おはようが言えなかった朝

音愛トオル

おはようが言えなかった朝

 いつもの放課後、文芸部の部室に2人。

 大好きな時間、紅茶の香りにくるくると巻き付いたバタークッキーのにおい。紙をめくる音と時計の音と微かな息遣い。

 甘い静けさでも、2人で過ごせば特別なものになる。

 暖房の効いた温かい部屋を出ていきたくない――それを言い訳に、たぶん、もっと一緒に居たかったのだろう、とどこか俯瞰して思う。普段とは違う感覚に首をかしげると、対面の後輩と目が合った。

 世話焼きの後輩は妹というよりも姉のように振る舞うが、意外と子どもっぽい一面も多くて、そこが可愛いのだ。


「目、合いましたね。まい先輩」

そら。ふふ、そうだね。よく目が合うよね、本読んでる時」

「舞先輩はクッキー食べたいだけでしょ~」

「えへへ、バレたバレた」


 そこから数十分の記憶はなく、穏やかで楽しい時間だった、というイメージだけがふわふわと漂っているようだった。自分が経験しているはずの今、ここの瞬間が、どうにも覚束ない、舞台でも見ているようだ。

 そう思ってみれば以外とこの世界の輪郭は曖昧で、自分と空と部室――正確には腰かけている椅子とこの長机――くらいしか実像を結んでおらず、他は全てにもやがかかっている。


――その理由に気が付くよりも先に、舞は面食らった。


「先輩、私、先輩が好きです。恋人に、なって欲しい――です」


 後輩に告白されて、その瞬間高鳴った胸と身体を支配した「嬉しい」という感情のあまりの熱さに、舞は……。


「……っ!?」


 布団をはねのけ、汗だくになって着崩れた寝間着をまじまじと見つめる。


「ゆ、夢――?」


 この日、舞は後輩である空からの愛の告白、という夢によって目覚めたのであった。



※※※



 自他ともに認める寒がりの舞は、この冬初めてマフラーも手袋もスクールバッグに入れたまま登校した。


「空……ど、どんな顔して会えばいいの……っ」


 理由は明白で、つまり後輩から告白された夢を見たから――

 舞が、自分でも気が付いていなかった気持ちに、図らずも夢で、しかもその相手から知らされたのだ。、つまり、


「私、空のこと、好きだったんだ」


 さて、己が恋心に気が付いた舞は寒いとか防寒具とかそれどころではなく、顔が熱くてしょうがない。脳裏を駆け巡っている全ての空が愛おしくてしかたがないし、今までの空との思い出を振りかえってさらに気持ちが沸き立つのを感じていた。

 高校に入学して最も学校に向かう道のりが幸せであるのと同時に、最も悩んでいた。今、空に会って気持ちを抑えることができるだろうか?


 「しかもこんなに早く来ちゃったし……」


 告白されて――否、夢から覚めて起きた時はまだ5時だったが、眠れるわけがなかった。持て余した時間でいつもよりも1時間早く支度を終えたが、空のことばかり考えていたからだろうか、靴下の左右も違えば半分はまだ寝間着だったし、寝ぐせも整っていなかった。

 それでも30分ほど早いのだけれど。


 空、空、空とつぶやいているうちにあっという間に学校についてしまった。普段はあまり聞かない朝練中の運動部の掛け声が、冬の乾いたに――


「……えへへ」


 乾いた、校庭に響いているのが、少し面白い。

 結構朝練でも声を出すのだな、と上履きに履き替え、いざ自分の教室に向かったつもりの舞は、たどり着いた教室が「1年3組」であることに気が付いた。おかしい、いつのまに自分はタイムスリップでもしてしまったか。

