幸福は一粒の中に

藤野 悠人

一粒目 美月とこんちゃん

 遠くの方から、夕方のチャイムが聴こえる。何かの歌のメロディだということは、まだ小学校一年生の美月みづきも知っていた。曲名は知らないけれど、物心ついた頃から夕方になるといつもこの曲が流れていた。


 このチャイムが聴こえたら、友達と遊んでいてもおしまいにして、みんな帰る時間。おうちに帰らなきゃ。それは分かっているけれど、今日の美月はまだ帰るわけにはいかなかった。


 だって、こんちゃんがまだ見つかっていないから。


「こんちゃん、どこ? こんちゃん、どこに行ったの?」


 もうずっと、ずっと名前を呼んで探している。近所のおばさんにも、お店の人にも、道行く人にも、たまたま会ったクラスの子にも聞いた。


「ねぇ、こんちゃん知らない?」


 みんなには話せないことでも全部知っている、美月の一番のお友達。今日の朝に探しに出たのに、気付いたらもう夕方。


 もしかしたら、もう会えないかも。そう思う度に胸が苦しくなって、口元がきゅっと固くなる。ずっと歩いていたから、足もすごく痛い。すっかり疲れてしまって、歩道の縁石えんせきに座り込んでしまった。真っ赤な夕日に照らされて、真っ黒な地面もちょっと赤い。自分の影になっている場所はもっと暗くて、もうすぐ夜なんだと思った。


 こんちゃん、大丈夫かな。夜にひとりぼっちで、寂しくないかな。美月は寂しい。夜、こんちゃんがいないままひとりで寝るのは、寂しい。


「こんちゃん、どこ?」


 目がじわっと熱くなる。喉の奥がきゅっと苦しくなって、美月は声を抑えて泣いた。


「大丈夫?」


 突然話しかけられて、美月はびくっと肩を震わせる。しゃくり上げながら顔を上げると、美月を覗き込むようにして知らない女の人が立っていた。


 変な髪型の人だと思った。髪は短い。短いけれど、左耳の前の方だけ長く伸ばしていて、細い三つ編みを作っている。昔の人が着るようなゆったりした袖の服を着ていて、そこから伸びた細い手が垂れた三つ編みを押さえていた。


「……誰?」


 彼女をなんと呼べばいいか分からなくて、美月はそれだけ聞いた。


 おばさん、という感じはしない。でも、お姉さんと呼ぶには、美月と歳が離れすぎている気もした。


 何より知らない女性だし、着ている服だって見慣れない。美月はほんのちょっと、彼女のことが怖かった。


「ごめんね、急にびっくりしたよね」


 女性は身を屈めて美月と同じ視線になった。ゆったりした服がふわりと動く。動いた拍子に、ちょっと良い匂いがした。美月の好きな石鹸のように柔らかい匂い。よく見ると、服はゆったりしているのに、靴は真っ黒で先が尖っている。足首よりも長くて、細い靴紐がたくさんのバツ印を作っていた。


「私は霧乃きりの。よろしくね」


 身を屈めた女性はそう名乗って、にっこりと笑った。綺麗な人だな。幼いながらに美月はそう思った。霧乃は続けて、


「名前、聞いてもいいかな?」


と、小首を傾げながら言った。


『知らない人と話してはいけません』


 そう習ったけれど、霧乃が少しだけ怖くなくなった気がして、話しても大丈夫だと思った。


「美月」

「そう。美月ちゃん、って呼んでもいいかな?」


 美月は小さく頷く。


「隣、座ってもいい?」


 再び美月は小さく頷いた。


 先の尖った靴をコツコツと鳴らして、ふぅ、と息をつきながら、霧乃は美月の隣に座った。柔らかい石鹸の匂いが、さっきよりも近くなる。よく見ると、耳には不思議な形のイヤリングが付いていた。


 美月は霧乃をまじまじと見た。


「霧乃さん、変なお洋服着てるね」

「え、そう? 変かな?」

「うん。着物みたい。でも、着物じゃないみたい」


 全体的にゆったりとした霧乃の服は、まるで浴衣や着物のように見えたけれど、よく見るとちょっと違う。下の服は長いスカートだと思ったけど、ズボンのようにも見える気がした。


