海の一角獣
槙野 光
海の一角獣
僕は北方に位置する離島に住んでいる。
冬が訪れると、薄く伸ばしたチョコを冷蔵庫で寝かせたみたいにぱりぱりと海面が凍って、薄幕を張った海の中で泳ぐ魚の影がたくさん見える。僕は島の裏手にある入江にしゃがみ込んで、その姿をよく眺めていた。
島には、僕と同じくらいの年の子がいない。
隣近所に住むお姉さんが時々話し相手になってくれるけど、お兄さんが呼びに来ると「ごめんね」って僕の頭をくしゃりと撫でて一緒にどこかに行ってしまう。
おじさん達は漁に出てるし、おばさん達は民宿の仕事でいつもせかせかと動き回って忙しそうだ。だから僕はいつもひとりだった。でも、ちっとも寂しくなんてなかった。
春になるとブナ林は若葉色に染まり、夏になるとコバルトブルーの海がゆらゆらと揺れ、秋になると黄金色の絨毯が広がり、冬になると辺り一面真っ白になって、薄膜を張った海面に光が降り注ぐ。
この島はいつもきらきらと輝いていて、まるで宝箱みたいだった。だから僕はひとりでも寂しくなくて、宝物が壊れないよういつもパトロールをしていた。
僕の宝物が増えたのは、突き刺すような冬の日のことだった。
「退屈で死ぬ」とよく溢していた従兄弟の
「蒼兄ちゃんの嘘つき……」
蒼兄ちゃんは愚痴ばかりだったし、隣近所に住む優しいお姉さんのほうが好きだ。でもいないと寂しくて、入江で膝を抱えて顔を埋めるとため息が漏れた。すると突然、ぱりぱりと割れるような音がして、不思議に思って顔を上げると、海の真ん中から入道雲みたいな飛沫が突然上がって、ブナの木の色をした角が一本生えた。
それが僕の宝物、『ユニ』との出逢いだった。
鯨の子供みたいな姿形をしたユニは額に一本角を生やしていて、そして、とても耳が良かった。遠くにいても、僕が声をかけると姿を現す。ユニは僕のため息を遊びだと思っているのか、僕がため息を吐くと飛沫をあげて、船の汽笛みたいな低い声で鳴いて僕の真似をする。
海の一角獣。海のユニコーン。だから僕は、『ユニ』と呼んでいた。でも、ユニと会えるのは突き刺すような冬の合間だけで、春の足音が近づいた途端、姿を消してしまう。
寂しかった。でも、ユニと再会できた時は乾いた心の分だけ嬉しくなって、痛いほど冷たい筈の冬は春よりも暖かくなって、夏よりも燦々と輝くようになった。
僕はユニのことが好きで、ユニもきっと、僕のことが好きだった。
月日が経ち、お姉さんとお兄さんが大学に進学する為、島を離れることになった。冷たさが和らぎ始めた春の手前の日のことだった。
船を背にするお姉さんの前で、僕はめそめそと泣いていた。「この島が嫌いなの?」って僕が訊くと、お姉さんは困った顔をして僕の前にしゃがみ込む。
「この島は好きだけど学ぶ場所がないの。だから、仕方がないのよ」
そう言ったお姉さんの顔は僕よりも少し寂しそうで、その瞳は少し揺らいでいるように見えた。
「行くぞ、
お兄さんがお姉さんを呼ぶ。お姉さんは僕と目線を合わせるように腰を屈めて、僕の頭をくしゃりと撫でた。
「いつか帰ってくるから」
「希!」
「分かってる! ……じゃあ、元気でね」
海が揺れ、飛沫が上がりお姉さんとお兄さんが遠ざかっていく。僕は水平線の向こうに消えていく船を眺め、思った。
早く、ユニに会いたい。
僕はユニと遊びながら、お姉さんの「いつか」をずっと待った。でもお姉さんは帰ってこなくて、僕はいつの間にかお姉さんの背を追い越してしまった。
そして大学に進学する為、僕も島を離れることになった。
船上のデッキに立ち、白い手摺りを両手で握りしめる。
住み慣れた島は徐々に知らない大きさになっていって、期待と不安に思わずため息が漏れた。でも、春の足音が近づいた海からは入道雲のような飛沫も汽笛のような低い声も聞こえなかった。それでも、空から差し込んだ光に包まれた海は、一面宝石を宿したみたいに眩く輝いていた。
綺麗で、でもとても切なくて、僕は島が消えてもずっと海を眺めていた。
僕は大学で、環境学を学び始めた。年末年始には島に帰って入江を訪れ、ユニはその度に姿を見せてくれた。でも次第に、冬になっても姿が見えないことが多くなって、島に戻る頃にはユニの姿は消えてしまった。
海はもう薄膜を張らないし、突き刺すような冬の空気も、もうない。コバルトブルーの海を覗くと見慣れない色鮮やかな魚の姿が見えて、僕は憂うようにため息を吐く。でも、海からはユニのため息は見えなくて、代わりに飛沫のような雲が空に浮かんでいた。
船の汽笛が響く。
海面が茜色に包まれて、徐々に薄暗くなっていく。勝色の空から落ちてきた星を真摯に受け止める海を見て、僕は手を強く握りしめた。そしてため息を堪え、背を向ける。
僕は、僕の宝物を守る為に前を向いて、歩いていく。
海の一角獣 槙野 光 @makino_hikari
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