リスクアセスメント

神矢伝家

リスクアセスメント

 室内に薄っすらと漂うコーヒーの香り。あちらこちらから聞こえてくる、タイピングの音。窓に吊るされたブラインドの隙間から差し込むボーダーの西日。私はこの昼下がりのオフィスの雰囲気が好きだ。

 しかし今日のオフィスは違う。紙を飲み込むシュレッダーのうなりも幾分苦しそうだ。

 半分まで飲み込んだところで細断を一時停止し、主電源を切る。念のためにコンセントも引き抜いてから、ダストボックスの扉を開く。

 紙が詰まっている訳では無さそうだ。扉を閉め、シュレッダー本体の横に備え付けられたメンテナンスオイルを、投入口へ数滴垂らす。

 再びコンセントを差し込み、主電源を入れ、スタートボタンを押す。

 残り半分を細断しきった。さっきよりは静かになっただろうか。あるいはそう感じるのはプラシーボ効果によるものか。

 いづれにしても、シュレッダーとしての役割をしっかりと全うしてくれていれば問題はないのだが。

 この機体は私が課長になって直ぐに導入したから、もうじき六年目になる。一般的に家電の寿命は十年などと言われているが、それに対しシュレッダーの寿命は平均五年と短い。刃物を使用する機械だから当然切れ味は劣化するし、モーターも弱ってくる。そのうえ、うちの課はシュレッダーにとって相当なブラック職場だ。

 秘匿性の高い資料を取り扱うことが日常茶飯事であり、その廃棄は漏れなくシュレッダーを使う。一度に細断できる枚数制限ギリギリを、ほぼ休みなく誰かしらが突っ込んでくるのだ。

 もちろんオフィスに一台だけではない。他に三台転々と配置されている。しかし、私の席の横にあるこの機体は特別だ。シュレッダーはその細断方法やカットサイズによって、セキュリティレベルが分類されるが、この機体はその最高レベルである五。一度細断したが最後、二度と復元はできないと言っていいだろう。まさに木端微塵。資料には秘匿ランクがあり、その中で特にランクの高い資料はこの機体で処理することになっている。

 シュレッダーにここまで詳しいのは、この機体の導入時に上や経理を納得させるために色々と調べたからだ。その当時最高のセキュリティレベルを誇っていたこの機体は、当然その能力と比例して値も張った。予算を貰うにはそれだけの材料が必要だったのだ。

 だが苦労して導入したこれも、そろそろガタがきそうだ。お役御免の時が来た。


 くたびれたシュレッダーを見つめていると、まるで自分を見ているようだ。「リスクアセスメントの鬼」と呼ばれた私もそろそろ潮時か。

 私がこの藁科自動車に入社したのは、地元の工業高校を卒業して一年が経った時だった。学校の紹介で就職した町工場で、先輩から酷いいじめを受け退職。精神を病んでしばらくブラブラとしていた時、立ち読みした本に書かれていたという文言に妙に惹かれた。学も無く仕事も無い自分を日々責め続けていた私にとって、あの時代は人生のどん底。だからこそ、逆転させるしか立ち直る方法は無かったのかもしれない。

その日から私は、「今がこんなに酷いんだから、これ以上酷くなりようが無い」と自分に言い聞かせ、前向きに生きてきた。

派遣社員の、いわゆる期間工として藁科わらしな自動車に入社した私は、その過酷な労働や社員からの理不尽な罵詈雑言に対峙する度、心の中で「逆転の発想。逆に。逆に考えよう」と唱えて耐え続けた。そんな姿を見てか、私は上司に気に入られ、社員登用された。そこからも着実に、ステップアップを続けた。

元が派遣社員ということもあり、所謂出世コースには乗れなかった。藁科自動車は、多くのグループ会社を抱える国内有数の大企業だ。途方もない倍率の就職試験を通過してきた、難関大卒のエリートたちがゴロゴロいる。刑事ドラマで言うところのキャリア組の連中だ。

現場からの叩き上げでは、いくら優秀でも出世には限度がある。別に、明確に就業規則に定められているわけではないが、長年会社に勤めていればその境界線はよくわかる。

私のいる、この席がその境界線だ。ここから先には、見えない壁がある。現場時代を共にした優秀な先輩達も皆等しく、これよりも手前で会社員人生を終えた。

現在のポストに打診された時、なんとも言えない寂しさを感じたのを覚えている。長かった会社員人生、ひたすら前だけを見て突き進んできた約40年間。そのモチベーションになっていたのは出世だった。それも、とうとうこれで最後だと……。

