染まれ青藍
立藤夕貴
第1話
染まれるものと染まれぬものにどのような差があるのだろう。
そんなどうでもいいことを思い浮かべる。重い夏の空が今日は鉛色に埋め尽くされていた。すぐ目の前にある海もまた同じ色に染められている。せっかくの週末というのにもったいないと思った矢先、湿気た空気が鼻を掠める。雨が降るなと思った途端に雷鳴が轟いた。
あてもなく彷徨っていた足をわずかに止め、海辺から民家が立ち並ぶ市内に足を向ける。特別変わったところのない海沿いの道路歩いていると、いつものように視線を奪われた。
そこにあるのは曇天に似つかわしくない藍の色。深い色に染められた布が風に揺られてはためいている。吸い込まれるようにその光景をしばらく眺めていた。それこそ、雨に濡れても気にならないぐらいに。
「やっばッ」
そんな声が聞こえてきて我に返る。軒先に人影が現れ、干されていた藍色の布や衣服を半ばひったくるようにして回収していた。次々と取り込まれていて鮮やかな色彩が消えていく。
「君、こんなところにいたら濡れるでしょう」
再度、声が舞い込んできて現実に引き戻される。
ボサボサ気味の黒髪に無精髭を生やした男性が玄関から手招きをしている。年齢は三十代半ばといったところだろうか。着ているTシャツもパンツも少しくたびれた様子だが、それに反するような快活な声だった。何事かと思っているうちにもう一度男性が声をかけてきた。
「雷も鳴ってるし、早くこっちに来た」
そう言われて、ずいぶん頭や肩が濡れていることにようやく気がつく。傘なんて当然持っているわけもなく、このまま自宅に帰ろうものならずぶ濡れ決定だ。別にそれでもいいかと思ったのも束の間、雷鳴が力強さを増して轟き、肩を竦めた。
「よければ通り過ぎるまで雨宿りしてきなよ」
「あ、はい……。……すみません」
普段なら絶対に断るだろうなという自覚を持ちながら、誘われるがままに戸口に足を向ける。
男性の家は平家の古民家のようで玄関は思ったよりも広かった。こうなったのは雨のせいで仕方ないと心の中で言い訳をしていると、男性が家の奥から戻ってきてタオルと藍色のTシャツを手渡してくれた。
「ほら、拭いて着替えて。風邪引くよ」
「あ、ありがとうございます……」
男性の勢いに流されるまま、タオルで濡れた頭を拭くことにする。どんどんと強くなっていく雨音と雷鳴を耳にして、雨宿りさせてもらってよかったのだろうと自分の中で結論づけた。不躾と思いつつ、家の中に視線を巡らせる。
落ち着いた雰囲気の古民家には見たことのない道具が置かれている。日常の中に非日常を感じて、どこか不思議な雰囲気だった。
「君、たまにここの軒先見てるよね」
そんな声がしてきて驚いた。席を外したと思っていた男性がいつの間にか柔らかな笑みを浮かべて立っている。
「え、いや……その。すみません」
言われたことがまさに図星で、思わずしどろもどろになってしまう。まさか、見られていたとは露知らず、気まずさと恥ずかしさが迫り上がっていた。男性は笑みに苦味が混じる。
「ああ、いや、ごめん。別に責めてるわけじゃなくて。若い人が物珍しそうに見てるから、なんだか気になってさ。こういうの興味あるの?」
「いや、なんというか。……単純に色が綺麗だと思って」
この通りをはじめて通った時、
自分の言葉に男性は軽く目を見張った。それから、嬉しそうに笑う。
「そっか。個人的な趣味で染色してるんだけど。そのTシャツも藍染めなんだ」
そう言われて、改めて手渡されたTシャツに視線を落とす。深い藍の色は落ち着いた色合いで、日常で着ても何の和感もなさそうだ。
「何もないところで悪いけど、雨が過ぎるまでゆっくりしてって。何かあったら声かけてもらって大丈夫だから」
男性はグラスを手渡すと家の中に戻っていった。グラスに入っている淡い緑の飲み物は冷茶だろうか。どことなく取り残されたような気持ちになりながら、濡れた頭をタオルで拭く。
冷たい空気がどこからともなく吹いてきて、雨に濡れた肩を容赦なく冷やしていく。躊躇いはあったものの、新品と思われるTシャツに袖を通すことにした。
夕立は雷鳴を伴いながら、しばらく激しく降り続けていた。
* * *
