第2話 一巡目 芋虫

 一巡目 芋虫

  

  それに気づいたのは、庭のレモンの木のことを思い出したからだ。

 真弥ちゃんが植えたレモンの木。それはまだ苗木の範囲を抜け出しておらず、なかなか実をつけなかったが、真弥ちゃんはいつかレモンをもぐのを楽しみにしていた。

 肥料をやり、水をやり、周りの草を抜き、もう少し大きくなったら地植えにするのだと言っていた。少し大きくなり、植木鉢に根が詰まってきたら根切りをし、新しい土を足した。葉を擦るだけでも、さわやかなレモンの香りがする。

 しかし、初夏を過ぎれば、そのかぐわしい芳香につられるように、アゲハチョウが小さなたまごを産みつける。たまごから生まれた芋虫は、最初はほとんど目に見えないほどの黒い埃クズのような大きさだが、あっという間に体を大きくし、緑色のやわらかな姿を葉の隙間に隠すようになる。

 一匹や二匹なら、少しぎょっとするくらいで済むが、数を増やすとたちまちレモンの葉をかじりつくして、木を枯らしてしまう。だから真弥ちゃんは、芋虫たちを箸でつまみ、無慈悲にも水と洗剤を入れた容器の中に放り込んでいくのだ。

 その日の俺は、真弥ちゃんの大切な木を守ろうと、レモンの木を覗き込んだ。

 緑色の葉の上に一匹のアゲハチョウの幼虫がいた。目玉のような黒い模様が、俺を見ているようであった。芋虫は、丸々としたその体を俺の前に晒し、なにごとか言いたげに頭を持ち上げた。俺はしばし、その芋虫と見つめ合い、そののち問いかけた。

「……真弥ちゃん?」

 刈賀や神鳥がいれば、とうとう気が狂ったと嘆いただろうし、貞沼がいれば、そっと肩に手を置いて、俺を家の中に連れていっただろう。しかしその日はそうはならなかった。

 芋虫は、頭を上下させ、俺が差し出した指に、その小さな足を俺の指先に乗せた。

 その控えめな、やわらかな感触は、俺にこの芋虫が真弥ちゃんであると確信させるには充分であった。

「真弥ちゃん、なんで畜生道に……?」

 人類は、ただ生きるだけでも罪の中にあるとしても、少なくとも真弥ちゃんは畜生道に堕ちるべき人間ではないと俺は知っている。むしろ、人類すべてが罰される時が来ようとも、彼女一人だけは原罪やあらゆる災厄から逃れ、そして神に愛され、安寧だけが彼女とともにいるべきであるとも思っている。

 

 ——そんな真弥ちゃんがなぜ。

 

 彼女はキリスト教徒であったから、もしかしたらこの世の神は仏教だけを真実としていて、キリスト教徒を迫害しているのであろうか。しかし、仏教は一神教ではないのだから、それもまたおかしな推測である。

 言いたいことも聞きたいこともたくさんあったが、真弥ちゃんとの会話はとてつもなく困難であった。俺はコピー用紙にあいうえおを書いて、こっくりさんのように、真弥ちゃんがその上を通って言葉を差し示せないか試してみた。

 けれど、真弥ちゃんは小さく、またとても疲れやすかった。

 はいといいえで答えられるものならともかく、あいうえお表は真弥ちゃんには広く大きすぎた。だが俺は、その小さな芋虫が俺の意思を汲み取り、どうにかして愛情を示そうとしているのを知ることができた。

 真弥ちゃんは、俺の「真弥ちゃんですか?」という質問に、はいを選んでくれたのだ。それも、三回もだ。

「真弥ちゃん……。よかった……よかった……」

 畜生道に堕ちているので、手放しでよかったとは言えない状況である。それでも俺は、自分の前に真弥ちゃんが戻ってきてくれたことが嬉しかった。

 真弥ちゃんは、レモンの木に住むことにしたようだ。俺は真弥ちゃん以外の芋虫がレモンの木に居付かないように心を配った。

 そのおかげで、真弥ちゃんはおなかをすかせることなく、機嫌よさそうに葉の上で風にあたっていた。

 アゲハチョウの一生を調べると、もう間も無く真弥ちゃんは、糸をかけて蛹になる時期であった。俺は真弥ちゃんに、危険な屋外ではなく、室内で蛹になるように提案した。

「ね、真弥ちゃん。家の中に行こうよ。糸掛けをするなら、家の中に場所を作ろう」

 俺がそう言って、真弥ちゃんの胴体をつまむと、真弥ちゃんは、オレンジ色の角を出してくさいにおいを発した。

 つまみあげられるのは、よほど嫌らしい。真弥ちゃんの攻撃はいじらしい。

 しかし俺は、真弥ちゃんが鳥についばまれたり、風で飛ばされた姿など見たくない。植木鉢ごと家の中に入れることにした。

 朝は寝室でレモンの木とそこにいる真弥ちゃんと共に目覚めるのだ。

 真弥ちゃんはどこか嬉しそうに、緑色のやわらかな体をむにむにと動かして、葉っぱから葉っぱへと移動したり、俺の指先に乗って降りたりしてくれた。

 朝は、真弥ちゃんと一緒に朝食をとる。真弥ちゃんを居間に置き、洗濯や掃除を済ませる。そしてまた、昼食をとり、真弥ちゃんとテレビを見たり留守番をしてもらう日々。それはまさに営みであった。