 単純なことのはずが、舞はまったくその可能性に思い至らなかった。


「あれ?舞先輩。おはようございます。あたしに何か用ですか?」

「そそそ、空!?」


 好きな人のことを考えていて、教室まで来てしまうなんて。


「え、空っていつもこんなに早いの!?」

「まあ、予習とかしてますし。というか先輩?もしかして迷っちゃいました?」

「ままま、まあそんなところっ」


 舞の自己評価――良かった、いつも通り話せてる、隠せてる。

 だが無情にも、空から見た舞は明らかにいつもと異なる様子だった。主に、頬の赤さが。


「先輩?もしかして熱あります?顔、真っ赤ですよ」

「え、ええ!?う、嘘だよっ」

「しかもあの先輩がマフラーも手袋もなし!?ちょっと、何してるんですか、行きますよ、保健室」


 刹那、顔の前で右往左往する舞の手を迷うことなくつかみ取った空はすたすたと保健室へ向かった。だが、舞の胸中は単語一つが滝のように溢れていた。


(手!て、てててっ……!?いい、いつも私どうやって握ってた!?指絡めてた!?)


 無論指は絡めていなかったが、空は普段から、ぼうっとしていることが多い舞の手を握って食堂やら部室やらに連れて行ってくれている。その時と同じようにすればいい、と言い聞かせたが、滲む手汗がそれを許してくれなかった。

 空と手を繋ぐ、何度もしていることなのに、息の仕方も歩き方さえ忘れて、焦点が合わない。空以外が、見えない。


「そ、空……」


 だから舞は、手を離した。


「ちょっと先輩?どうしたんですか?保健室行きたくないんですか?」

「――手、繋ぎたくない」

「……ぇ」


 しまった、と思った時には遅く、舞はあまりにも前後を省いた発言をしてしまっていた。このまま空と手を繋いでいると嬉しすぎてどうにかなってしまいそうだったから、今は、と。

 素直に言えるはずもなく、舞は隠すことに決めた。


「ち、違くて!ええと、だからその……っ。て、手汗!そう、手汗かいてて」

「……?気にしないですよ」

「ええ!?」

「――はぁ。でも分かりました。かなり元気そうですね。でも変は変です。だから……部室、行きましょうか」

「あっ、う、うん」


 いつもなら空が手を引いてくれるその道行。

 自分で蒔いた種とはいえ、空は舞の手を一瞥してから、繋がずにそのまま歩いて行ってしまった。それが寂しくて、痛くて、冷たくて。

 ほんの何秒か前まで繋ぐのをやめようとしていたはずのその手を、舞は、一歩大きく踏み出して、逃がすものかと捕まえた。無意識のうちに指を絡めてしまったが、今更ほどけないし舞は気が付いていなかった。


「――!ま、舞先輩?つ、繋ぎたくないんじゃなかったんですか?」

「だ、だって……さ、寂しくて。いつも、繋いでくれてるし」

「はぁ、そうですか……ほんと」


 溜息も、あきれた様子も、こめかみを抑える指も。

 仕草の全ては、面倒だと言っていたが、その横顔が最高に可愛かったから、


「先輩ってめんどくさいですよね」


 その言葉が、舞は世界が回るほど嬉しかった。



※※※



 人の記憶とは不思議なもので、紅茶もクッキーもない部室に入ると、鼻の奥でいつもの香りが蘇ってきた。においと記憶は深く結びついているのだな、と舞は思ったつもりでいた。

