思い出す歌など

長尾たぐい

R.I.P.

——人間の生死も人間を本位とする吾らから云えば大事件に相違ないが、しばらく立場をえて、自己が自然になり済ました気分で観察したら、ただ至当しとうの成行で、そこに喜びそこに悲しむ理窟りくつごうも存在していないだろう。

 こう考えた時、余ははなはだ心細くなった。またはなはだつまらなくなった。そこでことさらに気分を易えて、この間大磯おおいそくなった大塚夫人の事を思い出しながら、夫人のために手向たむけの句を作った。


  有る程の菊げ入れよ棺の中


――夏目漱石「思い出す事など」


   *


 二〇二〇年、十月十八日。その日も大勢の人が感染症で亡くなっていた。

 しかし感染症の蔓延がなくても、人は毎日大勢死にゆくものなのだ。漱石の言葉を借りるなら「至当」である。中学生の時、義理の伯母が四十代で亡くなった時も、大学生の時、祖父が八十代で亡くなった時も、私は「どうして」など「ごうも」思わなかったし、私の悲しみをどこか遠くから観察して「はなはだ心細く」なったりはしなかった。むしろ、そうすることで心の平静を保った。


 けれど、音楽ニュースサイトでその短い見出しを見た時、私は「どうして」と思った。

「赤い公園ギタリスト津野米咲が死去」


 私は三歳から十七歳までの十四年間、鍵盤楽器を習っていた。それもあり、音楽ならなんでも――クラシックからジャズ、洋楽、ワールドミュージック、そして日本の歌謡曲・ポップスまで聞く。

 その私がとりわけ十代のころからのめり込んできたのが、同時代のロックバンドの音楽だった。三十代を手前にした今でも、好きでたまらないバンドが、敬愛してやまないソングライターが大勢いる。

 津野つの米咲まいさもそのひとりだ。

 彼女は、二〇一〇年に結成されたバンド、赤い公園でギター/コーラスを務め、楽曲の作詞・作曲を手掛けていた。

 赤い公園は、二〇一二年のメジャーデビュー以来、楽曲のクオリティと高い演奏力によって邦楽ロック界隈で高く評価されてきた。

 そんな赤い公園のソングライターである米咲――四つ年上の彼女を私はどこか姉貴分を呼ぶようにそう呼んでいた――がその実力を世に知らしめたのは、平成を代表する五人組アイドルグループ・SMAPの五十枚目のシングルとして二〇一三年に発売されたドラマタイアップ曲、「Joy!!」だった。


   「無駄なことを一緒にしよう/忘れかけてた魔法とはつまり Joy!! Joy!!」(「Joy!!」)


 黄色いスーツを着たSMAPの五人が、そう歌いながら手を振り上げるミュージックビデオを見た中学生の私は「米咲の音楽はこれで多くの人の心に残る」と確信した。

 その確信は当たった。二〇一六年、解散を発表したSMAPの記念アルバムの収録曲を決めるファン投票で、「Joy!!」は十六位を獲った。一般的に知名度の高い「らいおんハート」が二十三位であることを考えれば、SMAPという一時代を築いた偉大なアイドルのファンにとって、この曲がいかに愛されているかということが伝わると思う。

 その後も赤い公園はドラマやアニメの主題歌など、いくつものタイアップをこなしてきた。米咲が作り、赤い公園のメンバーが鳴らす音楽は、二〇一八年にヴォーカルの交代というバンドとして大きな出来事があった後も、みな素晴らしかった。

 

 だから二〇二〇年四月という先行き不透明の時期に発売された、ドラマのオープニング曲である「オレンジ」と挿入歌である「pray」からなるEP盤の発売後、次はどんな曲が聴けるのか楽しみにしていた。

 そしてそれから半年後。やってきた報せは、新曲の発表でもなく、ライブの告知でもなかった。

 「うそだ」と口から思わず漏れた言葉を耳が拾って、それがあたかも正しい気がして、リモート勤務をしていた自室で、私はスマホのブラウザを再読み込みした。それでもニュースサイトの見出しは変わらなかった。


米咲が死んだ?/どうして?/事件事故?/いや/こんな時勢だから?/ああいつか音楽雑誌で米咲自身が語っていた/本当に気持ちがダメになった時にキッチンの三角コーナーに溜まる生ごみのこと/どうしてこんなことを////思い出すんだろう/うちの三角コーナーに投げ捨てられている私が朝食べたバナナ////それはどんな色をしている?/黒ずんだ黄色/黄色////に/黄色い花が


   「もしもあなたが/悲しくて俯いてしまった時には/せめて咲いてるたんぽぽでありたい」(「黄色い花」)


 「黄色い花」は、ヴォーカル交代前の赤い公園の曲で一番好きな歌だ。

 泣きながらこの曲を聴いて思った。こんなに優しくて素敵な歌詞を書く人が死んでしまった。悲しい。そして私はこの曲を聞くことで、なんとか、目の前の悲しみに暮れる心を持ち上げようとしている。

 へんなの。

 でも、それが音楽だ。米咲が打ち込んで、仲間を得て、取り組んでいた、音楽という創作物。

 気づけばスマホのメモアプリに文字を打ち込んでいた。単語を打って、消して、また打って。


  神様は優れたひとが好きらしい 長生きしろよ天才どもよ


 ひとつの短歌がそこにはあった。自分で詠んだくせに、勝手に悲しくなって、今度は少しだけ声を上げて部屋の中でひとり泣いた。

 津野米咲は私が敬愛する大勢のソングライターの中のひとりで、この歌を詠まなかったら、ひょっとしたらいつの日か、米咲の死を意識せずに赤い公園の音楽を聴いて、ふいに少しだけ悲しくなるだけで済んだのかもしれない。

 そうしたくなくて私は創作をした。米咲と同じこと、というにはおこがましいと思うけれど、でも紛れもなくそうとしか言いようのない行為を。


 ――死について考える、というのが自分が小説でやっていることで。それは、自分の好きなクリエイターの何人かが若くして亡くなったせいもあるかもしれません。たとえば、赤い公園の津野米咲さんとか――。

 米咲と同世代のその小説家は、小さな講演会でそう言った。

 講演の後、サインをもらいながら、私も赤い公園の津野米咲の音楽が好きで、と伝えた。すると、少し前に刊行された文芸雑誌で赤い公園についてエッセイを書いた、と教えてくれた。

 彼も、てらいなく米咲を「天才」と評していた。私にとって、彼はデビュー以前から名前を知っているすぐれた書き手の一人だった。そんな彼のエッセイには、悩みながら創作する中で赤い公園の音楽を支えにしてきたこと、自分は米咲のような天才ではないと努力を重ねてきたことが、そして「赤い公園が好きだった」ではなくて「好きです」と書かれていた。米咲が作って赤い公園が鳴らした音楽が、別の創作者の中に今も息づいている。それがたまらなく嬉しくて、でもやっぱり、もう米咲の作った新しい音楽を聴くことがもう二度とできないのが、少し寂しかった。

 そして、その寂しさが時の流れによって失せていくのが「心細」いと思った私は、再びこうして言葉を書き連ねている。


 私も、赤い公園が好きだ。彼女たちの音楽は日々の糧だ。創作をしている者の端くれとして、いつか米咲のように、一文の隅々まで「長尾たぐい」が染み出していて、でも多くの人に受け入れられるものを——誰かの側に置いてもらえるようなものを作り出したいと、いつも、いつも考えている。


   *


   「しあわせは/必ず黄色で出来てる/そこかしこ見渡せば/いつだってすぐそばに」


〈了〉

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