同時に、誇らしくもあった。自分の経歴で目指せる、最高位の職に辿り着いた。年を取れば自動的に与えられるものではない。辿り着けなかった先輩達も大勢見てきた。

出世というモチベーションを失っても6年間精力的に働けたのは、自分の実力を評価し認めてくれた会社に対する、感謝の気持ちが強かったからなのかもしれない。

会社の役職定年は55才。私が課長を務められるのは、あと半年も無い。一般社員の定年は60才だから、役職を降りた後は教育部門で若手の育成に回るのが一般的だ。

しかし、独身で趣味もろくに無い私には充分な貯金がある。5年早く退職しても問題は無い。貯金のほとんどを投資信託に入れていたから、切り崩さずとも投資の利回り分だけで生活できる。その点は流石大企業。給料に不満を覚えたことは無かった。

つまり私の会社員人生はあと数ヶ月で終わる。そんな矢先、事件は起こった。

「課長、警察のかたがいらっしゃいました」

 オフィスの入口付近にいた社員が私を呼ぶ。

 その社員の隣を見ると、黒のステンカラーコートを羽織った男が立っていた。短髪で色黒。如何にも体育会系な出で立ちだ。

 部下から、警察が話を聞きたがっていると連絡を受けてから、まだ30分も経っていない。

 席を立ち、男のもとへ向かう。

「私が課長の広田ひろたです。会議室にご案内します」

「静岡県警捜査一課機動捜査係の二本木にほんぎです」

 軽く会釈を交わし、会議室に向かう。会議室はいくつもあるが、利用率が高いため、予約制になっている。勿論連絡を受けてすぐ予約済みだ。

 部屋に入ると、二本木はコートを脱ぎ、私の向かいの椅子に腰かけた。

「早速で申し訳ないんですが、今回発生した一件についてお話を伺えますか」

 二本木は手帳を取り出し、そこに書いてあるだろう内容を読み始めた。

「亡くなられたのは沖浪修平おきなみしゅうへいさん。55才。今朝10時頃、頭部をプレス機に挟まれて亡くなっているのを発見されました」

「ええ。ここは安全管理課ですから、情報はどこの部署よりも入って来ています」

「他の社員の方に聞いたところによると、広田さんは沖浪さんと親交があったとか」

「同期なんです。昔は同じ課で働いていました」

 私と沖浪は、同時期に期間工として第2プレス課に配属された。同い年ということもあり、すぐに仲良くなった。彼は要領が悪く、器用なタイプでは無かったが、堅実な働きぶりが評価され、私から1年ほど遅れて社員に登用された。

 その不器用さゆえ、その後出世とは縁が無いままいくつかの部署を移動して、数年前から設備保全課で働いていた。

「最近もお話されましたか?」

「はい。今朝」

「今朝ですか」

 二本木は少し驚いた様子でメモ帳から顔を上げた。

「うちの課と、彼のいた保全課は関わることが多いんです。保全課は工場内の機械のメンテナンスや修理を行う課です。我々安全管理課は、そういった作業のやり方を記した手順書というものを作成、管理しているので」

「それは作業の度に作るんですか?」

「いえ。機械と作業ごとに一度作ったら、あとは定期的に見直しをする程度です。うちの会社にある機械、ほとんどに手順書があると言っていいでしょう。シュレッダーのダスト掃除にも手順書があるくらいですから」

「そんなものにまで……。説明書とは違うわけですか?」

「説明書は機械の製造メーカーが作成したものですよね。手順書は、それらを基に我々が独自に作成したものです。会社内で事故が起きたとき、まず責任を問われるのはその機械の製造メーカーではなく、それを使用した会社です。ですから、手順書の内容は説明書より厳しくなっています」

「なるほど。では今回沖浪さんがされていた作業にも手順書があったわけですか」

「ええ。沖浪がやっていた作業は、プレス機内の清掃です。定期的に行う作業ですから、当然手順書が用意されています。今朝印刷して、直接沖浪に渡しました」

「今朝話されたというのはそういう事ですか。手順書は安全管理課が印刷するきまりなんですか?」

「いや、そういったケースは稀です。手順書は、作業する者がいつでも確認できるように、社員のパソコンから自由にアクセス、印刷できるようになっていますから。沖浪はパソコンに疎かったですし、同期の私には頼みやすかったんでしょう。過去にも何度か渡したことがあります」

