曼荼羅華の幽世
暇崎ルア
前編
瞼を開ければ、暗闇。起きていると思っていても、本当はまだ目を閉じているのではないか、眠りの世界にいるのではないかと勘違いしてしまいそうだ。
しかし、すでに私の意識は覚醒しているのだ。
なぜわかるのか、簡単なことだ。薄い障子から、僅かに月の光が差している。戌の刻あたりだろうか。
「義男さん」
義男さん。
襖一枚で隔てられた空間から、しとやかな声が響く。
「起きているよ」
ぴしゃりと、襖が開いた。襖に描かれた二輪の菖蒲が二つに分かれる。
「おはようございます」
小柄な鈴子がひざまずいて礼をする。昔気質の人間である母に厳しく育てられたため、礼儀を大事にする。
「朝餉ができております」
太陽は沈んでいるが、太陽を浴びることができない鈴子が起きていれば、それは朝なのだ。
「今日は、貴方のお好きなカレイの煮つけですのよ」
広い食堂には、白米と惣菜の大皿が載ったお膳が二人分向かい合って並べられている。
「向井さんが市場で新鮮なカレイを仕入れられたと、喜んでおりましたわ」
向井は片岡家が雇っている料理人だ。よく煮られたカレイの肉は柔らかく、口に入れるとほろりと崩れた。愛想のない男だが、腕はいい。
「……貴方、これを」
食べ終えた私を見て、鈴子が懐から小さな和紙の包みを取り出す。中には黒い丸薬が一粒入っている。庭に咲いている曼荼羅華という花から取れる種子だという。キャビアとかいう舶来の高級食材によく似ている。
「今日も飲むのか」
朝餉を済ませたら、必ず飲まなくてはいけない。大したことはないと思っているのだが、屋敷お抱えの医者によると、私は慢性的な病を患っているのだという。
「貴方、いつもそうおっしゃいますわね」
どうしても召し上がれない?
悲しそうに微笑まれると「嫌だ」とは言えない。
「わかっておりますわ。この薬は本当に効くのか、お疑いになっているのね」
私の浅はかな考えは、いつも鈴子に筒抜けだ。
「そんなこと考えてはいけませんわ。効いていなければ、あなたはこうしてここにはいられませんもの」
「そうだろうか」
「そうですわ」
鈴子が私の手を握る。絹のようになめらかで、氷のように冷たい手。
「お飲みください、私のためだとお思いになって」
鈴子の細い唇が、引きあがる。
白湯と共に薬を飲み干す。丸薬がゆっくりと胃の奥へ下っていく感覚。
「そう、それでいいのです」
柔らかい唇が右の頬に触れた。
義男さん、来てくださいな。
鈴子の声が私を呼んだ。私の部屋を出てすぐの庭の方から。
「うん、今行く」
飛び出すが、誰もいない。本邸へと繋がる、伸びた廊下の先の暗闇にも人影はない。
「鈴子」
どこへ消えたのか。
「ここですわ」
菊の絵が描かれた襖、自分の部屋の前に鈴子が立っていた。
「庭にいたんじゃないのか」
「すみません。貴方をお呼びしたあと、部屋へと戻っていましたの。お洒落をしたくって」
鈴子は顔に化粧を施し、髪には柘榴を模した飾りがついたかんざしがついていた。練香水でもつけているのか、ほのかに甘い匂いも鼻孔をくすぐる。
「見たかったなあ、部屋で君が化粧をするところを」
「よしてくださいな、お恥ずかしい」
「ちゃんと掃除はしているのだろう」
「していますけれど、見せるものではありませんわ」
口をとがらせ、ちらりと背後の菊を見やる鈴子。鈴子は執拗に私が部屋に入ることを嫌がる。
「……そんなことより、庭に参りましょう。今宵は月がよく見えますから」
鈴子が空を指さした。
まるで気がつかなかったが、雲一つない夜空には卵色の満月が輝いていた。
「懐かしいわ、こんな夜でしたわね」
何が、と首を傾げると鈴子は怒ったように口をとがらせた。
「何って、私たちの婚儀があった夜に決まっていますでしょう」
はて、そうだったろうか。物覚えの悪い私は、鈴子を妻に迎えた夜の情景を覚えていない。
