真冬のアナグマ
青いひつじ
第1話
僕はゴミ溜めの中から、ひとつの袋を手に取った。
「エラ、見つけた。誰も来てないな」
『うん。大丈夫』
手に持った袋を服の中へ隠し、そぉっと窓を開く。入ってきた軽くてぬるい風が頬を掠めた。空は晴れて、雲ひとつない。
窓の柵に足をかけると、4メートル下のトタン屋根めがけて飛び降りた。エラも続く。僕は下から手を振り、降りてくるよう指示を出す。エラは真似をして柵に足をかけた。そして前屈みになり下を見ると、怖くなったのか体を引っ込めてしまった。
「大丈夫。にぃちゃんが受けて止めてやるから」
両腕を広げる。エラは足をかけたまま深呼吸をすると、窓枠を掴んでいた手にグッと力を入れ、飛び降りた。これは1年前。アスファルトの隙間に黄色い花が咲く、ある春のことだった。
ここは浩然団地(はおらんだんち)。
白い横長の住戸が4棟、内側を隠し、四角を作るようにして建っている。高さは7階建て。初めて見た人に、ただの集合住宅だと紹介しても、決して疑うことはないだろう。しかしその内情は、長閑な団地とはかけ離れていた。
この団地が建つ区域は、重度警戒発令区域に指定された、いわばスラム街だ。隠された内側には、今にも崩れ落ちそうなバラックが大量に建ち並び、ゴミと人が共生している。ここにいるのはみな、行き場をなくした者たち。住民たちは街に出ることはなく、団地の中でだけで生活をしていた。
僕もこの浩然団地の住人である。エラと、病気で寝たきりの父と暮らしていた。母は僕たちを捨て、知らない誰かと遠くの国へ行ってしまった。僕は、団地内で盗みをしながら生活していた。生きていくために、そうするしかなかった。
初めて盗んだのは、友人の家にあった腐りかけの林檎だった。5歳の時だ。僕は机の上に2つ転がっているのを見つけると、友人が目を離している隙に、それを腹の中へ隠した。
家に帰ると「友達から貰った」と嘘をついて、盗んだ林檎を父とエラに見せた。ふたりは目を輝かせて喜んだ。父とエラは、毎日何を持って帰ってくるのかと楽しみにしていた。
その頃から僕は、盗むことが正しいことだと思うようになった。だって、盗めば盗むほど、ふたりは喜んで褒めてくれたから。腕は、みるみると上達していった。
生ぬるい風が、僕を慰めるように頬を撫でた。僕は8歳になった。
転がったブロックに座り、エラのことを思い出していた。見上げた空は、1年前のあの時と同じ、晴れて、雲ひとつない青空だった。ただひとつ違うのは、僕の隣に、いや、この世にエラがいないということ。
盗みを始めて少し経った時だった。エラが、自分も行きたいと言い出した。僕たちは、ふたりで一緒に盗みをした。エラもなかなかの腕の持ち主だった。小さな体を使って、僕が入れないような隙間から侵入した。しばらくして僕たちは、別々に盗みを行うようになった。
ある部屋に向かう前、エラは『びっくりするものを持って帰ってくるから、楽しみに待ってて』と笑っていた。そして、1人で忍び込んだ部屋で、殺されてしまった。銃声が聞こえ、僕はエラが侵入した部屋へ走って向かった。到着すると、玄関には頭から血を流し倒れたエラと、スーツを着たひとりの男の姿があった。男は僕を見つけるとじりじりと近づいてきて、殺されると思った僕は身構えた。しかし男は拳銃を胸にしまうと、僕に契約を持ちかけてきた。
一番に思ったことは、“殺されないでよかった”だった。僕はこの時、自分のことしか頭になかった。もちろん、大切な妹の死は悲しかった。でも、もっと悲しかったのは、頭の半分で“この世界で生きていくためにどうすればいいか” を考えている自分がいたことだった。
きっとエラが死んだと同時に、僕の心も死んでしまったんだ。水を一切受け付けない土のように、すっかり乾ききってしまった。そうでないと、自分の妹を殺した男に契約を持ちかけられて『はい』と答えはしないだろう。
契約は、男の命令に従い盗みを行うこと。そして男に逆らった時には殺されるという内容だった。
男の命令は最初は、肉や魚、調味料など生活に必要なものを盗んでこいというものだった。そんなことは、僕にとっては容易い依頼だった。いつも要望以上のものを見つけて届けてやった。なるべく3日以内に。
男は、素直に言うことを聞く僕をとても気に入った。いつも大袈裟に僕を褒めた。『お前みたいな天才は初めて見た』と言った。自分のことをそんな風に言って頭を撫でてくれたのは、この男が初めてだった。僕は、盗みの技術を上げていった。そうしている時だけは、何も考えなくてすんだ。
頻繁に起こる窃盗に、団地住民が不審に思い通報したが、警察は動こうとしなかった。
『アナグマでも出てるんだろ。最近、この辺りでよく発見されてるらしいぞ』
警察官たちはそう言って、鼻で笑うだけだった。
ある日男は"白い粉"が欲しいと言った。団地の第2棟には、薬物売買の中核的存在といわれる闇組織の根城があった。男の命令は、そこに侵入し、薬を盗んでこいというものだった。この頃の僕には、もう盗めないものはなかった。
青い夜。蔦のように張り付く外反管を掴んで、ゴキブリと一緒に壁を登った。
前よりもっと痩せ細った体は、とても登りやすかった。
まさか、5階の窓から誰かが侵入してくるなんて思わないのだろう。鍵はあいていた。無防備な窓から根城に侵入し、透明の袋に入った白い粉を3袋持ち帰った。男は喜んで、また僕を褒めた。
