ジュヌ・デ・メー

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ジュヌ・デ・メー



 この女はシャルのお母様にはぜんぜんふさわしくない。

 まず、なんといっても高貴さが足りない。

 光の加減によっては黒く見えるほどの濃い赤毛に、薄く伸ばしたカラメル色の瞳。

 対してシャルは上質な絹糸のようになめらかな金髪に、エメラルドもかくやという──これはアレクシ叔父様の受け売りで、シャル自身はエメラルドを見たことはないけれど──くらい綺麗な碧い瞳をしている。

 いまの王さま、ルイ何世だったかは忘れてしまったけれど、あの御方だってシャルとおんなじ金髪碧眼らしい。

 つまりこの女にはシャルにはある高貴さがないのだ。

 次に、聡明さが足りない。教養と言いかえてもいい。

 シャルがお父様に買ってもらった、大人の淑女の悩みについて訥々と語ったとある物語──まさにシャルにぴったりな!──の読み聞かせをさせてみる。

「『ルイーズには良き夫がいる。ボルドー高等法院パルルマンの法服貴族であるフランソワは、身分だけでなくその性格も実直で誠実な素晴らしい夫に間違いない。だが、庭師の青年、マルク……、彼への抑えきれない確かな気持ちをルイーズは自覚していた。だからこそ、彼女は引き裂かれんばかりに……』、引き裂かれんばかりに……、なんと読むのかしら? おく、のう? こんな単語は初めて見たわ。ねぇ、シャルロット、貴女はこれ読めるかしら? お母さんは『おくのう』だと思うのだけれど」

 ……それはシャルにもわからないけれど、たぶん大人なら知っていてとうぜんのコトバなんだと思うから、とにかくシャルのお母様だったらもっと頭が良くないといけないのだ。

 不満点はまだまだある。

 この女はかなり痩せているから、ベンチに腰掛けた女の腿をこうして肱置きに使ってもぜんぜん心地よくない。

 お母様は……、この女が来るまでお屋敷にいた本当のお母様は、肉付きが良くて──もっとも本人にそんなことを言うとカンカンになって怒られたけれど──柔らかく温かい腿でシャルを安心させてくれた。

 日向ぼっこしながらお母様の腿を枕にお昼寝するのが大好きだった。それがこの女の腿ときたら! 灌木のように骨ばって硬いのだ。

 これでは全く落ちつけない。

 鬱憤を晴らすように肱でぐりぐりと突いてみるけれど、痛がっている様子はない。 

 本当に灌木でできているのだろうか? 

 とにかくお母様たる者の腿はもっと柔らかくなければいけないのだ。

 この女が来て少ししてからできたシャルのかわいいかわいい弟、ニコラをお世話するときの手つきもすごく危なっかしい。

 もっと丁寧に扱うべきだと思うのだけれど、この女はガサツな性格なのか、ニコラをあやすときには激しく揺さぶるし、お乳をあげるときには息が詰まっちゃうんじゃないかってくらいぎゅっと胸を押し当てる。

 使用人も乳母もお屋敷にはたくさんいるんだから任せればいいものを、「私は母だから」と頑として譲らない。

 そのおかげで侍女のジュリは育児について、いつも口酸っぱく指導している。

 あと、思いつく嫌なところは……、うーん。

 とくにないかもしれないけれど、これまで挙げた点で十分だと思う。

 この女はシャルのお母様にはぜんぜんふさわしくない。

 だからシャルは、この分不相応の女があきらめてしっぽを巻いて逃げ出してしまうまで、執念深く嫌がらせをすることにした。

 あ、でもかわいいかわいいニコラはずっとこのお屋敷にいてくれて構わない。

 この女がベソを掻いて出ていったらシャルがニコラのお母様になってあげる。

 嫌がらせの内容は以下の通り。

 肱をぐりぐりして、常にむすっとした顔を見せて、食事に出てくるお野菜を押し付けて、ちょっと難しい内容の本を読ませて頭を痛くさせて、……ちょっと過激すぎる気はするけれど、女の机の引き出しにミミズを忍ばせたことも何回かある。

 ああ、シャルったらなんて非道な悪女なんでしょう!

 その悪女っぷりと言ったら、カトリーヌ・ド・メ……、メイエール? メルシエ? 姓はちょっと思い出せないけれど、かのカトリーヌ何某にも勝るとも劣らない。

 それがこの女ときたら! 

 ほとんどシャルの嫌がらせが通じていないようにあっけらかんとしている。

 そろそろ挫折してもいい頃合いだと思うのだけれど、一生懸命に取り繕って耐えているのだろうか?

