じいちゃんとトキトの小さな冒険

紅戸ベニ

第1話(1話で完結)

 五月も終わりの、梅雨入つゆいり前のこと。

 鴇治郎トキジロウまごのトキトがひさしぶりに田舎いなかをおとずれるのを心待ちにしていました。

 

 トキトが小学校に上がってからというもの、なかなか田舎に来る時間が取れなくなっていたのです。学校の友だちとの遊びや習いごとに追われ、じいちゃんの住む田舎町に来ることが少なくなってしまったトキト。 

 トキトの心に自然の美しさを味わわせたい。子ども時代にできる体験をさせてやりたい。そんな思いがじいちゃんにはありました。

「トキト、今日はいっしょに山に行こうか。生き物がいっぱい見られるぞ」

 と、じいちゃんが声をかけました。

「うん!」

 トキトの目はかがやいていました。トキトは小学四年生。体も大きくなって、きっとじいちゃんの足にどこまでもついていくことができる。そんな自信がありました。クラスでもスポーツがいちばんとくいなトキトです。

 二人は早朝から家を出発し、山々へと足をみ入れました。まだ朝のつゆが残る山の林の小道を、トキトはじいちゃんの少し後ろを歩いています。鳥のさえずりが聞こえ、木の香りが鼻をくすぐります。草や木々が静かに風にゆれる音が心地よく、トキトのむね冒険ぼうけんへの期待でいっぱいでした。

 林をぬってつづく小道を歩いていると、じいちゃんが何かに気づき、トキトに呼びかけました。

 「ほら、あそこの木のえだを見てごらん」

 トキトがじいちゃんの指差ゆびさすほうを見ると、大きな木の枝に、白いふわふわとしたものがたくさんくっついていました。まるでホイップクリームのようなそれは、モリアオガエルの卵塊らんかいです。じいちゃんはうれしそうに言いました。

 「これはモリアオガエルの卵だよ。この時期になると、こうやって水辺みずべの木に産みつけるんだ」

 トキトは興味津々きょうみしんしんで近づき、その卵塊にそっと触れてみました。

「これがカエルの卵なのか……木の枝なら、食べられにくいってことか」

「そうだ、ここでたくさんのオタマジャクシが生まれてくる。もうじき梅雨に入るだろう? そのとき、水の中に落ちてそこで生活をはじめるんだ」

 と、じいちゃんは教えてくれました。

 さらに、じいちゃんは地面に生えるシダ植物をひっくり返し、その裏側うらがわを見せてくれました。シダは、「ヒツジ」と漢字で書くのだそうです。ヒツジの歯は、ぎざぎざもようがついていて、この葉っぱに似ているからだとじいちゃんは言いました。