 縁側に座り、太陽のあたたかさを感じながら、真弥ちゃんと話す。真弥ちゃんが言葉を発することはなくとも、おいしそうにレモンの葉をかじる姿を見るだけで俺は充分だった。

 夜がくれば、寝室で真弥ちゃんにおやすみを言って、あかりを消す。

 そんな満ち足りた生活を数日過ごす。それから間もなくして、真弥ちゃんはレモンの木のひと枝に糸をかけ、動かなくなった。

「はじめての糸掛けなのに、真弥ちゃんは上手だね」

 俺は真弥ちゃんに話しかけた。前蛹はなにも返さず、じっと俺の声を聞いていた。

 それから少しして、前蛹を脱ぎ捨てた真弥ちゃんは緑色の蛹になった。

 きっと中でどろどろになり、新しいすがたになろうとしているのだ。液体の真弥ちゃんのことを考えると、俺は不思議な気持ちになった。

 蛹の内部で蝶の姿を形作るのは、どういう理屈なのだろう。誰がそれをデザインし、こうあれかしと描かせているのだろうか。

 このかたちになれという遺伝子、そのはじまりを思いながら、真弥ちゃんを待った。

 朝日に透ける緑色の蛹の中で、芋虫の真弥ちゃんが姿を変えていく。恐らくナミアゲハになるのであろうが、ちいさな人のかたちになって、真弥ちゃんが顔を出してくれる期待を捨てることなどできなかった。

 もし本当に、小さな真弥ちゃんが、固い蛹の殻を破って出てきたらどうしようと、俺は気を揉んだ。小さな指先が、蛹の殻を掻き、ぱりぱりと微かな音を立てて破り開かれ、中からそっくりそのまま、真弥ちゃんを小さくした姿が現れるのだ。

 小さな真弥ちゃんは、きっと寒がるだろうから、なにを着せたらいいだろうか。食事も、なにを用意したらいいだろうか。

 妖精のように小さな真弥ちゃんが、なめらかな肌をさらして俺に呼びかける様を想像し、俺は慈しみに似た感情の震えと同時に、情慾を覚えていた。真弥ちゃんの肌に触れられなくなって、どのくらい経っているのか、そんなこと、俺は考えたくもなかった。

 叶うことなら、小さな真弥ちゃんの手を俺の指先に置いてもらいたい。

 俺は身を屈めて、彼女を見つめるのだ。手のひらに乗る彼女は、さぞかわいらしくて、俺はきっと、半身をもがれた痛みが治癒していくのを感じるだろう。

 真弥ちゃんはいつも、俺を迎え入れてくれていた。きっと、俺のさみしさを吸い取ってくれるだろう。それがひとのかたちであれ、アゲハチョウのかたちであれ、俺には構わなかった。真弥ちゃんといられればそれでよい。

 レモンの葉の間から、わずかに真弥ちゃんが動いているのが見える。間も無く新しい姿と出会うことができるのだ。

 光を当てれば、その中身が真弥ちゃんのかたちをしているのか、アゲハチョウのかたちをしているのかわかるだろう。俺はライトを向け、しかし蛹を透かして見るのをやめた。

 真弥ちゃんが眠っていたら、光に驚いて目を覚ましてしまうかもしれない。彼女にはゆっくりと眠り、体を強くして欲しかった。

 明日出てくるだろうか、まだだろうかと、俺は胸を高鳴らせながら毎晩床についた。朝日に照らされながら、真弥ちゃんが生まれ、俺に手を振る日を心待ちにしていた。

 しかし、その日はこなかった。

 アゲハチョウの真弥ちゃんは、固い殻を割り、頭を出したところで死んでいた。

 上を向き、どうにか這い出そうとするその姿のままだった。

 その姿のまま、彼女は死に、干からびてしまっていた。

「真弥ちゃん……」

 俺は、かさかさになった真弥ちゃんと蛹の殻をてのひらに乗せた。指でつまみあげるだけで、くずれてしまう乾いた蛹を口に入れる。

 口内の水分が吸われて、嫌な食感がした。吐き戻しそうになる。俺は慌てて水道の蛇口をひねり、口の中のものを飲み下した。

 ほのかにレモンの香りが口に残った。

 胃袋の中に、冷たい水の感触があり、それがじわじわと薄れていく。真弥ちゃんの死の冷たさが、俺の中に溶けてなくなっていく。

 俺は、顔を両手で覆って、しくしくと泣いた。それは再び真弥ちゃんを亡くした喪失感であったし、俺のために蝶になろうとしてくれた真弥ちゃんへの感謝の気持ちでもあった。

 けれど。

 けれど、またきっと真弥ちゃんは俺の元に戻ってきてくれる。その確信を得た喜びでもあった。

 彼女のいのちが巡り巡るうちに、いずれきっと、真弥ちゃんが俺の前に帰ってきてくれる。

 俺は真弥ちゃんが住んでいたレモンの木の鉢を、また外に戻した。次に真弥ちゃんがまた虫になった時は、きっとこれを目印にして来てくれるだろう。

 空を見る。よく晴れていた。

 秋の気配を感じさせる、絹糸を張ったような細い白雲を見上げ、俺は泣き止んでいた。

 真弥ちゃんを待とう。必ず帰ってきてくれる真弥ちゃんを。

 俺の様子を見に来た貞沼は、俺がまた仕事に復帰をすることを喜んでくれた。

 刈賀は、少し考えて、「佐伯さんがいいなら」と、彼なりの優しさを用意してくれた。神鳥は、なにごとか言おうとして、口をつぐみ、ただ一言「そう」とだけ返し、たばこを口に咥えた。

 俺は今日も、立番をしながら真弥ちゃんを探している。

 ひとしずくの雨が、空を渡る雁の一羽が、真弥ちゃんのかけらなのではないかと、俺は煌めく世界を見ている。

 

 

 

 了

 

 2024/10/08

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死んだ真弥ちゃんが畜生道に落ちても、何度でもめぐり会い、幸せになる俺 宮詮且(みやあきかつ) @gidtid

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