エピローグ「それからの”三人”」

 緑針樹の森。

 少年は、迷子になっていた。父の言いつけを破って、集落の外へ遊びに出てしまったからである。

 澄み渡る空気を胸一杯に吸い込んで。耳を澄ませば、時折小鳥や羽虫の鳴き声が静かに聞こえてくる。

 たった一人ではあるけれど、思っていたよりも彼は孤独を感じることはなかった。森はどこも生命の鼓動に満ちている。

 ただ、少年の気分は少々弱っているようだ。膝はあちこちを擦り剥いて、足には小さな緑色の棘がいくつも痛々しく刺さっている。この森に最も多く群生する緑針樹の種をうっかり踏みつけてしまったのである。

 やがて歩き疲れた少年は、手頃にあった苔のむしている小岩を見つけて、そこに腰を下ろした。


 数十分ほど休んだだろうか。ぼちぼち重い腰を上げていこうとしたところで。

 少年は、ぎょっとして身をこわばらせた。

 向こうから、赤、青、黄の入り混じった鮮やかな三色まだら模様の毛皮を持つ四本足の巨大な猛獣が、ゆったりとした足取りで近付いてくるのが見えたのだ。

 犬のような愛嬌のある耳と、それに似合わぬ虎のように鋭い目と牙を持ち。その四肢はサイのように頑丈で。虹色の尾には羽毛が付いてぴんと立っている。

 お父さんが言っていた。名前とかはないけど、絶対に出会っちゃいけないやつ。

 少年は、死を予感した。

 運悪くも、ここは“彼”の縄張りだったのである。


「えっと。こ、こんにちは……」


 グルルルルル、と唸り声を上げている。かなり血走った目を見るに、お腹を空かせているらしい。

 柔らかい人間の子供という極上の獲物を見つけた猛獣は、ご機嫌になって舌舐めずりした。


「見逃して、ね?」


 ガル、と一言だけ猛獣が頷いて、会話が成立したような気がした。


「うわああああああーーーーっ!」


 少年は叫び声を上げ、一目散に駆け出した。小柄な体を活かして、木々の間を縫うように駆けて行く。

 決して逃がさじと、四本足の巨躯が草枝を力強く踏み分けて悠然と追っていく。

 いくら小回りが効こうとも、追いつかれるのは時間の問題だった。


 少年は振り向いて、その辺の石を拾っては必死にぶつけていく。少しでも怯めばと思ったが、そんなもので森の強者が足を止めることはあり得ない。

 猛獣の牙が迫る。

 もうダメだ! 少年はとうとう死を覚悟して、目を瞑った。


「耳を塞げ!」


 そのとき、父の叫ぶ声が少年には聞こえた。咄嗟に言われた通りにすると、パァン! と轟音が炸裂した。鼓膜の破れてしまいそうなほどの音に驚いて、獣の足がびくりと止まる。

 そこに、遠方より弓矢が飛来する。研ぎ澄まされた狙いによって、獣の肩に深々と突き刺さった。

 致命傷となるほどの傷ではないが、突然のことに混乱した獣は、このまま獲物を狙い続けるのは割に合わないと判断したのだろう。尻尾を巻いてすごすごと逃げ出してしまった。


 九死に一生を得た少年に、「大丈夫か?」と父の声がかかる。

 ほっとした少年は、わーんと泣き出してしまった。泣きながら父に縋りつく。


「おとうさーん!」


 父は、泣きつく少年を逞しい身体で受け止める。あやしながら、優しく問い詰めるように言った。


「ダメだよ。ユウ。勝手に一人でこんなところまで来ちゃ。言ったよね?」

「うん……ごめんなさい」


 そこに、母が軽やかな身のこなしで、猛獣のように飛び込んできた。そのままの勢いで少年の前までやってくると、立ち止まって、


「めっ!」


 びしっとチョップを入れた。いたた、と呻く少年を、母は力強く抱き締める。


「もう。死ぬところだった。生きてて、ほんとによかった……」

「うう。ごめんなさい……」


 少年は、母の愛と温かみを感じていた。

 落ち着いた三人は、仲良く手を繋いで歩き出す。行く先には、いつも家族が暮らす小さな集落がある。

 帰り道の途中。少年は何となく気になって、聞いてみた。


「あのさ。どうしてユウは、ユウなの?」


 少年、ユウが首を傾げる。父譲りの黒髪を持つ彼は、母譲りの愛くるしい目を興味に輝かせていた。


「どうしてって。それはねー」


 母が、舌足らずな口調で父に微笑みを向ける。この頃はもう、少年の方が言葉が上手いくらいだった。


「ユウ。俺たちが一番お世話になった人の名前だよ」

「大好きな人なの。いっぱいいっぱい、教えてくれた」

「そうなの?」

「そうさ。とても強くて、優しい人だった」


 両親は見つめ合って、頷いた。


「ユウがまた来たらさ。この子を見せてあげたいね」

「ふふ。きっと、びっくりする!」


 温かく笑い合う両親をきょとんと眺めて、ユウはわかったようなわからないような。

 変なのと思っていた。

 だってここには最初から、お父さんとお母さんと、自分しかいないのに。


 そのとき、巨大な影が足元を横切っていった。空が一瞬暗くなるほどの、大きな大きな影。父が空を見上げて、どこか懐かしそうに言った。


「やあ。今日も見守ってくれてるみたいだ」


 自由な大空を、黄金のドラゴンが舞う。


 その後、三人は命の尽きるその時まで、幸せに暮らしたという。


 これは、名も無き世界に生きた最後の人類の物語――

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フェバル~TS能力者ユウの異世界放浪記~ 外伝 レスト @rest

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