「忘れてしまいましたの? 一つのお団子をこうして二つに割って、分け合って食べたじゃあありませんか」
「団子」
婚儀とはそんな習わしをするものだったろうか。
「そうですわ。それがあったからこそ、私たちは夫婦になりましたのに」
ひどい人ねえ。言葉とは裏腹に、くすくすとおかしそうに笑う鈴子。
「そんなこともあったかもしれないな」
私が一人呟く頃には、鈴子は庭に咲き誇る曼荼羅華の花を眺めていた。ちょうど咲き盛りの頃だ。縁が紫に染まった白い花弁は、今日の鈴子によく似ている。
婚儀。鈴子には言えないが、その言葉を聞くだけで背筋と内臓にぞわぞわと悪心が走る。めでたい言葉だというのに。何か嫌な思い出があるに違いないのだが。
きゃあああ。
つんざくような甲高い音が、耳朶に響く。
「あなた、どうしましょう、こんなものが」
鈴子は腰を抜かして怯えていた。
「いやだ、いやだ」
こんなもの、見たくもないのに。
駄々をこねる子供のように、華奢な腕が私の服にしがみつく。
怯える背中をさすりながら地面に目をやる。何が彼女をこんなに怯えさせているのか。
「ただの米粒じゃないか」
精米をした生米が点々と散らばっている。
「おかしいでしょう、庭にこんなものがあるのは」
「誰かが外から投げ入れたんじゃないかな。大丈夫」
そんなに怯えなくとも。そっと言い聞かせると、私の腕の中で鈴子がまた身体を震わせた。
「早く、あんなもの捨ててくださいな」
言われた通り、塀の外に投げ捨てる。地を這う蟻たちの食事にでもなるだろう。
「しかし、何がそんなに怖いんだい」
「怖いものにわけなんてありませんわ」
世の中には同じものがいくつも集まっていることに恐怖を感じる人間がいると聞いたことがある。
「誰がこんなことをしたというのかしら」
「大方、暇な人間でもいるのだろう。何しろ、この世にはごまんと人間が生きているのだから」
「はあ、そんなものでしょうか」
ピンと来ていないようだ。
「人の声などほとんどしていないのに」
辺りを見回す鈴子。ころころ、と少し早い夏の虫が鳴く声だけが聞こえてくる。
「仕方ない」
今の時間は、皆寝ているだろうから。こんな時分でも活動できるのは。
「ねえ、不思議だと思いません」
胸にもたれかかっていた鈴子が、私を見上げる。椿のような深紅の紅をひいた唇が、いいと持ち上がった。
「私と貴方だけがこの世界で生きているみたい」
鈴子の髪をなでていく、暑くじっとりとした風。ぐらり、と視界が揺れる。
あなた、あなた。鈴子の声が上方から聞こえた。
湿った土の匂いが鼻をつく。いつの間にか、私の身体は地面の上に横たわっていた。今度は私が平気ではいられなかった。
「大丈夫。少し疲れただけだ」
立ち上がってもなお、鈴子は気遣わしそうに覗き込んでいた。
「調子がお悪いのですね」
何も言葉が返せなかった。ああ、やはり私は病人なのだな。ああ、そうだ。
「今日はもうお休みになった方がいいですね」
細い腕のどこにそんな力があるのかわからないが、ぐいぐいと寝室へ引っ張られ、気づいたときには鈴子の膝の上に頭を預けていた。そのまま目を閉じれば、眠ってしまいそうなほど心地が良い。だが。
「駄目だ、まだ眠りたくない」
あんなに綺麗な月が出ているのに。
「嫌ですわ、子供みたいなことをおっしゃって」
冷たい指が私の髪をなでた。
「明日になったら見られないかもしれないじゃないか」
「見られますわ。これからもずっと」
そうならなくてはいけないのよ。
「私たちは永遠に二人でいなくてはならないのだから」
長い睫毛の下、切れ長の形の良い目が私を見下ろしている。私の妻はこんなに黒い瞳をしていただろうか。暗闇に溶け込んでしまいそうなぐらい。
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