さいごのばんさん

シュリ

さいごのばんさん

   さいごのばんさん


 一日のなかで一番たのしみな時間は食事のとき。

 このときだけは、お父さまがお部屋へきてくれるから。


 お父さまがいないときのこの部屋は、なんだか空気まで暗くて重たくかんじてしまう。前にわたしがそう言うと、お父さまは「おかしいね。このお部屋は高い塔のてっぺんなのに」と言った。


 ――高いってどのくらい?


「うんと高い……そうだな、カミラがなん十人と肩車をし合ったら届くかな、というくらいだ」


 わたしはまぶたを閉じて想像する。わたしは目が見えないから、まぶたのうらに想像の景色を描くことしかできない。


 わたしはお父さまのお顔も知らない。でも、声を聞いていたらおのずと想像してしまう……優しくて、とても甘い、テノールの声……


 お食事のとき、お父さまは必ずわたしをお膝にのせてくれる。そして、わたしの両手にそっとグラスをにぎらせる。わたしがまちがえずにグラスを口へ運べるか、じっと見守っててくださっている。


 グラスの中にはとてもおいしい飲みものが入っていて、はしたないけど一気に飲み干してしまう。そのたびにお父さまはほがらかに笑って、「いい飲みっぷりだよ」と褒めてくださる。


 飲むとときどき歯がうずくのだけど、「お口がかゆいわ」と訴えると、お父さまは今度はわたしの手にフォークを握らせる。その先に、とても固くてぱさついたものが刺さっている。それ自体はそれほどおいしいものじゃないけど、噛んでいるとお口が落ち着いて、しかもあの飲みものと同じ味がじわじわとお口に広がるから、これも好き。


 何より、お父さまの腕に抱かれて食べるこの時間がとっても幸せ。


 お父さまに抱かれておいしいお食事がすんだら、すこしだけお話できる時間がある。そのときもわたしはお膝の上にのったまま。お父さまが「甘えん坊だな」と優しく苦笑する、その声が聞きたくて。


 耳が幸福に包まれるような声と、腕や胸からじんわり伝わる肌のあたたかさ。それがお父さまのすべて。


 お父さまにつつまれながらぼうっとしていると、視界にぼんやりと柔らかな光が見えることがある。


 なにも映さないこの目も、つよい光なら通すことがあるらしい。そしてその光を、お父さまは「月」と呼んだ。月……お空に浮かぶまるい光。このお部屋に唯一ある小さな窓を通してさしこんでくる。


 窓から外へは出られない。とても高い塔の上だから、というだけではなくて、窓ぜんたいに鉄の柵がはめられているから。


 ――月の光ってあったかいのね。


「そうだね。あったかいね」


 お父さまはあったかい声で笑った……




 お父さまは、わたしをカミラと呼ぶ。

 だけどお父さまは、お父さま。


 ――わたしと同じような名前はないの? 


「ある」と、お父さまが返す。


 教えて、とわたしは前のめりになってせがむ。だけどお父さまは小さく息をついて、


「いつか、ここからおまえを出せるときが来たらね……そのとき教えよう」


 と言った。


 わたしはおどろく。


 ――ここから出てもいいの?


「いつか、かならず」とお父さまは言った。「そうだな、カミラがもう少し大きくなったら出してあげよう」


 どうして今じゃだめなの?


「外はおそろしい。おまえのように美しくか弱いものが出歩いていたら危険だからね。だからもう少し……大きくなるまで待たなければ」


 わたしが、大きくなるまで。

 それはどのくらい先のことなんだろう。


「か弱い」……なら、強くなればいいのかしら。わたしは自分の手のひらを握り、ひらく。


「よしなさい」お父さまが苦笑ぎみにわたしの手をとった。


「カミラ、私はおまえをか弱いと言ったが、美しいとも言ったはずだ。余計なことは考えず、ただここにいてくれればそれでいい」


 美しい?

 美しいって……わたしが?