「その履いてるのってスカート? ズボン? どっち?」

「あ、もしかして初めて見るの? これね、はかまっていうの」

「はかま?」

「そう。本物の袴とは、ちょっと違うんだけどね」


 本物の袴と言われてもやっぱりよく分からなくて、美月は首を傾げてしまう。視線を更に足へ向ける。


「それに靴も。えーと、なんていうんだっけ。その尖った靴」

「ブーツのこと?」

「そう、ブーツ」

「私、こういう格好が好きなの」


 霧乃は少しだけ腕を広げて、自分の服を見せた。やっぱり着物を着ているみたいだ。でも、洋服のようにも見える。色は派手ではないけれど、目立ちそうな格好だな、と思った。


「変なお洋服だけど、似合ってると思う。かわいいし」

「あら嬉しい。ありがとう」


 霧乃がパッと笑顔になる。初めて会う人なのに、霧乃が笑うとなんだか美月は安心した。


「私ね、美月ちゃんがここに座って泣いているのを見て、どうしたんだろうって思ったの。何かあったの?」


 霧乃の質問でこんちゃんのことを思い出して、美月はしょんぼりと下を向いた。


「……教えても、笑わない?」

「うん、笑わない」


 霧乃の顔を見ると、真面目な表情を浮かべていた。きっと、霧乃は笑わないだろうな、と美月は思った。でも、どうしても怖くて、もう一度同じ質問をした。


「ほんとの、ほんとに笑わない? 学校でね、何人か笑う子もいたよ」

「学校のお友達が笑っても、私は笑わないよ」


 それを聞いて、美月はおずおずと話し始めた。


「あのね、ぬいぐるみを探しているの」

「ぬいぐるみ?」

「そう。こんちゃんっていうの。これくらいの」


 美月は両手を使って、だいたいの大きさを示して見せた。野球のボールよりちょっとだけ大きい、小さめのぬいぐるみだった。


「昨日おでかけした時ね、こんちゃんも一緒だったんだ。でもね、どこかに落としちゃったみたい。昨日の夜に気付いて、朝からずっと探してるの」

「ずっと? 一人で?」

「うん。でも見つからないの」


 そう答えると、またじわっと目が熱くなる。鼻の奥も、またぐすぐすと鳴り始めた。隣から、気遣わしげな霧乃の声が聞こえた。


「一人で探すのは大変だったでしょう。お父さんやお母さんに、一緒に探してもらうように、お願いしてみるのはどう?」


 それができるならとっくにしている。美月は僅かな反発心を覚えた。


「お父さんは、お仕事が忙しいから。お母さんは……、お母さん、は」


 お母さん。その言葉を口にした瞬間、両目の中で我慢していた涙が、ぽろぽろぽろぽろ、零れ始めた。


「お母さん、おうち出ていっちゃった。お父さんとケンカして、出ていっちゃった。こんちゃんは、お母さんがくれたの」


 思い出すと寂しくて、悲しくて、怖くて、涙が止まらなかった。


 大好きだったお母さん。怒ると怖いけど、優しかったお母さん。でも、お父さんとすごく大きな声でケンカをした日があった。美月は怖くて怖くて、布団を被って必死に寝たふりをしていた。しばらくして、お母さんは何も言わずに家を出て行った。お父さんも、お母さんのお話をしてくれなくなった。


「そっか……、ごめんね。嫌なこと訊いちゃったね」


 霧乃はそう言って、美月の背中を優しく撫でてくれた。不思議だった。背中に触れる霧乃の手。全然知らない人のはずなのに、彼女の手の温かさは、お母さんの手みたいに優しい感じがした。そう思うと少しずつ、少しずつ、涙が引いていった。


