後編
瞼が熱く、痛い。なぜ。
寝返りを打ってみてわかった。障子から差した日が私の瞼を焼いている。正真正銘の昼。
菖蒲の襖を開ける。誰もいない。眩しい陽の光が畳を照らしているだけ。
「鈴子」
私が眠ってしまうまで、側にいたというのに。どこに消えたのだろう。しんとした廊下に私の間抜けな声だけが虚しく響いた。
こんな時間に起きたのは、いつぶりだろうか。一年以上も前のような気がする。
「はらいたまえきよめたまえ」
庭から声が聞こえてきた。
「鈴子、そこにいるのか」
否、そこには鈴子はいなかった。
代わりに、ゴマ塩の蓬髪を背中まで垂らした作務衣姿の初老の男が庭に立っていた。いるわけがないのだ。鈴子がこんな時間に。
「とほかみえめため」
男は私を見るでもなく、左の手に持った巾着袋に右の手をつっこみ、辺りに振り放った。ぱらり、と散らばったのは米だ。
「かんごんしんそんりこんだけん」
「何をしているんです」
大きな声を出したつもりだったが、かき消えそうなぐらいか細いものしか出なかった。 皺が刻まれた鋭い目が、ようやく私を見る。
「地を清めている」
ここは真っ黒く穢れておるから。男が淡々と言い放ったとき、身体中がかあっと熱くなった。
「ここは私の家です。貴方に勝手にそんなことをされるいわれはない」
「一度ついた穢れはこびりついてなかなか落ちない」
また、男は米を撒いた。ゴマ塩の蓬髪に殺意のようなものを覚えた。
「出て行ってくれ」
「しにんだな」
男が薄く笑う。口元の皺が歪む。
「お前さんは半分しにんで、半分生者だ」
男の足が一歩、こちらに向かって進んでくる。一歩後ずさったが、間に合わず、男の太い腕が私の肩をつかんだ。
「瞳孔が開いておるぞ、まさにしにんじゃあないか」
男の口から漏れ出す臭い息。
「この庭にはチョウセンアサガオが咲いている。お前さんは知らんだろうが、あの種には毒がある。飲むとしにんのような顔になり、幻覚を見る。今から少し前、アメリカのセイラムという街でも多数の中毒者を出した」
「それが何だというのです」
「お前さんが見たという生きた妻の姿は、幻覚だということさ」
「勝手なことを言わないでください。鈴子は死んでいない」
男の手を何とか振り払った。
「いいや、この屋敷で眠っている女はしにんだ。ついてこい」
男は私に許可もなく、屋敷に上がった。きしむ廊下をどすどすと踏みしめながら、男は進んでいく。
「いけません、そこは」
男が立ち止まった襖には、菊の花が描かれている。
「入ってはいけない、と」
「それはそうだろう。しにんがいるのだからな。だが、今はそんなことは関係ない」
止める間もなく男が引手に手をかけ、一気に開け放つ。
部屋の中央に曼荼羅華の花と供え物に囲まれた、一式の布団。こんもりと盛り上がっていた。
「わかるぞ。息もできぬ」
私が息を止めたことに気づいた男が、大きく頷いた。久方ぶりに入った妻の部屋からは、ものが腐ったような匂いが漂っていた。
「匂いの原因はお前さんの妻だ。あれさ」
男は私の腕を引き、ずかずかと部屋に入っていく。
かけ布団からは、黒々とした長い髪が畳にこぼれている。きっと女だと思うのだが、肝心の顔には布がかかっているためわからない。
「己の目で見るがいい」
男の手が布を一気に捲る。長い睫毛、切れ長の目。穏やかに眠っているが、間違いない。鈴子だ。唯一昨晩と違うのは、顔中に紫色の斑点がびっしりとついていることだ。
「しにんはお天道様が出ている時分には活動できぬ。だから、今はこうして眠っている。成仏せにゃならんものを、しぶとくしがみついているのだ」
醜いことよ。男は忌々し気に吐き出した。
「ありえない。鈴子は生きている、昨日の夜も話をした」
「簡単なことだ。お前さんの生気を吸っているからかろうじて魂は肉体に残り、話ができる。しかし身体の方はそう綺麗には持つまい。だから、ああして死化粧をするのだ」
部屋の奥、引き出しのついた鏡台が置かれている。卓上には、柘榴のかんざしがぽつりと置かれていた。
「違う、死んでいない」
お前に何がわかる。
「ほう、その生きているという証拠はどこにある」
「食べ物を食べる。私と同じものをうまそうに食べる」
男が爆発したように大笑いした。私の言ったことが心底おかしくてたまらないとでもいうように。
「ひっひひ、ひい。……失礼、これは傑作だ」
ひとしきり笑った後、男は私に問うた。
「お前さんの妻が食事をするということがどういうことかわかっているかね。……ああ、その顔だとわかっとらんな」
教えてやろう。男が凄んだ。
「お前さんがめいこんをしたということだ」
めいこん。この男は難しい言葉ばかり使う。
「しにんと生者が食べ物を分け合えばめいこんは成立する、この土地でははるか昔からそう決まっているのだ。西洋から入って来た化学と文明が発展したこの時代でも、信じて実行する馬鹿は」
そのころにはもう、私は男の話は聞いていなかった。
「貴方、起きましたか」
閉じた襖の向こうから、鈴子が問いかける。
「ああ、起きているよ」
その夜は、眠ることなく鈴子が起きるのを部屋で待っていた。
「おはようございます」
開いた襖の向こう、膝を揃えて私を迎える鈴子。顔も手も透き通るように白い肌であることに、思わず自分の口元が緩んだ。いつも通りの朝。
「今日は月が見えないな」
朝餉のあと庭に出ても、夜空を覆う雲に隠れ、月はよく見えなかった。
「また見える日もありますわ。……ねえ貴方、私のかんざしを知りませんか。見当たりませんの」
「すまない。僕が持っていたんだ」
懐に入れていたのを、すっかり忘れていた。
「あら、どうして」
「汚してしまったから、洗ったんだ」
綺麗な水でよくすすいだのだが、鉄臭い匂いがまだ残っている気がする。
戸口の側、こんもりと土が被せられた地中からは、血の気を失った手首が突き出している。鈴子のかんざしを汚した血の持ち主。醜いが、いずれはこの庭の花の養分になるだろう。
「これは、どなたですの」
「庭に米を撒いた男さ。かんざしが汚れたのはこのせいだ」
掘り出して首筋を見せれば、かんざしでつけてしまった傷が見えるかもしれないが、鈴子にわざわざ汚いものを見せつけるつもりはない。
「本当にすまない。大事にしていただろうに」
「構いませんわ、放っておけばいつか匂いなど飛んでいくでしょう。……そう、この男が」
男を見下ろす鈴子の目つきは冷たかった。
「汚らわしい」
鈴子の右足が地を蹴り、死人の手首に土がかかる。
「ならもう、あんなものに悩まされなくて済むのですね」
「そうさ、もう怯えることは何もない」
「良かった」
本当に、良かった。私の首に抱きついた鈴子に接吻された途端、ふらりと身体が傾く。
「貴方、またお身体が」
「大丈夫。君の匂いに酔っただけだよ」
「まあ、気障なことを」
闇の中、鈴子は光のない目で天使のように微笑んだ。
曼荼羅華の幽世 暇崎ルア @kashiwagi612
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