第3話
長い夏の昼が徐々に暗くなっていく。柔らかいオレンジ色の光が灯される店内で、なんとも言えずに目の前に鎮座するものを見つめた。
脚付きのグラスに注がれているのは透き通った青いソーダ水。その上に浮かぶのはきめ細やかなバニラアイス。脇に添えられている熟れたさくらんぼがこれでもかと言わんばかりに自己を主張している。
「いやあ、実物はいいねぇ」
藍葉さんはものすごく嬉しそうな顔で目の前に置かれているクリームソーダを写真に収めている。単品で撮っていたかと思えば、ともに注文したカレーも一緒に収め始めた。ちょっとごめんね、と言いながら水が入ったグラスや備品を押しのけていく。余分なものが映り込まないようにしているのだろう。内心げっそりしながらその光景を見守ることしかできない。
ちなみに自分の目の前にも同じ物が置かれている。カレーやサラダといったサイドメニューはともかく、男二人でクリームソーダを囲っている姿はなかなかにシュールだ。更にはこの撮影会なのだから、もはや開き直るしかない。
「待たせてごめん。食べよっか」
「え、もういいんですか?」
意外にも早く撮影が終了し、気の抜けた声でそう返してしまった。藍葉さんは朗らかに笑う。
「温かいうちに食べないと失礼だし、もったいないでしょ。アイスも溶けるし」
正論を返されたと思った途端、藍葉さんはいただきますと言ってスプーンを取った。カレーを一口食べてたちまち頬を緩ませる。それを見て、自分の手元に視線を落とした。
丸ごとトマトが入ったチキンカレーは存在感たっぷりである。彩りとしてナスやパプリカといった夏野菜が添えられていて、見た目も鮮やかだ。目の前の人が幸せそうに食べているなのがなんとなく恨めしくて、無言のままカレーを一匙口に運んだ。食欲をそそるスパイシーな香りが鼻腔をくすぐる。
食べた途端、程よい辛味と旨味が口に広がった。トマトの酸味も相まっていつもよりさっぱりとした印象だ。鶏肉もパサつきなくしっとりとしていて美味しい。スパイスが空腹をさらに刺激し、無言のまま数口食べ続ける。
「……美味しい」
「美味いよなあ。今回の遠征で絶対行きたいと思ってたんだよ、ここ」
俺の一言に藍葉さんは更に嬉しそうに笑った。アイスが溶けきらないようにだろう、藍葉さんはクリームソーダを挟みながらカレーを食べ進める。
クリームソーダなんていつぶりだろう。そう思ったところで不意に子どもの頃のことを思い出す。父親と母さんがまだ一緒にいた時。確か家族向けのチェーン店に行って、ねだって頼んだのはメロンソーダだった。
ほんの少し寂しさを覚え、クリームソーダを見つめる。目の前のクリームソーダは透き通った夏の空のようで綺麗だった。
気を紛らわせるようにカレーを口に運んだ。へずれていくクリームソーダ のアイスが歪な入道雲のように見える。二つの皿が空になったところで藍葉さんは姿勢を改めた。
「今日は手伝ってくれて本当にありがとう。おかげさまで売り上げも絶好調だったよ」
「……いえ、大したことはしてないんで」
感謝されるのに慣れなくて、再びそっけない言葉が出てしまう。それでも気にした様子はなく藍葉さんは眉根を下げて緩く笑った。
「本当に硬いねぇ」
「藍葉さんがゆるすぎるんですよ」
「肩肘張ってもしょうがないからねぇ。こういうのは楽しんだもの勝ちよ」
そう言いながら藍葉さんは背もたれに寄りかかって、だらりと姿勢を崩す。どこまでも自由な人だなと思いながら、俺は空になった相向かいのグラスに視線を向けた。
「こういうの好きなんですね」
「なんかよくない? クリームソーダって。このアイスと鮮やかなソーダ水の絶妙なバランスとフォルム。レトロロマンを感じるというか、なんというか」
藍葉さんは少年のような笑顔を浮かべた。ちなみにここの店は季節でいろいろな色のクリームソーダを出しているんだよと付け加えてくれた。
特別な何かを持たない自分にはよくわからない。曖昧にそうですかと相槌を打つと、藍葉さんは頬杖をつきながら口を開いた。
「それで、少しは楽しめた?」
思ってもいなかった問いに心臓が跳ねる。視線を向けた先の藍葉さんは柔らかい笑みを浮かべていた。優しいはずなのに何もかも見透かされているような目が怖くて、水の入ったグラスに視線を落とす。
きっと、自分だけでは知ることができなかった世界。こういう世界もあるんだと自分の視界を広げてくれたように思う。それを口にするには素直さが足りなくて、当たり障りのない答えを返す。
「慣れないことばっかりで、どっちかっていうと楽しいっていうより大変だったんですけど。……まあ、こうして都内に来れたのはよかったです」
ふうんと、藍葉さんは納得したような、していないような相槌を打った。続いた言葉によってグラスに伸ばした手を止めざるを負えなかった。
