第2話

 とてつもなく大きな会場に人がひしめき合い、目の前に広がる光景に圧倒される。


 俺と藍葉さんがいるのは物づくりに情熱を傾けるクリエイターが集まるイベント会場。都内開催とあって会場はとても広く、出店するブースも恐ろしい数だ。今の時点で出展者だけだというのだから、開場したらどんなことになるのだろう。


 イベント前の商品の準備ということで始めた手伝い。通うごとにあれよあれよと頼まれごとが増えて、いつの間にかイベントの売り子までさせられることになっていた。頼まれたたら断れない自分に嫌気が差す。


 母さんも自分がこの一ヶ月ほど週末にふらっと出かけても何も言わない。むしろ、家のことなど気にせず、外に出かけるのが嬉しいと顔に出ている。現実は同年代の友人と遊ぶのではなく、知り合って間もない壮年男性の趣味の手伝いをさせられているだけなのだが。


 七月の後半。高校も夏休み直前という時期だ。はからずとも小旅行となったのは気分転換になっているからいいか、と半ば自分を無理やり説得する。しかも売り子を兼ねていた相方さんの代わりのため、遠征費もこちら側に負担はない。複雑な心中を整理をしていると藍葉さんに肩を叩かれた。


「さあ、さくっと準備しちゃおう」

「え、あ。はい」


 口調はいつもと変わりないものの、声音が真剣さを帯びていて思わず気持ちを引き締める。

 言われるがままにテーブルに布をかけて周りを彩り、商品を陳列していく。さくっと準備しようとの言葉とはまったく真逆で、開場の時間までずっと作業に追われていた。それはどこも同じなのだなと思えたのはようやく店として形が整った時だった。


「お疲れ様。これどうぞ」


 藍葉さんからお茶のペットボトルを渡され、礼を言ってから遠慮なく口をつける。外は雲一つない快晴。ガラス張りの場所は照りつける太陽のせいで眩しいぐらいだ。外はどれくらい暑いだろう。準備だけというのに、既に汗をかいていた。


「こまめに水分摂って。辺りぶらぶらしてきてもらって構わないから、その時は声かけて」


 慣れた様子の藍葉さんは笑顔でそう言う。既に準備で気力がなくなり気味なのだが、始まる前からこれではさすがに申し訳ないと思って姿勢を伸ばした。


 程なくしてイベントが幕を開ける。クリエイティブなイベントにまったく縁のなかった者からすれば、どこからやってきたのだろうと思う人の数だった。


 足早に通り抜けていく人もいれば、和気藹々と同伴者や出展者と話をしながらブースを回る人もいる。各ブースを見るだけでも骨が折れそうだなあと、人事のように思ってしまった。藍葉さんが言うには十一月にはデザインに関する大規模なイベントがあり、そこにも出店するのだという。この会場の二階や別の棟も使うと聞けば、どんな規模なんだと恐ろしくなる。

 そんなこんなで辺りの様子を伺っていると、女性二人組がブースに近づいてきた。


「こんにちは」

「お、どうも。今回も来てくれたんだ」


 遠慮がちに挨拶をしたショートボブの女性が藍葉さんの言葉に目を見張る。女性の反応を見て藍葉さんは柔らかい笑みを浮かべた。


「前のイベントの時、ずっとどっちにしようか悩んでくれてたでしょ?」

「あ……はい。そうです。覚えてもらってたなんて、恥ずかしい」

「あんなに熱心に選んでくれてたんだもん。覚えてるよ」


 藍葉さんの言葉に女性は照れ臭そうに笑う。ゆっくり見ていってという言葉を受けて、女性たち二人は真剣な表情でTシャツや染め物の小物を吟味していく。悩んでいるうちに新たな女性のお客さんがやってきて、俺が対応することになった。ぎこちない笑みを浮かべながらありがとうございますと商品を渡すと、お客さんは同じようにお礼を言ってその場を去っていった。


 一仕事を終えて内心で安堵の息をつく。そんな様子を見てか、藍葉さんはおかしそうに笑った。


「あんまり気を張らなくて大丈夫だよ。ただでさえ麻薙くんは素材がいいんだから、笑っていれば万事オッケー」


「いや、何ですか。その根拠のない理論」


「いやいや、案外そんなもんよ? お客商売は笑顔が大事だしね」


 笑って笑って、とおどけてみせる相葉さんに呆れた視線を送る。もちろん、藍葉さんはまったく気にする様子がない。ブースにやってきた男性客に気がついて、藍葉さんはすぐさま視線を戻した。


 物静かに商品を眺める男性に気を使っているのか、先ほどまでの軽快な雰囲気は息を潜めている。男性客は商品を吟味した後、Tシャツを一枚藍葉さんに差し出した。代金を受け取り、手早く用意していた紙袋に収めて藍葉さんは会釈する。


「ありがとうございます」


 特に何を言うでもなく、男性はブースを後にする。当たり前だけどいろんな人がいるよなぁと男性が去った方向を見ながら一人思った。


 人の流れはまちまちで、客が密集したかと思えばガラ空きになる時もある。少し人足が遠ざかった時、ショートカットの女性がブースの近くにやってきた。Tシャツに裾丈のジーンズというラフな格好の女性は予想に外れず、人懐っこそうな笑みを浮かべた。