 わたしはきっとこの空っぽの瞳をらんらんと輝かせてしまったに違いない。

 お父さまがわたしを抱えなおし、そして、顔をそっと近づける気配がした。


「たとえばこの髪、この肌」


 お父さまの手がわたしの髪をすくう。腰までのびた、波打つような髪……あたたかな手のひらが今度は肩へ滑り落ちる。


「黒く、つややかな髪……白く透き通るような、やわらかな頬……まるで妖精のようだよ」


 妖精……


 わたしはまぶたを閉じて想像する。黒髪に白い肌……うすく透明なやわらかい翅……


「だがね、おまえは何よりそのたたずまいが美しい。わかるだろうか……そこに『居る』だけで私の心が洗われるということを」


 わたしはとても信じられなかった。

 でも、お父さまがわたしに嘘をついたことはない。だからきっと本当だ……と思う。


 わたしは嬉しくなって、ほんとう? とたずねる。「ああ本当だ」とお父さまはわたしの耳元でささやく。その響きがなんだかとても……いつもより甘くて、やさしくて。わたしの口元は自然とほどけていた。


 お父さまに、もっと美しいと言ってもらいたい。


 だけど同時に思う。お父さまが心配しなくなるくらい強くなって、一緒に外に出てみたいと。


 あのあたたかな月の光を、柵のむこうがわであびてみたいと。そう願わずにはいられなかった。




 ある日、わたしはお父さまの腕のなかで、飲み終わったグラスをにぎりつぶして見せた。ぶあつくて硬いグラスはにぶい音をたてて粉々に砕け散り、わたしの膝のうえにぱらぱらと落ちる。


 お父さまは何も言わなかった。あっけに取られているにちがいない。


 お父さま? どう? ちゃんと見てたかしら? わたし、つよいでしょう?


「ああ。……すごいな」


 お父さまの声はいつもの甘く優しい感じがうすれ、ひどく戸惑っているようだった。わたしはなんだか嬉しくなる。


 お父さまは、わたしが守るわ。


 ――これでもう、お外のこわい人にも負けないわよね?


「ああ。……そうだね」


 そのときはじめて、お父さまが力なく笑っているのに気づいた。


 ――お父さま? どうしたの?


「いや。……そうだ、さいきん歯がかゆいと言わなくなったね」


 そういえば、とわたしは気がつく。口元をさわると、右と左にほかのものより明らかにちがう、大きく尖った感触があった。


「見せてごらん」


 お父さまの手がわたしの頬をつつみ、上向かせる。親ゆびで上唇をめくりあげて……小さく息をついた。


「ああ……」


 お父さまが今どんな顔をしているのか、ちっとも想像ができなかった。

 嬉しい? 複雑? ……それとも、落胆……?


 ――お父さま……


 胸のなかがざわつく。こんな気持ちははじめてだった。お父さま、と呼びかけようとして、尖った歯のさきが何かをひっかく感触がした。


 お父さまの親ゆびだ! とすぐに気づいて、慌てて体をのけぞらせる。


「カミラ!」


 聞いたこともないほど焦ったようなお父さまの声。わたしは無意識のうちに舌さきで歯に触れていた。


 とたんに喉の奥につよいうずきを感じてくらりとめまいに襲われる。


 ……おいしい。いつも口にしている、おいしい飲みものの味がする。でも何かが違う……何か……からだの底……頭の奥……そこからせり上がってくる何か、大きな気持ち……


「カミラ!」


 お父さまにつよく揺さぶられて、わたしは意識をとりもどした。


「カミラ、大丈夫か? 平気か? カミ――」


 わたしは最後まできかないうちに、にっこりと笑ってみせた。


 大丈夫よ、お父さま。

 なんだかとっても、おいしかったから……




 わたしはお父さまのお顔を知らない。でも毎晩、お父さまの夢をみる。お顔はぼんやりとしているけれど、その体つき、仕草の柔らかさ……わたしをいたわる手のぬくもりと形……すべてがわたしの想像どおりだった。


 わたしが見たこともない色や景色を「想像」できるのは夢のおかげかもしれない。


 夢のなかで、わたしはたぶん、今よりすこし大人だった。テーブルをはさんでお父さまと食事をしている。抱かれずに食べるなんて信じられない。それとも大人になったらそうしなければならないの?


 夢をみるたび景色がかわる。お父さまと「外」を歩いている……肩を並べて……たくさんの人がベッドに横たわっている場所で祈りをささげていることもあった。


 祈り……何に祈るのだろう。お父さまがときどき言う「神さま」……?


