遺されたもの - 4

 閉館時間の後にアンドレイが実家へ戻ると、門の前でグレゴリーが立っていた。恐らく閉館してからずっと待っていたのだろう。


「こんばんは。わざわざ来ていただきありがとうございます」


「部下に連絡をしていてな。遅れてしまって申し訳ない」


アンドレイが謝罪の言葉を述べると、グレゴリーは気にしないでくださいと返し、門を開けた。それからアンドレイが通されたのはかつて使用人が暮らしていたと言われているエリアのダイニングだった。


華美ではないが、綺麗に掃除され、一般家庭のダイニングキッチンといった風に改装されていた。


「お待たせ、連れてきたよ」


 親しげにグレゴリーはダイニングキッチンで料理を囲む、彼の家族と思われる人々に声をかける。アンドレイが部屋に立ち入ると、中にはグレゴリーと同じ歳くらいの女性と、彼女より少し若く見える、まだ少女と言っても良さそうな女性、そして彼の父だろうか、半世紀は生きていそうな男性がそれぞれ席に座っていた。


彼の家族はアンドレイを見ると、顔に出さないようにしているようだったが、その実在に事実を飲み込めていないようだった。そんな中でグレゴリーと同年代の女性が声をあげる。


「凄いね、ただの伝説じゃなかったんだ。ええっと、私はイリーナ。グレゴリーの姉です。それでこっちがマリア、私とグレゴリーの妹。それでこちらが私たちの父であるセルゲイです」


セルゲイと呼ばれた男性は立ち上がると、アンドレイの前へと立ち、彼へと手を差し伸べる。


「初めまして。長命人キリル。私が現在この家を管理しています、セルゲイ・フョードロヴィッチ・ゼフィンです。あなたがこの家に戻ってくることを先祖代々心の底からお待ちしておりました。どうぞごゆっくりお過ごしください」


 アンドレイは差し出された手を握り返すが、すぐに言葉は出てこなかった。そもそも半ば英雄のように祀り上げられているのが何故なのかも理解していない。ナーヴィは若き日から死までの五十年間で一体何をしたのだろうか。


「そうですね……ありがとうございます。私もナーヴィの子孫が続く間は、そうしたいと考えています」


三百年で少しは自然になったとアンドレイが考えている笑みを浮かべる。セルゲイも安心したかのように微笑み、アンドレイにテーブルの上座にあたる、それこそ当主が座るような席へと彼を案内した。


「私がここで良いのか? 私はこの家にとって死人だ。本来この席はセルゲイさん、あなたのものだろう」


アンドレイは右斜め前に座るセルゲイの方を見てそう尋ねる。しかしセルゲイも、その奥に座るグレゴリーも首を横に振るばかりだ。


「キリルさん。本日の主役はあなたであり、我々はあなたを守護聖人と同等に信仰しています。どうか、その立場を受け入れてはくれませんか?」


仮にアンドレイが熱心な正教徒だったのなら、セルゲイの言葉に不敬だと反論していただろう。しかしアンドレイは信仰心の強い方ではなく、むしろ信仰へ重きを置かないタイプだったのですんなりと頷き


「分かった。そろそろ料理が冷めてしまうな。いただこう」


テーブルには特別な日に食べるビートの色が出ているサラダに、母が作った物とは少し異なっているが紅蓮色の綺麗なボルシチが置かれている。赤は好きだ。アンドレイにとって祖国を思い出させてくれる。


ボルシチはビーツの甘みが強く出た味になっており、味付けもフルーツが入っているのか、酸味が抑えられている。牛肉も同じような香りづけがされているようで、食べやすい味ではあるが、知っているものと差が大きすぎて、すぐには馴染めそうになかった。


「キリルさん美味しいですか? 一応先祖代々この味を引き継いでいるのですが」


イリーナが顔をしかめないよう振舞うアンドレイから何かを感じ取ったのか、味の確認をする。アンドレイは頷き


「私の頃とは味が変わっているが、食べやすい味とは思う。そうだな、酸味が苦手だった兄がドミニカさんに頼んでこの味にしてもらったのかもしれない」


ええっと、と三百年前の家系図でも思いだそうとしているかのようなイリーナの代わりに、彼女の隣に座ってサラダを食べるマリアが頷く。


「その通り。ナーヴィ・ゼフィンの父親であるアンドレイ・ゼフィンの時代からこのレシピが採用されている。大体二〇世紀後半の話だよ。分家の方は多分まだ昔のレシピのままだよ」


と、アンドレイの方を一切振り向くことなく語った。恐らく分家というのは末弟のイヴァンの子孫の話だろう。


「ありがとう。詳しいのだな」


 甘みの中に最後の栄光とでもいうかのように酸味が駆け抜けていく味を楽しみながらアンドレイがマリアにそう話す。しかし彼女は喜ぶ様子もなく、ゼフィン家の人間なら知っていて当然だと答えた。


「ごめんなさい、マリアはうちの伝承を信じていないんです。実はキリルさんのことも本当に長命人キリルなのかって疑っていたくらいで」


そう謝罪するイリーナの言葉を聞きながら、アンドレイはマリアの方へ視線を向ける。髪を短く切りそろえているが、電灯の光を受けたまつ毛が長く伸び、どこか女性的なところを感じさせる。