「いつもさ、なんとも言えない目で軒先っていうか、遠くを見てたから。ちょっと気になってたんだよね」
深い沈黙が訪れる。グラスを持ち上げることもできず、吸い付いたように指が離れない。張り詰めた空気を変えるように、藍葉さんはいつもと同じ声音と問うた。
「麻薙くんも何かない? 好きなもの」
「……特には」
「そっか。まあ、無理に作るものでもないし。いずれ何かできるといいね」
心からそう思っているというような声音に、言いようのない居心地の悪さを感じた。
ようやく強張った体に自由が戻って、グラスを口に運んだ。少しぬるくなった水が乾いた喉を潤す。
「好きなものを好きと言えるって、すごいですね」
「そう? 今はわりとなんでもありだと思うけど。ああ、もちろん犯罪紛いのものはダメだけどさ」
視線を向けると藍葉さんは少し不思議そうな顔をしていた。それを見て、それもそうかと一人思い直す。
確かに皆、好きなものを『推し』としているし、世の中それを肯定する風潮だ。学校でも何が好き、これがいいという話題がきっかけで話が広がり、盛り上がっていた。
だからだろうか、その空気に馴染めない自分がよりいっそう異物のように感じてしまう。何よりも、目の前にいる人と自分はまったく違うのだと、この二日間で思い知らされてしまった。
藍葉さんは少し強引なところがあるが、ほどよい緩さがあるからだろうか。人に合わせて話し手や聞き手に回り、気づけばまるで布に水が染み込んでいくかのように馴染んでいる。この二日間、藍葉さんの振る舞いを近くで見て、人と一線を置いてしまう自分には到底できないと感じてしまった。
「多分、俺が変わってるんです。これといって好きなものもないし、人に興味も湧かない。周りと違っていて、ちょっと浮くというか」
ああ、なんでこんなことを言ってしまったのだろうと思った。
わずかな接点で繋がった間柄。それにもかかわらずこんな話をしてしまうなんてどうかしている。いや、この非日常とろくに知らない者同士だからこそ、話したくなったのかもしれない。
きっと眩いばかりの太陽と夏の空の青さにほだされてしまったのだ。何者でもないものが何者かになれるような気分になれる、そんな夏という季節に少なからず浸ってしまったから。
この時間が終わってしまうことが怖かった。新幹線に乗ったら嫌でも日常生活へと戻ってしまう。
父親の浮気が発覚したのをきっかけに両親は離婚し、母さんに引き取られた。母さんは仕事が多忙な人で、転勤の度に引っ越しを繰り返した。仕事のためだからしかたないと思いつつも、途切れてしまった交友は数え切れず、深い関係になればなるほど後が辛かった。
忙しい母さんとともに家事をこなそうとすると、どうしても同級生とは距離が開きがちになる。バイトを始めれば尚更だった。既に完成された輪に入るだけの気力はなくて、程よい距離を取って学校生活を送るのが当たり前になっていた。
高校二年になったこの春、この町に越してきた。既に出来上がっている空気感に馴染めなくて、ここでも一歩引いてしまっていた。
「……中でも異性に憧れるとか好きとか、そういう感情がいまいちわからなくて」
その中でも飛び抜けてわからないのが恋愛感情だった。
誰が付き合った、別れた。あの子が可愛い、先輩が格好いい。どこまで進展した。学校ではそういう話題が事あるごとに持ち上がる。自分自身、格好いいと言われてもいつもピンとこなかった。そんな話を聞く度にわからなくなる。
気持ちなんてたやすく変わってしまうのに。恋に落ちても愛を歌っても、皆傷つけることばかりしているのに、なぜそんなにも楽しそうに語れるのだろう。両親を見て、いつの間にかそう思う自分がいた。
一緒にいたい、好きだ、恋しいという気持ちが理解できない自分は、人として何かが欠落しているのではないだろうか。自分が異物のようで、居場所がないように感じた。
「無理に同じである必要はないんじゃない? 何だって相性があるんだしさ」
伸びやかな声が聞こえてきて、視線を上げる。いつの間にか視線が下がっていたらしいとそこで気がついた。目の前の藍葉さんは頬杖をついたままグラスを手に取って揺らす。
「藍色と浅葱色ってさ、蓼藍っていう植物で染めるんだけど、生葉染めと藍染めっていう手法の違いでああやって色に違いが出るんだよ。加えて、生葉染めはシルクだと染まりやすいけど麻や木綿は染まりにくい。藍染めは素材で差はあるけど、天然繊維ならどれもほどよく染まる。同じ素材でも媒染剤を変えれば風合いも変わるしね」
だから馴染めると思ったら馴染めばいいんだよ、と言って藍葉さんは言葉を締めた。