 ……それはそれで愉快ではある。

 まさか、いくらこの女がガサツで大雑把といえど、このシャルの工夫を凝らした執拗な嫌がらせの数々に気づいていないなんてことはあるまいし。

「『いけません、ルイーズ様。わたくしめはただの卑しい庭師にございます。貴女様のその胸に渦巻く感情は、一時の気の迷いなのです。どうか、お忘れください』。なによ、貴方にそんなことを言われる筋合いはないでしょう。ルイーズの恋をそんな風に言わないで!」

 気づけば女はシャルのことなんか忘れてしまったみたいに、物語に熱中している。

 シャルは腿に頭をのせながら、女の顔を仰ぎ見る。

 よくコロコロと表情が変わる人だな、というのが最初に出会ったときから変わらない印象だった。

「『そうね。たしかにマルクの言う通り、これは封を開けたワインのように一瞬で過ぎ去ってしまう気持ちなのかもしれないわね』ルイーズってば、かなりの酒豪なのかしら。『それでも、それでも貴方が好きなの、狂ってしまいそうなくらい!』よく言ったわ、ルイーズ!」

 乙女のような歓声をあげる女はやかましいことこの上なかったけれど、なぜだか、お母様とは種類の違う安心感があって……


 まぶたが、どんどん重くなってくる……

 まぁ、硬い枕も、たまには、悪くない……、かもしれない…………

 

 

   ◇



 十一月上旬のテラスは少し肌寒いけれど、腿に感じるシャルロットのぬくもりのおかげであまり気にならなかった。

「エマ様」

 いつの間にか読書に夢中になってしまっていたら、ジュリさんに背後から控えめな声で呼ばれた。

 振り返って彼女の顔を見ると、なぜだか少しあきれたような表情だ。

「え、えっと。私、またなにか粗相を?」 

 実家はまったく凡庸な家だから、正直上流階級の所作などわからないことだらけで、この家に嫁いでから叱られてばかりいる。

 想像以上につらい……が、まま子のシャルロットと、実の息子のニコルの天使もかくやという可愛さに救われていた。

「そうではなくて、お膝元をご覧ください」

 膝? と目線を下に向けると、まぁ可愛い! 

 シャルロットがあどけない寝顔を見せていた。

「あら。あらあら。私ったら、すっかりこの子をほったらかしにしてしまったわ」

 起こさないように、そっと頭をなでる。

 やわらかく艶やかな金色の髪が指の間を流れていった。

 普段はなにやらムッとした表情しか見せてくれないけれど、それはそれでいじらしいと私は思っている。

 苦手な野菜をそっと私のお皿に載せて、あくまで知らん顔をするのも愛くるしい。

「ねぇジュリさん。風邪をひいてはいけないから、毛布を一枚よこしてくれる?」

「ええ、ただいま」

 私にはもったいないくらい優秀な侍女は、すぐさま寝室から厚めの羊毛毛布を持ってきて、シャルロットのお腹あたりに優しくかけてくれた。

 我が子の穏やかな寝顔を見守っていると、遠く、街の中心部からなにやら群衆がひしめく喧騒が聞こえてくる。

『……我々にパンを! 日々の食料を、パンを、我々に…………』

 同じく彼らの叫びを耳にしたらしいジュリさんは、憂えるようにほんの小さく嘆息した。

「最近は買いものへ街に出るたびに『パンを! パンを!』で少し気が滅入ります」

「なんでも、今年の小麦は大変な凶作だったらしいわね?」

 詳しいことは知らないけれど、天候が悪くて上手く実がならなかったとか。

「ええ、まぁ。小麦の備蓄はまだあるようですから、しばらくは大丈夫でしょうけれど……」

 ジュリさんはこの先どうなるかはっきりわからない、という不安を口に出すことを避けたようだった。

 そう遠くない未来に薄っすらと漂う不穏な気配に、思わずシャルロットの毛布を首元までたくし上げた。

 この子の辿る運命が少しでも良くなるように祈って。

「おかあ、さま……」

 くすぐったかったのか、身をよじった拍子にそんなか細い寝言が漏れ聞こえる。

 きっと、この「お母様」は私のことではなくて、今は亡き前妻、彼女の実母のことなんだろう。

 どうやら私はまだまだシャルロットの「お母様」として認められていないようだから。

「おかあさま。おいて、いかないで……」

 それでも「お母様」をあきらめる気はまったくない。

 まだ幼いこの子には母親が必要だろうし、せっかくできた縁なのだから大切にしたかった。

 あくびでもしたのか、それとも嫌な夢でも見ているのか、シャルロットの目尻に溜まった水滴をそっとぬぐった。

 


 Fais dodo, ma fille bine-aimee. Fais dodo, ma fille bine-aimee……


 

 そうして私は、せめてシャルロットが目を覚ますまで安らかでいられますように、という願いを込めて謡い続けた。


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ジュヌ・デ・メー rei @sentatyo-

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