 わたしも神さまに祈ったらきいてもらえるかしら。お父さまを守れる強い子になれますように。もちろん美しさも欠けることなく……


***


 お父さまが、お食事をもってきてくれた。

 わたしはいつもどおり手を伸ばす。でも「今日はちがうんだ」と言われた。


 ――ちがう?


「今日は特別なんだよ。特別な食事だ」


 なんだろう……


 お父さまがすぐ目の前にひざをつく気配がした。その改まったような空気も普段はないものだった。

 す、と衣擦れの音がひびく。


「おいで」


 それは、お父さまが両腕をひろげた合図。

 わたしは冷たい石床の上に膝立ちになって、両手をのばす。指先でお父さまの肩をさぐりあてる。


「そう。そのまま……私の胸においで」


 わたしはなぜかドキドキと自分の心臓の音を聞いていた。

 どうして……お父さまに抱かれるなんていつものことなのに……何も特別なことじゃないのに……


 おずおずと、遠慮がちに、腕をお父さまの背に回す。その胸にひたいを押し当てる。

 お父さまのにおい……かすかな鼓動……すぐそこに感じる吐息……


 お父さまの手がわたしの後頭部をつかみ、肩にぎゅっとおしつける。いや、肩じゃない……もっとやわらかで熱い……これは、首……?


「救世主は弟子たちに最後の晩餐をあたえたもうた」


 お父さまがかすれた声でつぶやく。


 さいごの、ばんさん?


「私も、おまえも、これが最後の晩餐だ」


 どういうこと? なんの最後なの?


 お父さまは答えず、わたしの唇をさらに強く、首におしつける。


「さあ、噛みなさい」


 わたしは何度も目をしばたたいた。


 何を……?


「教えてきたはずだ。肉の食べかたは」


 その瞬間、わたしの口いっぱいに唾液がひろがった。尖った歯がつよくうずく。すぐそこにある、熱をおびた皮膚に噛みつきたい気持ちになる。


 でも、できない。お父さまを……食べるなんて。


「できないはずはない」


 お父さまはごそごそと衣服のどこかをまさぐった。直後、カラン、と硬い何かが床に落ちる音。


 お父さまの大きな手がわたしの頭をつかみ、今度は反対側の首に押しつける。

 そのときわたしの唇に、歯の先に……あきらかにぬれた何かがべったりとつくのを感じた。


 首のひふからどくどくとおいしいものがあふれ出ている。ああ、この飲みものは……

 あのグラスに注がれていたものは、お父さまの体からうまれるものだった……?


 ああ、喉の奥がかわく。今まで感じたこともないくらいつよい衝動に、頭の中がくらくらと揺れる。


 気づけばわたしは、舌先でお父さまの首を、そこからあふれでるものを夢中でむさぼっていた。


 美しくなければいけないのに。「カミラは美しい」とお父さまはおっしゃったのに。舌で遠慮しているだけではものたりなくて、かわきがおさまらなくて。歯の先が首の皮にくいこみ、やがてつらぬいた瞬間、口の中にえも言われぬ味があふれ出てさらに止められなくなった。


 ごくりと喉をならすたび、お父さまの低い吐息がもれる。ときおり掠れたような声がして、わたしの背をつよくさすった。


 ああ、お父さま。もっとして。もっとわたしをつよく抱きしめて。


 でもお父さまの腕からだんだん力が抜けていく。そしてついに、ふたりとも床に倒れ込んでしまった。


 お父さま、お父さま……


 もっと抱きしめて。背中をさすって。頭を撫でて。

 この体も、この味も、漏れる声も、何もかもが愛おしい。お父さまの声が耳にとどくたび、お腹の奥が悩ましくうずく。

 その瞬間、扉が荒々しく開かれる音がした。


「神父様!」

「神父さ……」


 複数の足音がぴたりと止み、声が途切れる。わたしはゆっくりと顔を上げた。


 暗い部屋。鉄格子の窓の奥にゆらめく光。開いた扉のむこうに大きな人影が見えた。


 見えた……?


