つ位置に立派なバス停があれば、必ずここに立ち寄る」
「そして、時刻表の巧みさ。田舎路線にありがちな、長い待ち時間がない。待っても来ないと分かると、歩いて帰ろうとするかもしれないけど、30分くらいでやって来ると分かるとバスを待つ、って事か!」
「よく考えられてるでしょう? このバス停は」
よく人の心理を読み解いた、心理学者らしい発想の産物だ。
これなら、徘徊老人はバス停に留まる。
留まる間、快適に過ごせるよう、天露を凌げる建物とクッションの利いた椅子。
よくよく見てみると、きっちり掃除されているのか、綺麗なままだ。
おまけに自販機もある。
待機するのには、かなり快適と言える。
「あとですね、自販機にも仕掛けがあるんですよ。誰かが触ると、施設内の事務室に分かるように」
「あ~、そうか。こんな辺鄙な田舎道の自販機を使う奴なんて、俺みたいなツーリングでの通りすがり、近所の住人、あとは徘徊老人ってわけか」
「カメラでも取り付けるかって話もあったんですけど、隠し撮りはダメだし、防犯カメラありの看板を付けると、警戒されるんじゃないかってね」
「んで、センサーだけにしたってのか。それはそれで大変だな」
どうやら、俺が先程自販機を使ったのが、施設内に分かったようだ。
そして、先程の老婆が見えなくなっていたから、こちらを確認しにきた、という事なのだろう。
それはそれで問題だなと、俺は思う。
アラームなりなんなりが鳴るまで、放置されていた事を意味するのだから。
ただ、人手は足りてないんだな、と言う事に思い至り、露骨に言うのは控えた。
「ま、ド田舎の介護施設だもんな。色々と大変なんですな」
「この業界、いつでも人手不足なんですよ。老人の数が増える一方なのに、働き手は減る一方で」
「仰る通り。おまけに特養ですからね。自分で動けない人も多いですけど、先程の婆さんみたく、徘徊する人もいて、気を配るにしても限度ってもんがありますわな」
「それでもここは、人生最期の寝床になる場所ですからね。先程の田中さんにしても、思い出せない事が、ある意味で幸せかもしれない」
介護士さんも意味ありげな事を述べつつ、視線を施設の方に向ける。
「田中さんはね、交通事故で息子夫婦にお孫さん、全員亡くなっているんですよ。田中さんだけ、運良く軽症で済んだんです」
「なるほど。
「他の親戚筋とは疎遠だったみたいで、そのまま施設に入所したという流れです」
「そして、事故による記憶の混濁。婆さんの中では、家で家族が待っている。まだ息子夫婦やお孫さんは、“記憶の中”では生きてる事になっている、というわけか」
「そう。だから、たまに思い出したかのように、家に戻ろうとするんですよ。もう誰も待っていないというのにね」
哀れと言うより他になし。
待てど暮らせどバスは来ない。
帰ったところで、誰もいない。
人生の最期を、家族に看取られることもなくあの世へ旅立つ。
あの老婆の人生とはなんであったのか、ただただ同情が湧いてくる。
「この場違いとしか言えない立派なバス停は、優しい嘘という名の牢屋の鉄格子というわけか」
「嘘を嘘と見抜けないからこそ、ですね。そんな方は、あの施設に何人もいますよ。どうせ待っていても、やって来るバスの運転手は死神だというのに。……おっと失言でしたね」
「いえ、死神がバスの運転手であるならば、それは幸せでしょう」
「それはなぜでしょうか?」
「死神はあの世への水先案内人。死者の魂をちゃんとあの世まで運んでくれる。婆さんが死後に幽霊にでもなって、幽体で家まで帰ってしまったら、そこに取り憑くかもしれない」
「家族が帰ってくるまで離れず、ひたすら居座り続ける。地縛霊付きの事故物件の出来上がりというわけですか」
「そうなる前に、死神がバスに乗って、死者の魂を回収してくれる事を願うよ。あの世とやらで家族に再会できるのなら、それが一番幸せだな」
死後の話なんぞ、あの世の事なんぞ、誰にも分からないのだから。
優しい嘘に包まれながらあの世に行き、そこで現実を知る事が幸せかどうかも、各々の人それぞれだ。
あの婆さんがどっちかなんて、直接本人に聞くしかないが、頭があの状態では聞くだけ無駄だ。
すぐに忘れてしまうのだから。
「そういえばさ、介護士さんよ、
「ここの施設長ですよ。なんでも、ドイツ語で“秘密”は“geheim”と言うんだそうです。ゲヘイム、それをもじって
「ああ、介護施設の側にバス停を作れってのは、ドイツの心理学者だったもんな。妙な名前だと思ったら、そういう意味だったのか」
待っていても、決してやって来ない幻想のバス停。
そこに存在していても、バス停の本来の意味や役目を成さない役立たず。
ただただ、死を待つ老人が、死神がやって来るのを待つだけの、優しい嘘を隠す場所。
もちろん、それはこのバス停で待つ人には“秘密”である。そういう事だ。
(バスはいつ来るのか? それは待っている人が死んだ時だ)
あの世からのお迎え、旅立ち、死神の送迎付きで。
その時だけ、バスは本当にやって来る。
それが幸せかどうかは、その人の歩んできた人生次第。
それ以上は考えちゃ駄目だ。
死について、明確な解答なんてないんだから。
それこそ、埒もない事だ。
「あとさ、介護士さん、もう一つだけ質問だ」
「なんでしょうか?」
「施設長ってさ、頭、寂しい?」
「くふふふふ! やはり、そう思いますか!? ずばり“その通り”ですよ!」
無駄な願望垂れ流しだな、施設長よ。
そんな願掛けしたところで、死神が先に連れて行ってしまったよ、頭の寿命をな。
命数と思って諦めるがよい。
そして、俺は介護士に別れを告げ、バイクに
もちろん、バスとすれ違うことは無い。
バスはいつ来るのか?
そのバスを見かける時があるとすれば、それは誰かが死んだ時だけ。
迷わず、真っ直ぐ、あの世とやらに連れて行ってやってくれ、死神よ。
それだけが、あの婆さんが家族と再会できる唯一の方法なのだから。
ああ、俺のところには来なくていいぞ。
こんな気持ちの良い秋風を切るツーリング、楽しんでいる最中だ。
老いてバイクに乗れなくなるまでは、死神のバスとやらに出会わない事を祈っておこうか。
〜 終 〜
バスはいつ来るのか? 夢神 蒼茫 @neginegigunsou
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