【SF短編小説】彼女の量子力学的な恋、あるいは多世界解釈のロマンス(約7,900字)
藍埜佑(あいのたすく)
【SF短編小説】彼女の量子力学的な恋、あるいは多世界解釈のロマンス(約8,000字)
◆第一章:「量子の扉、開かれし時」
「さあ、いよいよですね」
助手の
「ええ、紫苑。私たちの夢が、今まさに実現しようとしているわ」
碧眼は微笑んだが、その瞳の奥には不安の色が浮かんでいた。
「博士、本当にこの実験を行うんですか? 理論上は可能だとしても、実際に人間が別の並行世界に行くなんて……」
「科学の歴史は、不可能を可能にしてきた歴史よ。私たちも、その歴史の一部となるのよ」
碧眼は毅然とした口調で答えた。しかし、その声には僅かな震えが混じっていた。
「紫苑、最終チェックを頼むわ」
「はい、博士」
紫苑は慎重に装置の各部を確認していく。碧眼は、紫苑の仕事ぶりを見つめながら、密かに胸の高鳴りを感じていた。
(紫苑……あなたには言えないけれど、この実験には別の目的があるの)
碧眼の脳裏に、ある男性の顔が浮かんだ。彼女の婚約者だった男性。3年前、不慮の事故で命を落とした人物だ。
(もし、並行世界に行けるなら……あなたに会えるかもしれない)
碧眼の決意は固かった。科学者としての使命と、失った愛を取り戻したいという個人的な願望。その両方が、彼女をこの実験へと駆り立てていたのだ。
「博士、チェック完了です。異常はありません」
紫苑の声で、碧眼は我に返った。
「ありがとう、紫苑。では、実験を開始するわ」
碧眼は深く息を吸い、装置のスイッチに手をかけた。
「カウントダウンを始めます。5、4、3、2、1……」
スイッチが入れられた瞬間、装置から眩い光が放たれた。その光は、まるで生き物のように蠢き、部屋中を覆い尽くしていく。
「博士! これは……!」
紫苑の声が聞こえた直後、碧眼の意識は闇に包まれた。
◆第二章:「鏡の向こうの愛の形」
碧眼が目を覚ますと、そこは見知らぬ部屋だった。いや、見知らぬというわけではない。どこか既視感のある、しかし確かに「違う」部屋。
「ここは……私の寝室?」
起き上がった碧眼は、周囲を見回した。確かに自分の寝室によく似ているが、細部が微妙に異なっている。壁の色、家具の配置、そして……
「まさか……成功したの……?」
碧眼は興奮を抑えきれず、ベッドから飛び降りた。そして、鏡の前に立つ。
「……!」
鏡に映った自分の姿に、碧眼は息を呑んだ。そこには確かに自分がいた。しかし、髪の色が違う。そして、左右が逆になっているのだ。
「並行世界……本当に来てしまったのね」
碧眼は、自分の理論が正しかったことに喜びを感じる一方で、不安も募っていた。果たして、この世界で自分はどのような存在なのか。そして、あの人は……
ドアをノックする音が聞こえた。
「はい?」
碧眼が答えると、ドアが開いた。そこに立っていたのは……
「紫苑!?」
確かに紫苑だった。しかし、この世界の紫苑は、碧眼が知っている紫苑とは明らかに違っていた。
「博士、どうかしましたか? そんなに驚いた顔をして」
紫苑は、まるで当然のように碧眼に話しかけてきた。
「あ、いや……ちょっと変な夢を見ただけよ」
碧眼は咄嗟にそう答えた。状況を把握するまでは、まだ正体を明かすわけにはいかない。
碧眼は混乱しながらも、紫苑の後を追った。廊下を歩く紫苑の姿に、碧眼は思わず目を奪われた。
紫苑は、きちんと整えられたメイド服に身を包んでいた。スカートのフリルが、彼女の動きに合わせて優雅に揺れている。艶やかな黒髪は、背中で大きなリボンに結ばれ、歩くたびに軽やかに揺れていた。
「博士、朝食の用意ができておりますが、お着替えはよろしいでしょうか?」
紫苑が振り返ると、その大きな瞳に碧眼の姿が映り込んだ。長いまつげに縁取られたその瞳は、深い紫色をしており、まるで宝石のように輝いていた。
「あ、ああ。このままでいいわ」
碧眼は、思わずどもってしまった。助手として見慣れていたはずの紫苑が、メイドの姿でこんなにも魅力的に見えるとは。その姿は、まるで絵画から抜け出してきたような優美さだった。
紫苑の唇が、柔らかな笑みを浮かべる。その表情があまりにも愛らしく、碧眼は思わず目を逸らしてしまった。
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
紫苑が軽やかに方向転換すると、ほのかな花の香りが漂った。碧眼は、その香りに誘われるように紫苑の後を追った。
(この世界では、紫苑が私の……メイド? 助手ではなく?)