 シダの葉っぱの裏にはたくさんの小さな黒い点が、葉のすじにそってびっしりとついています。

「わ、黒いカビが生えたみたいだな」

「そうだな、カビかホコリに見える。シダは花をさかせず、こんなふうに胞子ほうしを作ってえるんだよ」

「俺、なんとなく植物はみんな、花がさくと思ってた」

何億年なんおくねんも前の、恐竜きょうりゅうが生きていた時代じだいには、このシダの仲間が陸上に大きな森林を作っていたそうだ」

「それだけシダが強いってこと?」

「その時代の気候きこうに合っていたんだろうな。それと、トキトが言ったような、花をつける植物は、まだ地球に生まれてきていなかった」

 トキトは、それも初めて知ることでした。

「へえええー! 花って、大昔にはなかったってことか……」

 林のおく深くに進むと、とつぜん、遠くから鳴き声が聞こえました。

 キュン、とか、キャン、とか聞こえる高い音でした。大きな鳴き声だったのでトキトはおどろいて立ち止まりましたが、じいちゃんがにっこりと笑い、

「なんだと思う?」

 と聞きました。

「トリかな? でっかい鳴き声だったけど」

 じいちゃんは片目かためをつむって笑顔になりました。

「シカだ。きっとこっちに気づいて、気をつけろ、と仲間に伝えたんだな」

「あんな鳴き声なのか、シカって!」

「さあ、シカを追いかけてみようか」

 と軽やかに言います。トキトはその言葉に、走り出しました。二人でシカの声のほうに向かいます。

「谷をへだてた向こうにいるな」

 じいちゃんの指の先を見てみると、小さくシカの姿が見えました。

「シカって四角い胴体どうたいに、つまようじをさしたみたいだな……」

「わっはははは、そうだな、トキト。シカは足が細いからな」

 じいちゃんは笑いました。

 シカの姿はあっという間に木のむこうへと消えてしまいました。

「シカ、速い!」

 トキトはじいちゃんを見ました。もっと追いかけるのか、どうなのか、と言葉には出しませんでしたが、じいちゃんにはトキトのまよいが伝わったようです。

「まあ、あっちまで行ったとしても、シカはもうずっと先に逃げたあとだろうな」

 じいちゃんは軽くかたをすくめて言いました。

「ま、鳴き声も聞けたし、シカを目で見られたから、十分だよ!」

「逃げるかシカ、早足か、せいいっぱいのかけ足か、って感じだったな!」

 じいちゃんがまた、楽しげに口にしました。

「じいちゃんのいつものセリフ、出たな。シカ、シカ、シカの三連続だ」

 トキトは思わず笑ってしまいました。じいちゃんのこういうところが好きです。

 山をさらに登っていくと、高いところにたどり着きました。大きな池が広がっていて、静かな水面に空の色がうつりこんでいます。

 池のほとりに目をやると、草むらから一匹いっぴきのキツネが姿すがたをあらわしました。遠くからでも、ふさふさした尻尾しっぽでキツネだとすぐにわかります。

「キツネはわりとおくびょうだからな。幸運こううんだ」

 じいちゃんはキツネを見て、静かに言いました。

「そうなのか。えへへ、ラッキートキトだ!」

 トキトはわくわくした声でキツネに目をこらします。

 キツネは一瞬いっしゅんだけこちらを見て、すぐに森の中に消えてしまいました。短い出会いに、トキトは残念な思いがしましたが、はじめて自分の目で見たキツネの姿を忘れないように心にきつけました。

案外あんがい、山がトキトを歓迎かんげいしてるって伝えに来たのかもな」

 と、じいちゃんがつぶやきました。

「伝えにきたわりに、キツネ、だまってどこかに行っちゃったけど?」

 トキトは少し残念そうに答えました。

「神様の使いだって、昔から言われているだろ。キツネは、ちょっと姿を見せたら、すっと消えてしまうもんさ」

 じいちゃんは昔話するような調子で言いました。

 トキトは「キツネが神様の使いだなんてふしぎだな。ほかのケモノと変わらないけど」と思いながらも、じいちゃんとのこの時間を大切に思っていました。今までにない、自然との出会いの数々がトキトの心をたしていきます。

 そのあとも、二人はどんどん奥へと進みます。

「モリアオガエルに、シカに、キツネだけでも、学校の友だちに話したらおどろかれると思う」

 と言いつつも、トキトは「だからもう帰りたい」などと言いません。じいちゃんがこのあと何を見せてくれるんだろうというわくわくで胸の内側うちがわが元気におどります。体力も、まだまだ残っていました。

 小さなさわがありました。水がササのあいだをチョロチョロと流れています。平地の水と違い、沢の水は細く、地面のでこぼこをすべるように流れ、ところどころで石を乗りこえると白いしぶきがあがります。

「トキト、いるぞ。サワガニだ」

 沢のそばにしゃがんだじいちゃんがトキトに手まねきをしました。トキトが近よると、サワガニが流れに身をひそめていました。十円玉より少し大きいくらいのすべすべの甲羅こうらに、白いふたつの小さめのハサミがついています。

 しかし、そのときです。じいちゃんが足を踏み外し、体が大きくかたむきました。沢のやわらかい土に足を取られて、バランスを失ったのです。うでを持ち上げ、よろけたところを、トキトがすばやくささえました。