その姿は、男か女か分からないと言われ続けてきた若き日のアンドレイに少し似ている気がした。


「マリア・ゼフィンさん」


アンドレイがそう声をかけると、マリアは目だけでアンドレイの方を向く。


「何でございましょう。伝承を信じなかった件でしたら、謝罪するつもりはございません」


一瞬にして空気が凍り付く。マリアに今すぐにでも注意したいという彼女の身内らも、一応アンドレイが何と言うのかを待っているようだった。


「別に謝罪は求めない、また伝承を信じなければならないわけでもない。だた、若いころの私によく似ていると思ったんだ。興味のないことでもしっかりと知識を身に着け、何にだって物怖じしない。私の、ではないが一族の子孫がそうであってくれるだけで、私は嬉しく思うよ」


セルゲイがマリアに感謝の言葉を述べるように言うが、彼女は動じることなくボルシチのスープを飲み


「そうですか。そう言っていただき光栄です……と、いうよりあなたが本物のキリル・ゼフィンであることを確信出来て良かったです。長命人になるつもりはありませんが、あなたのように高い忠誠心を維持し続けられる人間でありたいとは思っています」


 マリアは顔をあげると、アンドレイを一直線に見つめた。ヘーゼル色の瞳の中には強い意志が宿り続けているように見えた。そしてアンドレイが話そうとしたことを、マリアは語りだす。


「一九世紀、ゼフィン家最後の貴族であったウラディミルはこう述べました。心は人の眼に宿り、眼を見ればその人物の心が分かると言いました。あなたは本当に三百年以上生きているのですね。何でしょう……この世の誰よりも冷め切っていて、それでも希望を信じているかのような、そんな気がします」


アンドレイには一瞬だけマリアが微笑んだように見えたが、すぐに元の無表情に戻り、ビートのサラダを食べ始めた。


アンドレイも彼女に続いてサラダを食べてみる。甘みを引き出していたボルシチとは対照的に、サラダは酸味が強く、ボルシチの甘みをかき消してくれるような爽快感があった。まるで吹っ切れた心のように、全てが晴れるような味がした。


 翌朝、結局生家に泊めてもらったアンドレイは、部下と合流し、別の都市を巡ることを子孫たちへ伝えた。


「あなたにお会いできて本当に良かったです。ナーヴィ・ゼフィンも喜んでいると思います」


グレゴリーはそう言って頭を下げる。次にマリアがアンドレイの前へ一歩歩み出た。


「えっと、ありがとうございます。きっと今生の別れではありますが、この家はいつでもあなたの帰宅を待っています。それと、この家の維持のために伝承を事実と結びつけられるよう、長命人キリル以上の証拠を作ってみせます。なので安心してください」


これほど素晴らしい子孫たちを育ててくれたことについては、ナーヴィに感謝しなければならないかもしれない。彼が何らかのアクションを起こさなければアンドレイがこうして帰郷することは出来なかったと思うからだ。


どうしてこのような行動に彼が出たのか分からなかったが、互いに最後の血縁者となった時、ナーヴィには何か思うことがあったのだろう。


「あなた達と、私が世界中で様々な人間であったころ、私を待ったまま死んでいった全てのナーヴィの子孫たちに、心の底から敬意と感謝を。またここへ帰る日、あなた達か、その子孫たちが幸せに暮らしていることを願っている」


「待ってください!」


そう言って立ち去ろうとするアンドレイを、グレゴリーが叫んで呼び止める。アンドレイが振り向くと、グレゴリーは早く要件を言わなければ彼が立ち去ってしまうと思っているかのように話し出した。


「どうか写真を一緒に撮ってもらえませんか? 次あなたがここへ帰るときに、僕らが既に死んでいるというなら、どうかあなたという伝説に会えたことを、写真に納めさせてください」


正直なところ写真のような残り続けるものは作りたくない、というのがアンドレイにとっては本音だったが、仮に今生の別れになるような存在がいたとしたら、写真一つ残せずに記憶の中にしか留めておけないとはなんと残酷なことだろうか。


アンドレイに浮かんだその考えは、写真くらい撮られて構わないと思わせた。


「分かった。しかし、撮影した写真は展示しないでほしい。私の仲間は嫉妬深くてな。私だけがこうして家族と過ごすことが、耐えられんらしい」


グレゴリーはその言葉の意図をどうくみ取ったのか、分かりました、と答えるとカメラ機能を開いた端末を自動撮影モードにし、携帯端末から手を放す。すると端末はグレゴリーの手を離れても宙に浮いたままを維持し、アンドレイ達が上手く入りきる画格を探す。


グレゴリーに促され、アンドレイは今のゼフィン家の人々の真ん中に立つと、シャッター音が切られ、歴史の中に沈んでいく一瞬の時間が切り取られた。


「ありがとうございます。キリルさん。この写真は家宝にします。次に帰った際にもちゃんと残しておくので、僕らのことも思いだしてくださいね」


アンドレイは最後にグレゴリーと握手をすると、改めて次の目的地へと歩き去っていく。もしも生まれ変わりというものが存在するのならば、アンドレイはこの滞在を通して生まれ変わったのだろう。


 祖国の滅亡を目の当たりにし、二十五年の人生に幕を下ろしたキリル・ゼフィンから、数百年の時を生き、多くの人々にその冒険譚で希望を与えた長命人キリルに。

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ハンノの旅路 燈栄二 @EIji_Tou

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