 実際には今の舞の意識の9割は、「空」が占めていた。


「ほら、座ってください。手、離しますよ」

「あ、う、うん」


 声色に名残惜しさが溢れてしまったが、言い訳するよりも先に空がいつもの席に座ってしまった。舞は慌てて椅子を持ってきて、


「……それで、なんで隣に座るんですか?」

「あ、あれ!?ほんとだ……」


 「対面」がいつもの席なのに、何故かとなりに腰かけてしまった。肩と肩が触れ合う距離は、冬の冷気で満たされた部室の中で多分、2番目に温度が高い。

 1番の座をほしいままにする舞はというと、数分前の方針、空への想いは隠そうというそれを忘れてしまったかのようだった。


「さ、寒い、ね」

「そう、ですね」


 心臓の音がうるさくて、自分の声も少し聞こえづらい。それでも空の声ははっきり響いてくれて、それが嬉しい。

 10秒、1分、と無言の時間が続き、舞は自分がなんのためにここに居るのか分からなくなっていた。思い出したくて、きょろきょろと首を動かしていると、目が。

 目が、合った。


『目、合いましたね。舞先輩』

『先輩、私、先輩が好きです』


「……ぁ」


 この場所は、今朝の夢で空に告白された場所だ。

 舞の視界で、夢の空と現実の空が重なる。目の前にいる空が、夢での言葉を言っているように思えてきた。

 思い出すと、嬉しくて幸せで、頭が真っ白になる。


「ふふ、先輩。なんか今日、ほんとにどうしたんですか。見てて飽きないですね――目、合いましたね、舞先輩」


 夢とは少し違うけれど、ああ、やっぱり空が好きだなぁ。


「――え、えっ、えっと……先輩?」

「……ど、どうしたの?空」

「い、いや、あの。

「え?」

「え?」


 さっと血の気が引いた舞は朝から感じていた熱が嘘のように、寒さに指先が震えた。胸中の言葉が、口からこぼれてしまっていたのだ。

 それはいい、だが、その後だ。空は困惑していた。

 舞は冷静さを取り戻した頭で自分を客観視し、ああ、とんでもないことをしてしまったのではないか、と後悔が押し寄せてくるのが分かった。さっ、と身を引き、椅子を掴んで、一瞬でも早く空から離れ――ようとして、その手を掴まれた。


「先輩」

「……!そ、空」


 そこで、舞は自らの誤りに気が付いた。

 空の問いかけは困惑であっても、否定的な色をしていない。


 その、舞よりも赤く火照った、頬。


「もう、一回聞きますね、舞先輩。どういう、好き――ですか」

「あっ、え、と……そら……」


 ど、ど、ど、ど。

 鼓動の駆け足に、呼吸が追いつかない。言葉が出てこない。


――好き。恋人。


 空しか、見えない。


「わた、私。空のこと。好き、で――恋人、に。なって欲しい」


 言った、言った、言ってしまった。

 言葉は空気に溶け、部室を好きで満たしていく。

 少し甘い香りがする、舞の告白だった。


「先輩」


 自分の声すら遠のいている舞は、空の掠れる声に掴まれた手を握り返して返事をした。与えたぶんだけ、優しく返ってくる温度。

 指先の交差しない距離感と、肩が触れる近さと。


「目、つぶっててください」

「は、はぇ」


 閉ざされた視界の奥から迫る気配が、唇に熱を与える。


「……これが私の答えです」

「……わかんない」

「は、はい?」

「ちゃんと言って」

「あ、あの」

「聞きたいの、空の声」


 いつしか絡まっていた指先に力がこもる。口を開き、その言葉を言おうと試みた空だったが、出てこなかった。

 もう一度お願いしようかと空を見つめた舞は、自分の首に回された腕と耳に触れる顔とが、何か理解ができなかった。


「顔を見て言うの恥ずかしいので、こうさせてください」

「……うん」


 ああ、今、空とハグしているな。

 それが舞の世界の全てになった。


「――大好きです、先輩、ずっと前から。私、恋人になり、たいです」


 夢、かな。

 いや、これは現実だ。だって、


「ねえ空。どきどきしてる。聞こえる?」

「はい。私も先輩も――同じですね」

「えへへ。そうだね。同じ、大好きだね」


 繋がった温かさ恋人のこの熱が、全力で現実だと叫んでいるから。


「もう少し、ぎゅっとしてていい?」

「私も、言おうと思っていました」


 後輩が、恋人になったこの日。

 舞は、そういえばおはようを言い忘れたな、と空の鼓動を聞きながら独り言ちる。


「そんなの、これから毎日言えばいいんです」

「好きって?」

「……幸せすぎてやばいので、数日おきにしてください」

「えへっ、じゃあ今いっぱい言うね」


 おはようが言えなかった朝、舞は想い人への告白を予鈴が鳴るまで伝え続けた。

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おはようが言えなかった朝 音愛トオル @ayf0114

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