 わたしはまぶたを閉じ、また開く。夢じゃない。

 空っぽだった瞳ははっきりと部屋の景色をとらえている。


 そして、悟った。この人たちが、お父さまの言っていた悪いものたちだ。とうとうこんなところにまでのぼってきて、わたしをつかまえにきたのだ。


 わたしはお父さまをゆっくりと床に横たえ、立ち上がった。足の先から手の指先まで、すみずみにまで力が湧くようだった。


 今のわたしなら、お父さまを守ることができる。


 わたしは静かにまぶたを閉じた。





 次にひらいたとき、あたり一面が真っ赤な海になっていた。


 これが、赤……


 見たことのないはずの色を、わたしはそう認識した。


 そう、だって、夢で見たから。

 お父さまといっしょに、赤い花の咲く花壇を見ていたから……


 悪いものたちの砕け散ったあとを踏みしめ、わたしは振り返る。


 ――お父さま、終わったわ。


 しかしお父さまの姿はどこにもなかった。


 かわりに真っ赤な体がひとつだけ転がっている。その手元に刃物が転がっていた。にぶく光る刃……銀色……見ているだけでぞくりと肌があわ立つ。


 お父さまはどこへ行ってしまったの?


 もういちど周囲を見渡したとき、わたしは違和感を覚えた。


 この部屋に、窓はない。


 鉄格子の向こうは同じような石の壁が続き、火のついた棒きれが雑にとりつけられているだけだった。


 あの光……わたしの知る光は、あんなに頼りないものじゃない。もっとあったかくてきれいな、お父さまが「月」と呼んだもの……


 汚れた肉を裸足で踏みしめるたび、ぴちゃぴちゃと濡れた音がする。おそるおそる扉の向こうに出てみた。そこでわたしはまたもや息をのんだ。

 階段がある。上り階段が……。


 ここは塔の「てっぺん」じゃなかったの?

 さらに上があっても「てっぺん」と言うの?


 ――お父さま。


 もういちど呼びかけてみたけれど、お父さまの返事はなかった。


 もしかしたら、さっきの騒ぎのあいだに逃げられたのかもしれない。そうだとしたら、それが一番いい。

 お父さまをさがさないと。


 わたしは階段に足をかけた。ひやりと冷たい石の感触。それがぐるぐるといつまでも終わりのない螺旋をえがいている。


 お父さまはいつもこの階段をくだっていらしたのね。わたしに逢いに……わたしとお食事をするために……


 やがて階段のおわりが見えてくる。四角い出口に人影がひしめいているのが見えた。


 たくさんの人たちが、こわごわとこちらを覗き込んでいる。「神父さま」「神父さま?」「ちがう、あれは……」と口々に何かを言っているのが聞こえる。


 彼らはわたしの姿をはっきりと目で捉えた瞬間、ヒッと声をあげて一斉に逃げ出した。腰を抜かしてしりもちをついている人もいる。


 みんな同じような恰好をしていた。女のひとは長くたっぷりとした布をかぶり、男のひとは帽子か、髪をそり上げている。


 入り口で腰をぬかしている女のひとの一人が、わたしの顔をまじまじと見つめて小さく口をひらいた。


「カミラ……?」


 わたしも思わず立ち止まる。でもそのひとは、はっとしたように首を振った。


「ちがう……カミラは、死んだはず……遺体は神父さまが引き取って……」


 ――しんぷさまって、だれ?


 だけど彼女は、わたしが近づいた途端にするどい悲鳴をあげ、くたりと地面にのびてしまった。


 いったいわたしの何がこわいというのだろう。

 わたしはお父さまに「美しい」と言ってもらえたし、少なくともだれかをおびえさせるような顔はしていないはずなのに。


 歩くたび、全身から赤いものがしたたり落ちる。悪いものたちの相手をするだけでこんな目にあうなんて。


 はやくお父さまに会いたい。お父さまは定期的にわたしの体を拭いてくれた。あったかいお湯をしぼったタオルで、やさしく撫でるように……


 ――お父さま、どこ? どこへ行ったの?