「じいちゃん、平気か?」

 トキトは心配そうに聞きました。

「悪いな、トキト。平気、元気、今は一学期」

 じいちゃんは笑顔で冗談じょうだんを返します。

「ダジャレが言えるなら、大丈夫だよな」

 トキトは安心したように笑い返しました。

「ササの根元がむき出しになっていたら、みぬいてケガをすることもあるんだ。助かったよ」

 じいちゃんはトキトの助けに感謝かんしゃしました。

「いいってこと」

 トキトはさらりと言いましたが、その小さなやり取りが、二人の間に新たな信頼しんらいを深めました。

「トキトも小学四年生になったんだものな。じいちゃんを助けてくれるようになったか……」

「へへ、いつでも助けるよ」

 じいちゃんの声がなんだか湿しめっぽいような感じがしたトキトでした。

 その後も順調じゅんちょうに山を進み、じいちゃんがひろったぼうでツチグリをつつく場面がありました。ツチグリというキノコは、星型の紙の上に茶色のチョコレートの粒を乗せたみたいな形で地面に落ちています。キノコなので、ツチグリの中には胞子がつまっています。。じいちゃんが棒でそっとつつくと、こまかい胞子がふわりとまい上がりました。

「うわあ、けむりみたいだ!」

 トキトは目をかがやかせました。

 そんなふうに楽しい冒険が続けば、トキトもしだいにつかれを感じてきます。昼を過ぎるころには、足取りが少し重くなってきました。しかし、トキトは「帰りたい」とは言いません。じいちゃんとの冒険を、もっともっと続けたいのです。じいちゃんもそれに気づいて、おやつのようかんをトキトに手渡てわたし、少し休みをはさんでまた出発します。

 夕方、トキトはついにねむってしまいました。じいちゃんと、小川のそばの草地にすわって休んでいるときでした。じいちゃんはトキトを眠らせたまま、れていく空をながめていました。

 トキトが次に目をましたとき、あたりはすっかり暗くなっていました。夏の虫のがするほかに音もなく、林の木々も静けさの中で眠りに落ちたようです。じいちゃんの腕の中でトキトはまどろみから現実げんじつにもどってきて、ふと、黒い木々や草のシルエットの中に、緑色の光が漂っているのに気づきました。

「これ、なに?」

 とトキトがぼんやりとつぶやくと、じいちゃんは何も言わずにほほえみました。

「あ、ホタル……?」

 それはホタルの光でした。無数のホタルが小川のそばの草むらの上をすうっとただよっては光ります。トキトは夢のつづきのように思いました。トキトは心をうばわれ、息をするのも忘れてしまいそうでした。

「ホタルだよ、トキト。梅雨入つゆいり前のほんの短いあいだにしか見られないんだ」

 と、じいちゃんが声をひそめて言いました。ホタルを驚かさないようにでしょうか、とてもやさしい声でした。

「ホタルって、少しのあいだしか生きられないんだよな……」

 トキトがつぶやくと、じいちゃんは意外な答えを返してきます。

「そんなことはないぞ、トキト。ホタルは一年は生きる」

「え、そうだったっけ? 俺、十日くらいで死んじゃうって聞いたことがあったんだけど」

 トキトはとまどいます。今、じいちゃんも短いあいだにしか見られないと言ったばかりなのに、とも思います。

 じいちゃんは笑いながら、いつもの軽口を返してきます。

「そりゃトキトの早計そうけい、気のせい、だから勉強せい、だ」

「また出た、じいちゃんの三段用語さんだんようご

 トキトはにがわらいをかべます。じいちゃんの言葉遊びにはれているけど、自分が間違っていると言われているのに、こういう言い方でおもしろくされるといやな気分にならないものでした。

 じいちゃんは続けます。

「ホタルはな、幼虫ようちゅうの期間が長いんだ。セミだってそうだぞ。三年は幼虫で土の中で過ごす」

「あっ、それなら俺も知ってる。ジュウシチネンゼミって、アメリカにいるセミは、名前のとおり十七年もかけて成虫になるんだよな。でも地上にいるのはほんの少しの時間なんだろ? ちょっと気のどくだよな」

 トキトはテレビで見たセミの話を思い出して言ったのですが、じいちゃんは首を横にってきました。

「じいちゃんは、気の毒とは思わないんだがな」

「え? なんで?」

 じいちゃんは目を細め、トキトから視線を外しました。遠くを見つめながら言います。

 「ホタルやセミに気持ちを聞いたわけじゃないが……もし、じいちゃんが虫たちだったら、水の中や土の中で過ごす幼虫時代が楽しいんじゃないかって思うんだ。子ども時代が長く続くなんて、いいじゃないか。いつか大人になって子孫しそんをふやさなくちゃならない。でも、楽しい時間がたっぷりあるほうがいいだろう」

 トキトはじいちゃんの言葉をかみしめています。

「そうか……俺も、こうやって楽しく子ども時代をごしてるもんな。子どもでいられるって、悪くないよな」

 その瞬間しゅんかん、じいちゃんの手にふわりとホタルがとまりました。小さな光の粒が、じいちゃんの手のひらの上で静かに輝いています。

 じいちゃんは、ホタルに向かって話しかけました。

「なんだ、ホタルのホタロウも会話にまじりたかったのか?」

 ホタルは何度か光をくり返し、じいちゃんの腕をゆっくりと上っていきました。

 ひじのあたりまできたところで、トキトは両手をそっと差し出し、ホタルをすくいあげました。その小さな光が、トキトの手のひらの中で光ったり暗くなったりをくりかえしています。

「少し手のひらで光らせたら、逃がしてやるんだぞ」

「うん」

 トキトは優しく両手を丸くして、ホタルがつくる緑色のやわらかな光を見つめました。手のひらの中に、ホタルの小さな呼吸こきゅうが伝わってくるような気がします。

「小さいのに、すげえや、ホタル」

 トキトはおおいにホタルをほめたたえながら、ゆっくりと手を開いてホタルを空にはなしました。ホタルは羽を広げ、夜の草むらの、まるで黒い紙を切ったみたいなシルエットに向かって静かに飛びっていきました。

 じいちゃんは、それを見送りながら言いました。

「ああして、つがいを探して、次の世代を生んだら、ホタルは役目を終えるんだ」

 トキトはじいちゃんの横顔を見ました。じいちゃんはホタルを見ているようで、その目はもっと遠くの、だれも知らない場所を見つめているようにも感じられました。

居心地いごこちのよかった水の中も、光りながらった草むらも、ホタルは全部、次の世代せだいに残していくんだよ」

 しみじみと、じいちゃんは言いました。

 じいちゃんのその言葉は、トキトの胸のおくのほうに、ずっと残ることになるのでした。


 翌朝よくあさ、目を覚ますと、じいちゃんの家のふかふかの布団ふとんにいました。窓から差しこむ朝の光につつまれながら、トキトは、ゆうべのできごとが夢だったのか現実だったのか、わからない気がしました。

 間違いなく現実でした。トキトの心には、じいちゃんとの冒険があざやかにきあまれていました。生き物たちとの出会い、ホタルの光、木々の香り、そしてじいちゃんの温かい手の感触かんしょく――それは言葉にしなくても、トキトの中で自分の一部になって生き続けるものとなったのです。

「じいちゃん」

 朝ごはんをいただきながら、トキトは話しかけました。

「なんだ、トキト」

「俺さ、じいちゃんと山で冒険したとき、じいちゃんっていうより、友だちといっしょに冒険してる、って感じがした。おもしろかった」

 じいちゃんが灰色はいいろのぶしょうヒゲの生えたアゴを、するっとなでて笑いました。

「じいちゃんも、そうさ、トキト。子どもにかえったよ」

「今日も学校は休みだぜ。じいちゃん、今日も山に冒険に行こうよ」

 トキトの顔をまぶそうにながめながら、鴇治郎トキジロウじいちゃんは、うなずきます。

「メシを食ったら出発するぞ、トキト」

 ごちそうさまもそこそこに、二人の腕白小僧わんぱくこぞうが、今日も小さな冒険に出発します。


(おわり)


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