「その手順書を、沖浪さんは携帯されていたんでしょうか?」

「いつもバインダーに挟んで持っていたと思います。ですが、作業中は油にまみれることも多いので、予め内容を確認したら、その後は見ないことがほとんどだと言っていました」

「では今朝も作業内容をこちらで確認したのでしょうか?」

「はい。初めて担当する作業らしく、私が渡した手順書を熟読していました。それほど難しい手順ではないので、すぐに覚えた様子でした。持っていかなくてもいいんじゃないか、と冗談混じりに言ったら、万一の為お守り代わりに欲しいと」

「その手順書の内容、今見せて頂くことはできますか」


「ああ。別に構いませんが……。何か気になることでも?」


「実は、工場内のカメラに現場の一部始終が映っていたんです。沖浪さん以外に誰も映っていませんでしたし、作業ミスによる事故、というのが現時点での見解です。ですが、念のため、沖浪さんの行動に不審な点が無いか確認したくて。ただ何分、機械に関しては素人なものですから」

「そうでしたか……。では今印刷して持ってきますから、お掛けになってお待ちください」

 私は会議室を出て自分のデスクに戻る。数多の業務ファイルの中から該当の手順書ファイルを見つけた。今朝開いたばかりだからすぐに見つかった。

 プリンターで出力したそれに、1枚ずつハンコを押して纏める。

 会議室に入ると、二本木は電話をしていた。

「……うん。そう。挟んであるそうだ。よろしく」

 おそらく、さっき話したバインダーの件だろう。私が戻ったことに気づき、手短に電話を切った。

「お待たせしました。見つかりそうですか、バインダー」

「ええ。今部下に、押収品を確認してもらっています。すぐ見つかるでしょう」

「それは良かった。こちらが今朝沖浪に渡した手順書です」

 受け取った二本木は一通り目を通した後、私が押したハンコを指差して言った。

「このハンコにはどういった意味が?」

「手順書は、会社が従業員に正当な指示を出していることを証明する、重要な書類です。今回のように災害が発生した時には、会社を守る材料になるわけです。ですから、誰でも閲覧、印刷はできますが、印刷した後は必ず所属の課長に確認をもらい、ハンコを押してもらうきまりなんです」

「日付の上のS2とは何ですか?」

「総務部安全管理課。うちの課の部署コードです。うちの会社は各課にコードが割り当てられているんですよ」

「では沖浪さんに渡した手順書にもこのハンコが押されていると」

「はい。うっかり押し忘れたことに気づいて一度返して貰ったので、確実に」

 ノックの音がした。扉のガラスごしに外を見ると、先ほど仕事を頼んだ部下がいた。目で入るように促す。

「失礼します。課長、プレス機の操作ログ、取り出せました」

「ありがとう。助かるよ」

 十数枚の紙が時系列に纏められたそれを私に渡すと、すぐに会議室を出て行った。事がことだ。社員皆の顔が強張っている。

 二本木が、私の受け取った資料に興味深そうに視線を送る。

「これを見れば、プレス機がどのように操作されたか全てわかります」


 二本木は鞄からノートパソコンを取り出した。

「かなり痛ましい映像になります。協力していただけると大変助かりますが、視聴は強制しません。どうしますか?」

「再発を防止するためにも、私が目を背けることはできません。見せてください」


 映像は約十分間。災害発生の瞬間まで、詳細に記録されていた。

「……広田さん、どう思われますか?」

 静まり返った部屋に、二本木の声が響く。

「おかしいです。手順書をご覧になったでしょう?」

 私と二本木は、操作ログと手順書を映像に照らし合わせて確認した。操作ログは当然映像とリンクしていたが、問題は手順だ。

「ええ。沖浪さんの行動は手順書の内容とはかけ離れていました。これは単なる操作ミスで片付けられるレベルではありません」

「同感です。熟練の作業員は、慣れから自己流で作業するケースが散見されますが、沖浪は初めて担当する作業でした。それに、どう考えても合理的な操作手順だとは思えません」

