愛しさに全てを捧げ

幸まる

一角獣のため息

大陸のごく小さな国の王城には、奥庭に、昔から一頭の一角獣が生きていた。


遡れば、建国当初に傷付いた一角獣を国主が保護し、そのまま善意の人々が世話をしたのが縁の始まりだという。


傷を癒し健康になった一角獣は、この地と善良な人々が気に入り、「奥庭ここに静かに住まわせてくれるのなら、微力ながらこの国を護ろう」と約束した。

純潔の乙女でなければ触れることは出来ない聖獣であった為、それ以来、年若い王女が代々日々の世話をしてきた。


この小国には、特段他国を牽制できるような強みはなかったが、不思議と強国に蹂躙されることも、理不尽な戦火に見舞われることもなかった。

そうして国民が穏やかに暮らして来られたのは、一角獣の護りがあるからではないかと考え、小国の王族は一角獣をなお大事にしたのだった。




「昨日、桃が食べたいと仰ったでしょう?」


そう言って柔らかく色付いた桃を両手で差し出したのは、今年十六になる王女フィーダだ。

現在一角獣の世話は、フィーダとその妹王女が担っているが、殊更、一角獣と気持ちを通じ合わせているのはフィーダだった。


一角獣は鼻先を桃に近付けて、スンと一度息を吸うと、そのまま桃をフィーダの胸の方へ押しやった。


「そなたがお食べ。好きだろう?」

「……食欲がありませんか?」

「もう歳だからね」


確かに年寄りであることは嘘ではなかったが、食欲がない理由は別にあった。

フィーダと触れ合えるのは、今日が最後なのだ。


フィーダは明日、北の大国へ嫁ぐ。


「明日からは、妹がお世話致します」


フィーダは一角獣の柔らかなたてがみを櫛で優しく梳いたが、一角獣は何も言わなかった。

しかし、一角獣がフィーダとの別れを心から悲しんでいることだけは、不思議と痛いほどに伝わってくるのだ。

だからフィーダは、そっと一角獣の首を抱き締めた。


「私は幸せになれるでしょうか……この国から、離れて……」



『あなたから離れて』とは、言えなかった。



一角獣はゆっくりと首を捻って、フィーダの頬に鼻先を近付けた。


「フィーダ、私の名は“リュエン”だ」

「御名を……!」

「嫁ぎ先まで私の護りは届かないが、私の名が……そなたを護るだろう」


名は魂の欠片だ。

それを教えることは、心を与えること。


一角獣とフィーダは、最後の別れの瞬間まで奥庭で静かに添い、風に揺れる花々を眺めていた。





フィーダが嫁いで、二年半が過ぎた。


今までの王女達と同じように、妹王女は心を尽くして世話をしたが、一角獣は日に日に弱っていった。

聖獣とはいえ、命あるもの。

老いには勝てないのかと周囲は考えていたが、一角獣自身には、別の懸念があった。


魂の欠片を持っているフィーダが、弱っているのではないか、と。



ある日、どうしても胸が騒いで落ち着かず、一角獣は妹王女に尋ねた。


「フィーダは息災だろうか」

「あ……」


言葉を濁した妹王女の様子から、フィーダに何かあったのだと確信した一角獣は、詰め寄って全てを話させた。



フィーダが嫁いだ相手は暴君だった。

事ある毎に手を上げられたフィーダは、ボロボロになって離縁され、数週間前にこの国に戻って来たという。


「なぜ言わなかった!?」

「姉上様が黙っていて欲しいと仰ったのです」


一角獣は慄いた。

戻って来た彼女が私に会いに来ないなど……。


いや、会えないのだ。

彼女はもう、一角獣に触れられる乙女ではないのだから。


「……フィーダを呼べ。彼女が来ないのなら、私はもう何も口にしない」




脅しともいうべき一角獣の要求で、フィーダは妹王女に連れられて奥庭へやって来た。

しかし、足を踏み入れることなく、遠くから一角獣を見つめるに留まった。

近寄れば、害になる。


離れたところから見るフィーダは、見るも無残な有様だった。

艷やかな髪や肌は荒れ、厚手のローブを纏っても分かる程に痩せこけていた。


「私はそなたを護れなかったのだな……」

「何を仰るのですか! あなたの御名を頂いていなければ、私は既に生命を絶っていたでしょう!」


フィーダはその場で泣き崩れた。


「ずっとあなたに会って触れたかった……! もう叶うことはないのに、ただそれだけを望んで生命を繋いだ私は、何と愚かな女でしょう……」




一角獣は、何も言わなかった。

しかし、妹王女に命じて、長い鬣を切り落とした。


落ちた鬣は、小さな美しい仔馬となった。


「私は年老いた。新たな一角獣に生命を与え、私は去る。この仔馬を囲うも放つも、この国の者達に任せよう」


仔馬は成長するにつれ、その額に清らかな瘤が盛り上がり、角となっていった。

反対に、一角獣の立派な角は朽ちて、先から崩れるように落ちた。


そうして仔馬が立派な角を持つ一角獣となった頃、根元まで角を失くした獣は、覚束無い足取りで、奥庭の出口へと向かった。


そこには、フィーダが待っていた。


「……もう、私に触れてくれるか」


フィーダは泣きながら角を失くした獣を抱き締めた。


「リュエン!」


獣は、ほうと息を吐いて、愛しい女の願いを叶えたのだった。



《 終 》

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