今でも時々分からなくなる。正しいと思って進んできた、この道の先に何があるのだろう。何が僕を待っているのだろう。優しいふりをするこの風は、僕の味方なのだろうか。それとも、ひとりぼっちの僕を嘲笑っているのだろうか。エラは、遠い空からこんな僕を見て、何を思っているだろう。初めてりんごを持って帰ったあの日のように、目を輝かせて僕の勇姿を見届けてくれているだろうか。
窓の外では赤い葉が舞っている。
息を吐くと白く染まって、灰色の空に溶けていく。色付く木々とは反対に、僕の手は、どんどん汚れていった。
部屋の主人と出くわせば、口封じのために殺すしかなかった。その時は必ず、ポケットに隠し持ったハンマーを使用した。幼い少女、父と同い年くらいの大人、老人、誰彼構わず殺した。初めてハンマーで人を殴った時は、腕に伝わる鈍い感覚が気持ち悪かった。しかし3人目を殴った時、僕の右腕はもう何も感じなかった。殴りかかってきた老人は撲殺した後、部屋に油を撒いて燃やした。
ある夜。僕は105号室にいた。男に呼び出されたのだ。窓の向こう、色のない世界の中、痩せ細った木々が並んでいた。風が強く吹いている。もうすぐ、冬が来る。
『ダックス。次は、121号室だ。そいつの部屋に入れば、青い箱があるはずだ。その箱ごと持って帰って来い』
ダックスとは、僕の隠し名だ。
『良かったな。お前の妹が欲しがっていた代物だ。俺が殺したお前の妹だよ。あいつの代わりに盗んでこい』
タバコを咥えたまま椅子にもたれ、男は甲高く笑った。男が放った血の通わない言葉にも、僕はもう、何も感じなかった。
翌日、言われた通り121号室へ向かった。鍵は閉まっていたので、ハンマーで窓ガラスを割って侵入した。部屋に入ってすぐ、机の上に置かれたティッシュ箱くらいの青い箱を見つけた。箱は軽々と持ち上がった。何が入っているのか気になって、ふたを開き、中を覗いた。入っていたのは、薄い紙に包まれた、茶色の板だった。同じものが10枚ほど入っていた。顔を近づけると甘い匂いがした。
「これ‥‥」
これはきっとチョコレートだと、僕は思った。チョコレートを見たことはなかったが、直感でそう思った。そして、僕の頭の中を、ひとつの記憶が駆け抜けていった。
『ねぇ、にぃちゃん。こんなにいっぱい盗んで大丈夫かなぁ』
「大丈夫さ。あのゴミ溜めから少し物が減ったって気づきやしない。それに僕たちが盗んでいるのは取るに足らないものだ。人にはもっと盗まれたくないものがある」
『なぁに?』
「夢とか信念とか、そういった目に見えないもの。そういうものは、誰の手にも触れられないように隠しておくんだ」
『リスがどんぐりを巣に貯めておくみたいに?』
「そうそう」
『じゃあ、にぃちゃんの夢はなに?』
花瓶を抱えたエラが僕に訊ねた。
「んー、なんだろー‥‥。あっ、チョコレート!チョコレートを食べることかな」
『チョコレート??なにそれ?』
「この世界にはチョコレートって呼ばれる、茶色くて甘いお菓子があるらしいんだ。それを食べてみたい。いや、匂いを嗅ぐだけでもいいな」
夢の話をしながら、盗んだものを抱えて歩いた帰り道。
箱を握る手に力が入った。世界が少しずつ滲んで、僕の頬を、冷たい何かが流れていった。
「‥‥エラはこれを見つけたんだ‥‥」
それはどんどん溢れて、止まることはなかった。エラの顔が頭の中に浮かんで、手をひらいて見つめた。真っ黒に染まった、自分の手を。
「僕は‥‥何をしているんだろう‥‥」
手のひらに、ぽとぽとと雫が落ちた。小雨が大雨に変わるように、手のひらはすぐにびしょびしょになった。
「ごめんエラ‥‥ごめん‥‥」
滲んでいく視界に、痛くなるほど目を擦った。
やっぱり、間違っていたのかな。
僕は、ふたりの笑顔が見たかっただけなんだ。
これが僕の生き方なんだと、そう言い聞かせて、生きてきたんだ。
僕の進んだ道は、正しい道じゃなかったのかな。
崩壊してしまった水道管からは、絶えず水が流れ続け、僕はその場に立ち尽くすことしかできなかった。
しかし、ここに長くはいられない。
「早く出なくちゃ」
腕で目を擦り、箱を持ち上げようとした時だった。背後に違和感を感じ、僕は、動きを止めた。正確には、背中の左側。
『可哀想に。誰も教えてくれなかったんだなぁ。盗みは悪いことだって』
湿った低い声のあとに、カチャと、鉄の音が響いた。
ポケットのハンマーに手をかけた僕。
その瞬間、部屋には銃声が響き渡り、僕は横たわった。
窓の外は雪が降って、柵に止まっていた鳥が飛び立っていくのが見えた。
翌日の浩然団地。
『昨日この団地から銃声が聞こえたと、近隣住民から連絡があった。何か知っているか』
部屋から出てきたのは、ジャージ姿の太った男。
『いいえ、知りません。アナグマじゃないですか?最近人間のものを盗んでるって、噂があったじゃないですか。アナグマなら殺してもいいんですもんね?』
腐敗臭を纏ったその男は、ぎっとりと不気味な笑みを浮かべ訊ねた。
『ばかが。こんな真冬にアナグマが出るものか。もういい』
ふたりの警察官は立ち去り、部屋の扉はパタンと閉められた。
真冬のアナグマ 青いひつじ @zue23
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます