じいちゃんとトキトの小さな冒険
紅戸ベニ
第1話(1話で完結)
五月も終わりの、
トキトが小学校に上がってからというもの、なかなか田舎に来る時間が取れなくなっていたのです。学校の友だちとの遊びや習いごとに追われ、じいちゃんの住む田舎町に来ることが少なくなってしまったトキト。
トキトの心に自然の美しさを味わわせたい。子ども時代にできる体験をさせてやりたい。そんな思いがじいちゃんにはありました。
「トキト、今日はいっしょに山に行こうか。生き物がいっぱい見られるぞ」
と、じいちゃんが声をかけました。
「うん!」
トキトの目は
二人は早朝から家を出発し、山々へと足を
林をぬってつづく小道を歩いていると、じいちゃんが何かに気づき、トキトに呼びかけました。
「ほら、あそこの木の
トキトがじいちゃんの
「これはモリアオガエルの卵だよ。この時期になると、こうやって
トキトは
「これがカエルの卵なのか……木の枝なら、食べられにくいってことか」
「そうだ、ここでたくさんのオタマジャクシが生まれてくる。もうじき梅雨に入るだろう? そのとき、水の中に落ちてそこで生活をはじめるんだ」
と、じいちゃんは教えてくれました。
さらに、じいちゃんは地面に生えるシダ植物をひっくり返し、その
シダの葉っぱの裏にはたくさんの小さな黒い点が、葉のすじにそってびっしりとついています。
「わ、黒いカビが生えたみたいだな」
「そうだな、カビかホコリに見える。シダは花をさかせず、こんなふうに
「俺、なんとなく植物はみんな、花がさくと思ってた」
「
「それだけシダが強いってこと?」
「その時代の
トキトは、それも初めて知ることでした。
「へえええー! 花って、大昔にはなかったってことか……」
林の
キュン、とか、キャン、とか聞こえる高い音でした。大きな鳴き声だったのでトキトは
「なんだと思う?」
と聞きました。
「トリかな? でっかい鳴き声だったけど」
じいちゃんは
「シカだ。きっとこっちに気づいて、気をつけろ、と仲間に伝えたんだな」
「あんな鳴き声なのか、シカって!」
「さあ、シカを追いかけてみようか」
と軽やかに言います。トキトはその言葉に、走り出しました。二人でシカの声のほうに向かいます。
「谷をへだてた向こうにいるな」
じいちゃんの指の先を見てみると、小さくシカの姿が見えました。
「シカって四角い
「わっはははは、そうだな、トキト。シカは足が細いからな」
じいちゃんは笑いました。
シカの姿はあっという間に木のむこうへと消えてしまいました。
「シカ、速い!」
トキトはじいちゃんを見ました。もっと追いかけるのか、どうなのか、と言葉には出しませんでしたが、じいちゃんにはトキトの
「まあ、あっちまで行ったとしても、シカはもうずっと先に逃げたあとだろうな」
じいちゃんは軽く
「ま、鳴き声も聞けたし、シカを目で見られたから、十分だよ!」
「逃げるかシカ、早足か、せいいっぱいのかけ足か、って感じだったな!」
じいちゃんがまた、楽しげに口にしました。
「じいちゃんのいつものセリフ、出たな。シカ、シカ、シカの三連続だ」
トキトは思わず笑ってしまいました。じいちゃんのこういうところが好きです。
山をさらに登っていくと、高いところにたどり着きました。大きな池が広がっていて、静かな水面に空の色が
池のほとりに目をやると、草むらから
「キツネはわりとおくびょうだからな。
じいちゃんはキツネを見て、静かに言いました。
「そうなのか。えへへ、ラッキートキトだ!」
トキトはわくわくした声でキツネに目をこらします。
キツネは
「
と、じいちゃんがつぶやきました。
「伝えにきたわりに、キツネ、だまってどこかに行っちゃったけど?」
トキトは少し残念そうに答えました。
「神様の使いだって、昔から言われているだろ。キツネは、ちょっと姿を見せたら、すっと消えてしまうもんさ」
じいちゃんは昔話するような調子で言いました。
トキトは「キツネが神様の使いだなんてふしぎだな。ほかのケモノと変わらないけど」と思いながらも、じいちゃんとのこの時間を大切に思っていました。今までにない、自然との出会いの数々がトキトの心を
そのあとも、二人はどんどん奥へと進みます。
「モリアオガエルに、シカに、キツネだけでも、学校の友だちに話したら
と言いつつも、トキトは「だからもう帰りたい」などと言いません。じいちゃんがこのあと何を見せてくれるんだろうというわくわくで胸の
小さな
「トキト、いるぞ。サワガニだ」
沢のそばにしゃがんだじいちゃんがトキトに手まねきをしました。トキトが近よると、サワガニが流れに身をひそめていました。十円玉より少し大きいくらいのすべすべの
しかし、そのときです。じいちゃんが足を踏み外し、体が大きくかたむきました。沢のやわらかい土に足を取られて、バランスを失ったのです。
「じいちゃん、平気か?」
トキトは心配そうに聞きました。
「悪いな、トキト。平気、元気、今は一学期」
じいちゃんは笑顔で
「ダジャレが言えるなら、大丈夫だよな」
トキトは安心したように笑い返しました。
「ササの根元がむき出しになっていたら、
じいちゃんはトキトの助けに
「いいってこと」
トキトはさらりと言いましたが、その小さなやり取りが、二人の間に新たな
「トキトも小学四年生になったんだものな。じいちゃんを助けてくれるようになったか……」
「へへ、いつでも助けるよ」
じいちゃんの声がなんだか
その後も
「うわあ、
トキトは目を
そんなふうに楽しい冒険が続けば、トキトもしだいに
夕方、トキトはついに
トキトが次に目を
「これ、なに?」
とトキトがぼんやりとつぶやくと、じいちゃんは何も言わずにほほえみました。
「あ、ホタル……?」
それはホタルの光でした。無数のホタルが小川のそばの草むらの上をすうっと
「ホタルだよ、トキト。
と、じいちゃんが声をひそめて言いました。ホタルを驚かさないようにでしょうか、とてもやさしい声でした。
「ホタルって、少しのあいだしか生きられないんだよな……」
トキトがつぶやくと、じいちゃんは意外な答えを返してきます。
「そんなことはないぞ、トキト。ホタルは一年は生きる」
「え、そうだったっけ? 俺、十日くらいで死んじゃうって聞いたことがあったんだけど」
トキトはとまどいます。今、じいちゃんも短いあいだにしか見られないと言ったばかりなのに、とも思います。
じいちゃんは笑いながら、いつもの軽口を返してきます。
「そりゃトキトの
「また出た、じいちゃんの
トキトはにがわらいを
じいちゃんは続けます。
「ホタルはな、
「あっ、それなら俺も知ってる。ジュウシチネンゼミって、アメリカにいるセミは、名前のとおり十七年もかけて成虫になるんだよな。でも地上にいるのはほんの少しの時間なんだろ? ちょっと気の
トキトはテレビで見たセミの話を思い出して言ったのですが、じいちゃんは首を横に
「じいちゃんは、気の毒とは思わないんだがな」
「え? なんで?」
じいちゃんは目を細め、トキトから視線を外しました。遠くを見つめながら言います。
「ホタルやセミに気持ちを聞いたわけじゃないが……もし、じいちゃんが虫たちだったら、水の中や土の中で過ごす幼虫時代が楽しいんじゃないかって思うんだ。子ども時代が長く続くなんて、いいじゃないか。いつか大人になって
トキトはじいちゃんの言葉をかみしめています。
「そうか……俺も、こうやって楽しく子ども時代を
その
じいちゃんは、ホタルに向かって話しかけました。
「なんだ、ホタルのホタロウも会話にまじりたかったのか?」
ホタルは何度か光をくり返し、じいちゃんの腕をゆっくりと上っていきました。
「少し手のひらで光らせたら、逃がしてやるんだぞ」
「うん」
トキトは優しく両手を丸くして、ホタルがつくる緑色の
「小さいのに、すげえや、ホタル」
トキトはおおいにホタルをほめたたえながら、ゆっくりと手を開いてホタルを空にはなしました。ホタルは羽を広げ、夜の草むらの、まるで黒い紙を切ったみたいなシルエットに向かって静かに飛び
じいちゃんは、それを見送りながら言いました。
「ああして、つがいを探して、次の世代を生んだら、ホタルは役目を終えるんだ」
トキトはじいちゃんの横顔を見ました。じいちゃんはホタルを見ているようで、その目はもっと遠くの、
「
しみじみと、じいちゃんは言いました。
じいちゃんのその言葉は、トキトの胸のおくのほうに、ずっと残ることになるのでした。
間違いなく現実でした。トキトの心には、じいちゃんとの冒険があざやかに
「じいちゃん」
朝ごはんをいただきながら、トキトは話しかけました。
「なんだ、トキト」
「俺さ、じいちゃんと山で冒険したとき、じいちゃんっていうより、友だちといっしょに冒険してる、って感じがした。おもしろかった」
じいちゃんが
「じいちゃんも、そうさ、トキト。子どもにかえったよ」
「今日も学校は休みだぜ。じいちゃん、今日も山に冒険に行こうよ」
トキトの顔をまぶそうにながめながら、
「メシを食ったら出発するぞ、トキト」
ごちそうさまもそこそこに、二人の
(おわり)
じいちゃんとトキトの小さな冒険 紅戸ベニ @cogitatio
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