 ここは広い建物の中だった。長い廊下とたくさんの扉がある。そのひとつひとつを開けてなかをのぞきこんでいった。


 お父さま、お父さま……


 そう呼びかけながらドアをひとつひとつ、取り外してはのぞきこむ。だれもいないか、いてもおびえて窓から逃げだしたり、あるいは銀色の十字架をかかげてわめくだけだった。


 わたしに殴りかかってくるひともいた……悪いものだ。悪いものがお父さまを見つけて襲いかかるといけないから、ちゃんと戦う。


 どのくらいさまよったかしら。どこかの階段を上がったり、下ったり……。ここは塔なんかじゃない。広い石づくりの建物……どこかで見たことがある気がする。そう、夢だ。夢のなかで、わたしは同じような景色を歩いていたことがある。目の前にお父さまの背中が見えて……お父さまを追いかけて……


 ふいに、かすかだった夢の光景がはっきりと目の前にあらわれた。青いじゅうたん、石の手すり、下の中庭を見下ろせる回廊……


 わたしは導かれるように、近くの扉に手をかけた。力をいれすぎたら壊れるから、ゆっくりと慎重にひらく。


 うすぐらい、四角い部屋。一歩踏みだし、ぐるりと見回してみる。


 白いベッドがある。青いじゅうたん、いろんなものが詰まれた机、ぶあつい本……


 机の上はいろんな色で汚れていた。同じように色づいた木の板と筆が無造作に転がっている。


 ベッドのそばの壁に、小さな額縁がいくつも飾られているのに気づいた。近づいて目をこらしてみると、それはどれも同じ女のひとが描かれた絵だった。


 女のひとは、ここに住む女性たちと同じ服装をしている。あたまのかぶりものから黒い前髪だけが見えていた。

 黒い髪、白い肌……お父さまの言葉がよみがえる。わたしと似ているのかもしれない。だけど……この絵を見ているだけでなんだか胸がざわざわとする。


 いやだ。わたし以外のだれかの姿を部屋に飾っているなんて。いっしょに眠っているなんて……!


 わたしは気づけば手を振り上げ、すべての絵を真っぷたつに切り裂いていた。


 お父さまは、わたしのお父さまなのに。ほかのだれのものでもないのに……


 絵の顔がこなごなになるまで何度も何度も手を叩きつける。ゆるせない。こんなにたくさん……ななめから見た顔、ふせた顔、憂鬱げな顔、後ろ姿……どうして……お父さまはわたしを見ながら絵を描いたことなんて、一度もなかったのに……!


 ズドン、と空気の震える音がして、次の瞬間、わたしの胸にするどい痛みがほとばしった。


 衝撃で床にたおれ伏す。すぐに起き上がろうとしたけど、体に力がはいらない。胸の内側が火のついたように熱くて、わたしは金切り声をあげた。


 痛い。痛い。たすけて、お父さま……!


 もだえ苦しむわたしの視界に、部屋の入り口が見える。たくさんの人間があつまっている。その中のひとりが銀色の光る何かを手ににぎりしめ、わたしに向けていた。


「信じられん。本当にカミラだ」

「カミラは吸血鬼に殺されたはずではなかったか」

「吸血鬼に襲われた者は、たとえ屍でも血を求めるのか」

「なんとおそろしい……」


 ねえ、聞こえない。なんて言っているの?

 お父さまはどこにいるの?