言われたことがゆっくりと頭に染み込んでくる。言われたことを理解して思わずふっと笑ってしまった。そんな俺の反応に藍葉さんは少し狼狽える。
「え、俺、なんか変なこと言った?」
「……いや、藍葉さんらしいなって思って」
そうかな、と言って藍葉さんは息をつく。まるで安堵したかのように。それから懐かしむように目を伏せた。
「俺もさ、ちょっと浮いてるやつだったから。そういうの、ちょっとだけどわかるよ」
「藍葉さんが?」
思いがけない告白に素っ頓狂な声が出てしまった。それに対して藍葉さんは不服そうに眉根を寄せた。その仕草がなんだかとても子どもっぽい。
「麻薙くんは俺のことなんだと思ってるの?」
「いや……。初対面でもぐいぐい来るし。誰とでも上手くやってそうだから、そんな悩みあるなんて思ってなくて」
「こう見えてもいろいろ気を使ってるの。無理に染まろうとは思わないけど、馴染みたいなら俺だってそれ相応の努力はするよ。相方との関係も、何気なくそばにいるのがちょうどいいって感じだからだし」
再びもたらされた意外な言葉に俺は何も言えずに沈黙してしまう。藍葉さんは小さくなった氷が浮かぶグラスを回しながら続けた。カラカラと氷が音を立てる。
「周りと違ってもいいじゃない。考え方だって、何を大切にするかだって十人十色。同じじゃないからって萎縮したり、自分を否定しなくてもいいんじゃないかな」
「……そういうもんですか」
「そういうもんだよ」
そう言って藍葉さんは笑った。先ほどとは打って変わった、落ち着いた大人の笑みだった。
「手伝ってくれて本当にありがとう。助かったよ。これは今回のお礼」
改めて姿勢を正した藍葉さんが差し出したのは白い封筒だった。緊張しながら手に取ると、改めてこの二日間が実際にあったことなのだと思えた。
時計を確認した藍葉さんが、そろそろ出ようかと言って鞄を手にする。新幹線の時間がゆっくりとだが確実に近づいていた。慌ただしく店を後にしたが、非日常が終わってしまう心許なさは先ほどより薄れていた。
品川駅から新幹線に乗り、流れていく景色をぼんやりと眺める。一時間と少し経てば日常の風景が戻ってきた。まだここに越してきてまだそれほど経っていないのに、見知った駅にたどり着くと帰ってきたなと安心するのだから不思議だ。改札口を出た先で空を眺め、軽く息をつく。
「そうだ。今度の週末には売り上げがちゃんと出せると思うから、また来てよ。手伝ってくれたお礼、上乗せするからさ」
「え、でも……」
思ってもいなかった事態を前にして口籠ってしまう。そんな自分を見てか、先んじて藍葉さんが続けた。
「仕事に対する対価なんだから、ちゃんと受け取りなさい」
いつもと違って大真面目な顔で言うものだから、つい笑ってしまった。
「……はい。それじゃあ、そうさせてもらいます」
「じゃあ、気をつけて」
はいと返事をすると、藍葉さんは満足そうに笑ってゆるりと背を向けた。
非日常が日常にすり替わっていく。焦りを覚えて、思いがけず声を上げていた。
「藍葉さん」
藍葉さんはすぐさま振り返った。呼び止められると思っていなかったのだろう、何があったのかと驚いた顔をしている。
突拍子もないことだとわかっていた。けれど、今この瞬間に言わないといけない気がした。
「俺の名前、
突発的な自分の行動に急に気恥ずかしさが迫り上がってくる。しかし、それを押し込めて更に続けた。
「いつか都合がいい時、藍染め教えてもらえませんか?」
当然のように藍葉さんが大きく目を見張る。
それも束の間、藍葉さんはすぐさま笑った。少年のような明るい笑顔だった。
「ああ、もちろん! 青弥、またな」
藍葉さんは手を上げると再び背を向けた。その後ろ姿を見届けて、ふうっと深い息をつく。
いつになく心臓が早っている。一歩踏み出すだけでもこんな有様かと情けなく思いつつも、気分は悪くない。
引いてしまった一線を超えたいと柄にもなく思ってしまった。
また別れるその時を思いながらも、日常を変えたいと願ってしまった。
今になって思い知る。きっと、何かしらきっかけが欲しかったのだ。
少しだけでもいい。積極的にクラスメイトと話をしてみようか。染まっても染まらなくてもいい。馴染めないなら馴染めなくてもいい。けれど、馴染みたいなら相応に努力必要だ。そんなふうに思って、もうすでに染められているなと苦笑いを浮かべる。
空を見上げると深い藍墨色の空に星が瞬いている。都内では光に隠れがちだった星々が綺麗に瞬いていた。
満天の星空のもと、これからの日常に想いを馳せながら自宅へと足を向けた。
染まれ青藍 立藤夕貴 @tokinote_216
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