 美月が落ち着くと、さっきよりも更に日が落ちていた。道の端に佇む街灯が、ぽつん、ぽつん、と点き始めている。


「暗くなってきたね」


 霧乃が呟いた。


「美月ちゃん、こんちゃんに会いたい?」

「うん、会いたい」


 美月が答えると、霧乃は服の中から何かを取り出した。


「じゃあ美月ちゃんに、これをひとつあげる」


 霧乃の手にあったのは、小さな瓶だった。霧乃の手に納まるくらいの細長いガラスの瓶。キラキラした丸いものが、瓶の中にたくさん入っていた。


「それ、なに?」

「これはね、幸運の飴玉」

「幸運の飴玉?」


 霧乃は頷くと、ポン、と片手で蓋を開けた。


「お願い事をしながら口に入れると、ちょっとだけ幸せをくれるの。きっと、こんちゃんにもまた会えるわ」

「ほんとに!?」

「本当。でもね、もらえる幸せはひとつだけ。もらった幸せをどう感じるかは、美月ちゃん次第」


 霧乃の声は優しいと同時に、すごく真剣だった。美月は思わず唇をくっ、と噛んでいた。ふと、学校で先生に教えられたことが頭をよぎった。


『知らない人からお菓子をもらってはいけません』


 だけど、霧乃が自分を騙そうとしているようには、どうしても思えなかった。だって、こんちゃんのことも、美月のことも、とても心配してくれているのが分かるから。


「私にできるのはこの飴玉をあげるだけ。それが精一杯」

「でも、それを食べたら、こんちゃんにまた会える?」

「えぇ、きっと」


 霧乃がじっと美月を見る。むりやり飴玉を渡そうとはしない。もらうかどうか自分で選ぶんだ、と美月は気付いた。


「霧乃さん、ひとつちょうだい」


 美月はそう言って手を出した。霧乃が瓶を傾けると、コロコロっと乾いた音がして、美月の手にひとつだけ飴玉が落ちた。


 綺麗な飴玉だった。丸くて、キラキラしていて、でも何の味かは想像もできない。美月はしばらくじっと見つめて、思い切って飴玉を口に入れた。


「あ、イチゴ味」


 口の中に、優しいイチゴの味が広がる。


「イチゴ味は好き?」

「うん、大好き」

「そう、よかった」


 霧乃はどこか安心したような表情でそう言った。


「さぁ、もうすぐ夜になるわ。今日はそれを舐めながら、気を付けておうちに帰りなさい」

「うん、分かった。霧乃さん、ありがとう」


 しばらく座っていたおかげで、足はもうすっかり痛くなくなっていた。手を振って霧乃と別れて、美月は家に向かって歩き出す。


 美月は一生懸命、心の中でお願いをしながらおうちへ向かって歩いた。優しいイチゴ味の飴玉を、口の中でころころ転がしながら。


 こんちゃんはまだ見つかってないし、心配だ。でも、霧乃がくれた飴玉のおかげなのか、きっと大丈夫、すぐに見つかると思えた。


―――


 次の日は学校だった。朝になっても、まだこんちゃんは見つかっていない。学校なんて行きたくなかった。でも、ワガママを言うとお父さんを困らせてしまう。美月はぐっと我慢をして家を出た。


 学校が終わると、仲良しのお友達にも声を掛けずに帰り道を歩いた。


 ――きっと、こんちゃんにもまた会えるわ。


 霧乃はそう言ったけれど、こんちゃんはまだ見つからない。


「……霧乃さん、嘘ついたのかな」


 思わず、そんな言葉が出てしまう。地面を見ると、美月の身長よりもずっと長くなった美月の影が、不安そうに揺れて、一緒に歩いている。


 家に着くと、おばあちゃんがいた。お父さんが帰ってくるまで、いつもおばあちゃんが晩ごはんを作ったり、一緒にお風呂に入ったりしてくれる。


「ただいま」

「おかえり」


 台所に入ると、おばあちゃんはお茶を飲んでいた。美月の顔を見ると、隣の椅子に置いていた何かを手に取って、美月のもとにやってきた。


「これ、美月が探していたこんちゃんじゃない?」


 おばあちゃんが手を開く。そこに、美月が両手で持てるくらいの、小さなキツネのぬいぐるみがあった。美月は思わず歓声を上げた。


「こんちゃんだ!」


 少し平べったく潰れた尻尾。折れ曲がった左耳。間違いなくこんちゃんだった。


「おばあちゃん、どこにあったの?」

「美月が学校に行ってる間に、ひとりで歩いて帰ってきたんだよ」


 おばあちゃんはニコニコしてそう言った。美月は思わずムッとしてしまう。


「おばあちゃん。私、もう小学生だよ。こんちゃんが歩かないことくらい分かるもん」


 おばあちゃんはちょっと困った顔をしてしまった。そして、諦めたようにため息をついた。


「ごめんね、美月。本当のことを教えるけど、おばあちゃんと美月の秘密。お父さんには絶対に話しちゃだめ。いい?」

「分かった」

「……美月のお母さんが持ってきたの。道に落ちていたのを、たまたま見つけたって。一目でこんちゃんだって分かったんだって」

「お母さんが!?」


 おばあちゃんは頷いた。


「お母さん、他には何か言ってた!?」

「……ごめんね、って」


 おばあちゃんは悲しそうな顔でそう言った。その顔を見て、なんとなく、もうお母さんには会えないんだと思った。


 おばあちゃんが、そっとこんちゃんを渡してくれた。


 お母さんは帰ってこない。でも、大好きだったお母さんが、一番のお友達のこんちゃんを届けてくれた。お母さんがくれた美月の大事なこんちゃん。


 寂しくて、でも嬉しくて、どっちの気持ちもあるのに分からなくて、喉の奥がきゅうっと苦しくなった。こんちゃんに顔を当てて、美月はその場でわんわん泣いた。


 おばあちゃんが抱きしめてくれた。それがまた暖かくて、涙が止まらなかった。


 ぽたぽた零れた涙が、こんちゃんの顔を濡らしていた。

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