 わたしはただ、お父さまといっしょにいたいだけなの。いっしょに外へ出て、歩きたかっただけなの。夢の中のわたしのように……


 視界がゆがむ。目がかすむ。瞳がからっぽだったときのように、もう何もみえない。


 塔のてっぺん。わたしのお部屋。鉄格子の窓。あったかい月……お父さまの、おいしい食事。

 お父さまの声。優しくて、甘い、テノールの……

 ぜんぶが消えて、わたしも……消えてゆく。


***


「カミラ」


 うららかな昼下がり。修道院の中庭、ぐるりと花に囲まれた場所でわたしは振り返る。

 本当は振り返らなくてもわかっていた。そこに神父さまがいらっしゃるって。


 でも、そんなことが知られるのははずかしいから、「神父さま」とわたしは驚いたふりをする。


「また土いじりかい?」

「は……あの、どうして……」

「袖に土がついているから」


 え、え、と戸惑うわたしに苦笑して、神父さまが歩み寄る。「ほら、ここに」とわたしの修道服の袖を指ししめす。


「おや、ここにも……」


 その指先が、わたしの胸元へむけられる。白い襟のはしに土くずがついていた。



「飛んだのかもしれないな」


 わたしは思わず後ろへ飛びすさってしまった。胸がどきどきと高鳴って、息もできなくなりそうだった。


「あ……あの」わたしは無意識に胸をおさえながら必死に話題をそらそうとした。


「あの、その手に持ってらっしゃるものは……」


「ああ、これか」神父さまは片手に提げていた四角い箱を持ち上げた。少し厚みのある長方形の木箱……鞄のように取っ手がついている。


「これは画材だよ。絵筆と絵の具が入っている」


「え?」思わず目を見張ってしまう。「神父さま、絵をお描きになるのですね」


「少しかじった程度だけどね」神父さまが目を細めて笑う。


「神職者になる前は、画家を目指していた……だが貧しくて、学ぶ金もないから働きに出て……それきりだったんだ」


 神父さまの青い瞳が、どこか遠くを見つめている。わたしの知らない、遠い過去を……。


「では、今日は絵をお描きに……?」


「ああ、まあ」神父さまはさりげなく箱を後ろ手に回した。だけどわたしは、そこに入っているであろう彼の絵が気になってしょうがなかった。


「神父さま、あの……」

「だめだ、見せるわけにはいかない」

「どうしてですか」

「まだ拙いからね。とても人目にさらせるようなものじゃない」


「ご謙遜を。神父さま、わたしは存じているのですよ。このあいだ町に出て『おつとめ』をなさっているとき、壁の補修の仕上げをなさっておられましたよね。とても美しくて丁寧で……元の壁よりも綺麗でした」


「ああ」神父さまは戸惑うように足下の花へ目を落とす。「そんなこともあったかな……」


「はい。ですから神父さまのお描きになる絵はきっと素晴らしいものに違いありません」


 しばらく、奇妙な沈黙が流れた。わたしははっと両手で口をおさえた。


「申し訳ありません……わたしったら何を」

「カミラ」


 神父さまがゆっくりと一歩、歩みよる。わたしはまた無意識に胸をおさえた。


「ありがとう」


 青い瞳が、まっすぐにわたしを射貫く。ただそれだけでわたしの心は天まで舞い上がりそうになった。


 胸が、くるしい。

 このひとを見ているだけで、息のしかたを忘れそうになる。


 そよと風が吹き、神父さまは揺れる金の髪をおさえ、空を見上げた。


「いつかあなたを、真正面から描いてみたいものだ……」


 え、とわたしが言葉を続けかけたとき、上の回廊から「神父さま!」と修道士の呼び声がした。


「ああ、今いこう」


 神父さまが朗々と返す。そのやりとりさえ、わたしはなぜか直視することができなかった。


「カミラ」


 神父さまが、今度は少し声を落としてわたしに向き直る。


「明日のつとめが終わったら、そのまま付き合ってもらいところがあるんだが……」

「えっ」

「町の中にベゴニアの咲く花壇を見つけてね。目を奪われるような綺麗な赤の……。植え換えを手伝うと申し出たら、一株わけてくださることになった。あなたさえよければ」


 神父さまは途中で気まずそうに咳払いをした。


「いや、申し訳ない。急な誘いだ、何か用事があるなら断ってくれてかまわないが……」

「あ、あの、ご一緒します、させてください」


 わたしは急くように続けた。


「町の病院のお手伝いがおわったら、必ず」


「ありがとう」神父さまは慈しむように微笑んだ。その笑顔を見るだけでわたしは神様への感謝の言葉を五百は言える気がする。


 わたしは神父さまの背中を見送り、再び中庭の花たちに向き直る。


 赤い花。ベゴニアの一株……きっとこの中庭に植えられるのだろう。神父さまがお褒めになった綺麗な赤は、この一面の花壇に映えるはず。


 たくさんお世話をして、できれば増やして……そうしたら、わたしのお部屋にも飾れるかしら。


 わたしはまだ見ぬ赤い花を「想像」した。そして、その花弁を愛でる神父さまのお姿までもを思い浮かべ、わたしの胸はまた高鳴り……どこまでも飛んでいきそうになった。

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さいごのばんさん シュリ @12sumire35

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