「藍葉さん、こんにちは〜。今日は相方が違うんだね?」


「ちょっと都合が悪くなって。急遽助っ人を頼んだの」


 相方さんはフリーでデザインの仕事をしているらしいのだが、休んでしまった分の仕事が溜まっているらしい。イベントも出られないことを藍葉さんに告げ、迷惑をかけてごめんねと電話で謝られたのはイベントの一週間前だった。


 二人は恋人なのだろうかと思ってそれとなく訊いてみた。体調不良のせいとはいえ、邪魔をしているのではないかと思ったのだ。しかし、質問に対して藍葉さんはそれない、とすっぱりと言ってのけた。あっちもそんなつもりは微塵もないし、ただの趣味仲間だよ。そう言って笑う藍葉さんを見て唖然とし、自由な人たちだなと思ってしまった。


 藍葉さんに向けられていた女性の視線が向いて身構える。くりっとした大きな目が頭から足元まで向けられて少し居心地が悪い。そんな心中を知る由もなく、女性は朗らかに笑う。


「へぇ、いいな〜。逸材拾ってきたねぇ」

「いいでしょいいでしょ」


 何がいいんだと呆れなながら、会話が落ち着いたところで挨拶を交わす。


 女性――千草ちぐささんも趣味で物作りをしていて、よくイベントに参加しているらしい。藍葉さんとはそれなりに付き合いが長いそうだ。挨拶を終えたところで千草さんは陳列されている商品を吟味し始める。


「やっぱりこの色、好きだなあ」


 千草さんは浅葱色のTシャツを手に取って眩しそうに目を細めた。その気持ちは共感に疎い自分でもわかる気がした。

 澄み渡るような青。なだらかなグラデーションがとても綺麗だった。夏に似合う清涼な色は鬱屈とした気持ちも軽くしてしまう。


 染色の様子を見せてもらった時のことを思い出す。


 十分に水を染み渡らせた布を染料を煮出した液に浸して染める。水洗いで余分な染料を落としたら、媒染浴を行って色を定着させ、再び水洗い。この過程を経て布が染まっていく。乾かして、染料を煮出した液液――染浴の濃度を上げて繰り返せば、色に深みが増してくる。


 玉ねぎの皮が染める鮮やかな黄色。茜で染めた見事な夕焼けの色。コチニールで染めた深い紫。彩られていく過程を知り、自然由来のものでこんなにも綺麗な色に染まるのだと知って珍しく興味が湧いた。


 中でも好きだったのが藍と浅葱色だった。深い海のような色彩と、快活な夏が見せる空の色。


「ね、いいよね。この色」


「あ、はい。似合うと思います」


 千草さんに似合いそうだと思って率直に返したら、ひどく驚かれてしまった。それも束の間で千草さんはニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべる。


「お、商売上手だね〜」

「そ、そういうつもりじゃ……」

「いや、普通に嬉しいよ。ありがと。これもらうね」


 そう言うと千草さんは満面の笑みを浮かべてTシャツを差し出す。戸惑いながらも料金を受け取り、機嫌良さそうな千草さんを横目に袋に包む。


「それじゃあ、他のところも回ってくるから。またね!」


 商品を手渡すと千草さんは颯爽とその場を後にした。まるで夏の夕立のような勢いで、呆気に取られて見送ることしかできない。


「相変わらずだねぇ」


 藍葉さんは苦笑いを浮かべ、手を振って見送った。それからもお客さんや仲間と思われる人が立ち替わりに訪れ、藍葉さんとともに訪れる人に合わせながら接客をこなしていた。見様見真似で接客をこなす。


 隙を見て昼食を確保しに出かけ、交代で休みを挟んでは他のブースを巡った。そうこうしているうちに一日が終わる。慣れないこともあって、二日間のイベントは怒涛の如く過ぎ去っていった。


「はあ〜、終わった終わった」


 開放感とやり切った感がこもった声を上げ、藍葉さんが両手を組んで体を伸ばす。当の俺は疲労が上回っていてそんな元気もない。


 最終日は帰りのこともあって早めに撤収の予定を立てていたが、最後の最後に来客が重なり、その慌ただしさといったらなかった。予定通りに会場を後にできたのは褒めてもらいたいところで。


 会場外の地面に座り混む俺に、いまだ元気そうな藍葉さんの声が降りかかる。


「お疲れ様。今日は助かったよ。もしかしたら過去いちばんの売り上げじゃないかな」


「……それはよかったですね」


 気後れもなくお礼を口にする藍葉さんに対してどう返せばいいかわからず、思いがけずぶっきらぼうな声が出てしまった。


 さすがに失礼だと思ったが、もはや遅い。少しだけ気まずさを覚えながら視線を上げると、見上げた先の藍葉さんは相変わらずに笑みを浮かべていた。ほっとしたのも束の間、続いた言葉に耳を疑った。


「それじゃあ、打ち上げと行こうか!」


「は?」


 再び漏れ出てしまった声は取り繕うことができないほどの不満が乗った声だった。

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