「沖浪さんは、以前から会社の指示を無視するようなことがありましたか?」

「いえ。寧ろ逆です。真面目一辺倒で、マニュアル命な男でした」

 想像に過ぎないが、料理をする時もしっかり軽量するタイプだったに違いない。しかし、一つ一つの手順の意味までは考えず、言われたことをただこなす性格のため、少々融通が利かなく、周囲と揉めることもあったようだが。

「そうなると尚更おかしいですね」

「ええ。はっきり言って、自殺行為です」

 私の言葉を聞いて、資料をめくる二本木の手が止まった。

「……沖浪さんの手帳に、日記のようなものが残されていました。どれも短文で、継続的に書いていたわけでもなさそうでしたが。その中には、自身の未来を悲観するような内容も含まれていました」

「まさか、沖浪が自殺したと?」

「あくまで可能性、ですが。今朝お話された時、沖浪さんの様子に何かおかしな点はありませんでしたか?」

「……おかしな点」

 記憶を思い返す。いつも通りの沖浪だったはずだ。特段落ち込んだ様子でもなかった。「いや、特には……」

 そう言ったとき脳内で、昔に沖浪が言った言葉が蘇ってきた。あれは、有名人自殺のニュースで世間が持ち切りになった時だったと思う。

 沖浪は、自殺をしてしまう心情に理解を示した後にこう言ったのだ。


「俺が死ぬなら、事故だと思われたいな。自殺なんて惨めで情けないだろ?」


 死んだら惨めも何も関係ないじゃないか、とは言えずに言葉を呑み込んだ記憶が確かにある。

 なぜ今まで思い出さなかったのだろう。

 突如、無機質なベルの音が空気を裂く。二本木の携帯だ。

「……はい。……おう。……そうか。ハンコは……。了解。ありがとう」

 バインダーの件だろうか。二本木は携帯を胸ポケットに突っ込んだ。

「手順書、確認とれました。今朝広田さんが渡したものに間違いありません」

「見つかって良かったです」

「現場の映像や操作ログ、それに手順書。捜査に必要な情報は充分にあります。不慮の事故か、あるいは自殺か。現時点では何とも言えませんが、少なくとも今のところ、事件性は見受けられませんね」

 もし仮に、今後の捜査で自殺となった場合、災害報告書はいったいどうやって書けばいいものか。

 災害報告書とは、災害発生後に社内に発布する書類である。二度と同じ過ちを繰り返さぬよう、原因と対策を記して全社員に共有するのだ。

 その原因が被災者の故意だなんて。対策はカウンセリング、とでも書けというのか。

「広田さん、ご協力ありがとうございました。この手順書、署に持ち帰ってもいいでしょうか。念のため沖浪さんの持っていたものと照合させたいので」

「ええ。構いません」

 私の返答を聞くと、二本木は会釈をして会議室を出て行った。

 好きなだけ照らし合わせるといい。今朝ハンコを押して渡したものと全く同じだ。それに、沖浪が熟読して覚えたものは既に木端微塵なのだから。


 リスクアセスメントとは、職場に潜むリスクを洗い出し、対策を検討することだ。その過程では見つけたリスクたちに対して、災害に繋がった場合の重篤度や、発生する可能性を点数化しランク付けを行う。

 点数が高いほど危険であり、早急な対処が望まれる。当然対策には人や金といったコストがかかるから、優先順位を付けて効率的な改善をするわけだ。

 自動車製造工場では、プレス機を初め一歩間違えれば重大災害になる危険な機械がそこら中にある。そのため、入社当初から安全に対しては特に厳しく教育される。

 そういった職場風土だから、自ら危険を見つけて上司に改善提案できる人間が好まれ、評価される。言われたことをただ守っているだけでは駄目だ。自分の頭で考えなくては。

 そのことにいち早く気づいた私は、契約社員時代から職場の危険を探した。定期的に職場で実施されるリスクアセスメントでは積極的に改善提案もした。

 続けていると、私は職場で「リスクアセスメントの鬼」と呼ばれるようにまでなった。

 そして最後には安全管理課の課長に。就任後に私が実行した数々の改善は的を射ていたようで、会社全体での連続無災害日数の記録を塗り替えることができた。その記録は昨日まで続いていたのだが……。

 

 自殺と思われるのは想定外だった。興奮のあまり死に貪欲過ぎるシナリオを書いてしまった。そこは唯一反省すべき点だ。

 リスクを排除できるならその逆もまた然り。が私の性分なのでね。

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