「わざわざ返しに来てくれたの? そのまま貰っちゃってよかったのに」
翌週の土曜日、Tシャツを返しに男性の家を訪れ、開口一番に言われたのはそれだった。いや、一言もそんなこと言っていないですよと反論したかったが、口にはしなかった。
「いや、貰うわけにはいかないですし」
「何枚もあるから、別に一枚ぐらいどうってことないんだけど」
それとこれとはまた違う話のような気がするが、反論する気力もない。自分と違って社交的なのだとは思うが、距離感が近くてやりにくい。
「まあ、嫌じゃなければ持っててよ。興味持ってもらえて嬉しいし。いつも気にしてくれてたから、お礼代わりというか」
「あの、そのこと誰にも言わないでください」
ついて出てしまった言葉に気がついてハッとするが、今更だった。男性はあからさまに疑問符を浮かべている。次いだ言葉もまさにそれと同じ。
「なんで?」
「……だって、軒先を見てたなんて、ただの不審者じゃないですか」
人目を盗んで他人の家の軒先を見ていたなんて不審者でしかないなのに、そんなことを誰かに知られたら居た堪れないことこの上ない。ただでさえ浮いているのだ。変な噂が広まってはたまったものではない。
「それなら尚更、それを受け取って欲しいなあ。ついでに時間があるなら、おっさんにちょっと付き合ってもらえると嬉しいんだけど」
男性は悪戯を思いついた少年のような意地悪い笑みを受けべる。この誘いから逃げたらろくなことにならないんじゃないかと思い至って、返そうと思っていたTシャツを引っ込めた。それを見て男性は満足そうに笑う。
「ああ、そうだ。自己紹介がまだだった。俺は
「……
「へえ、珍しい名字だね。高校生かな?」
「ええ、まあ……」
名字は俺も人のこと言えないんだけど、と笑いながら藍葉さんは家の中に入るよう誘ってくる。仕方なしについていくことにすると、とある扉の前で藍葉さんは柔和な笑みを浮かべた。
「今ちょっと忙しい時期で。片付いてなくて申し訳ないけど、そこは目を瞑って」
案内された部屋を目の当たりにして、非難めいた思いは消えた。
黄、赤、緑、青、藍。部屋の中には色とりどりの布や小物が溢れていた。折り重なったTシャツが色の違いで見事なグラデーションを作っている。小物類はランチョンマットやストール、キャミソールなど多岐にわたっていた。
「軒先に干してたのがこうなってるんだよ。イベントで販売してるんだ。まあ、これを見せたかっただけなんだけど」
「……これ、全部一人で作ってるんですか?」
「染色とかTシャツ類は俺が担当だけど、小物類は相方が作ってる」
言われて腑に落ちる。小物類は明らかに男向けではないものが多かったので、相方という人は女性なのだろう。分かち合える人がいるんだなと思うと、勝手ながらに裏切られた気分になる。そんな自分の心中など知らないだろう、藍葉さんは嬉々とした様子で話を続けた。
「それでさ、今イベント前の繁忙期なんだけど。相方がちょうど体調崩しちゃってさ。準備に人手が足りなくて困ってるんだよねぇ」
「は?」
意図を察して、不満の乗った声が思わずついて出る。藍葉さんは意に介さず、親指と人差し指をくっ付けて円の形を指で作り、にやりと不敵な笑みを浮かべた。
「ちょーっと手伝ってくれると嬉しんだけど。手伝ってくれた分、お礼も弾むよ?」
見ず知らずの他人にここまでぐいぐいくるのは想定外だった。あの緩い空気はこちらを油断させるのものだったのだろうか。そう考えたものの、目の前で悪意のなさそうな笑みを浮かべている様子を見ると、不思議とそれはないかという気持ちになる。
弱みというほどではないとはいえ、こちらの恥ずかしい面を知られているので断りにくい。しかし、この状況から逃れたい思いが上回り、恥を忍んで打ち明ける。
「……俺、美術3なんですけど」
「大丈夫。何か作ったりするわけじゃないから。商品の梱包とか、発送準備を手伝ってもらうだけだから」
藍葉さんは予想に反してからりと笑ってみせた。注がれる期待の眼差しに逃れ切る余地はなさそうだと思いながら返事をした。
「……ちょっと考えさせてもらっていいですか?」
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