碧眼の頭の中は混乱していたが、目の前の紫苑の姿に、どこか言いようのない心地よさを感じていた。彼女の仕草の一つ一つが上品で洗練されており、まるで長年の経験を積んだ一流のメイドのようだった。
紫苑が優雅に廊下を歩く姿を見ながら、碧眼は自分の心臓の鼓動が少し速くなっていることに気づいた。そして同時に、この並行世界での生活が、思っていた以上に複雑なものになるかもしれないという予感が、彼女の心をよぎったのだった。
◆
碧眼が食堂に足を踏み入れた瞬間、その豪華さに息を呑んだ。広々とした部屋の中央には、美しく磨き上げられた楢の木のテーブルが置かれていた。その上には、まるで絵画のような朝食が用意されていた。
白い陶器の大皿には、完璧に焼き上げられたクロワッサンが3つ、黄金色に輝いている。その隣には、薄くスライスされたスモークサーモンが、レモンとケッパーを添えて優雅に盛り付けられていた。
小さな銀の器には、つやつやとしたキャビアが盛られ、その周りにはミニパンケーキが放射状に並べられている。パンケーキの上には、きめ細かいクリームチーズが丁寧に塗られていた。
フルーツの盛り合わせも見事だった。真っ赤なイチゴ、みずみずしい巨峰、黄金色のマンゴー、そして希少な白イチジクが、クリスタルのボウルの中で艶やかに輝いていた。
テーブルの中央には、銀のティーポットが置かれ、そこからは香り高い紅茶の湯気が立ち昇っていた。その隣には、蜂蜜とレモンのスライスが添えられた小さな皿が用意されていた。
窓からは柔らかな朝の光が差し込み、テーブルの上の銀食器を輝かせていた。部屋の隅には、優雅な曲線を描いたアンティークの飾り棚が置かれ、そこには見事な陶磁器のコレクションが飾られていた。
碧眼は、思わず深呼吸をした。空気中には、焼きたてのパンとコーヒーの香りが漂っている。彼女は、自分がこの世界でかなり裕福な生活を送っているらしいことを悟った。
「博士、お好みのものをお選びください」
紫苑の声に我に返った碧眼は、少し戸惑いながらもテーブルに着いた。彼女は、この贅沢な朝食を前に、自分の置かれた状況の不思議さを改めて感じずにはいられなかった。
(この世界の私は、こんな生活をしているのね……)
碧眼は、慎重にナプキンを膝の上に広げながら、この並行世界での自分の人生について、さらなる興味を抱き始めた。
「紫苑、ありがとう。それで、今日の予定は?」
碧眼は、さりげなく情報を集めようとした。
「はい、午前中は研究所での実験です。午後は……」
紫苑の言葉が途切れた。その表情が、突然悲しみに曇る。
「午後は、あの方の三回忌です」
「あの方?」
思わず碧眼は聞き返してしまった。紫苑は不思議そうな顔をした。
「博士、大丈夫ですか? 婚約者様のことです」
碧眼の胸が高鳴った。この世界でも、彼は亡くなっているのか。しかも死んでから3年……つまり、時間軸はほぼ同じということになる。
「ああ、そうね。すまないわ、ちょっとぼんやりしていて」
碧眼は取り繕いながら、朝食を取り始めた。しかし、彼女の頭の中は、次々と湧き上がる疑問で一杯だった。
(この世界の私は、どんな研究をしているの? そして、彼の死因は……同じなのかしら)
碧眼は、慎重に行動しながら、この世界のことをもっと知る必要があると感じていた。そして何より、自分がここにいる本当の理由を、誰にも悟られてはいけない。
朝食を終えた碧眼は、紫苑に導かれて研究所へと向かった。研究所は、彼女が知っているものとは全く異なっていた。最新の設備が整い、多くのスタッフが忙しく働いている。
「博士、実験の準備が整いました」
ある助手が碧眼に声をかけた。
「ああ、ありがとう。で、今日の実験の内容は……?」
碧眼は、さりげなく尋ねた。助手は少し不思議そうな顔をしたが、すぐに説明を始めた。
「はい、量子もつれを利用した瞬間転送装置の実験です。理論上は可能なのですが、まだ成功していません」
(なるほど、この世界の私も似たような研究をしているのね)
碧眼は、自分の世界との共通点を見出し、少し安心した。しかし同時に、新たな不安も芽生えた。
(もし、この世界の私が実験に成功したら……元の世界に戻れなくなるかもしれない)
碧眼は、自分の置かれた状況の危うさを痛感した。しかし、まだやるべきことがある。彼女は、実験を進めながら、この世界での自分の過去を探る必要があった。
そして何より、あの人に会うための手がかりを見つけなければならない。
◆第三章:「交差する運命の方程式」
実験が一段落すると、碧眼は研究所のデータベースにアクセスした。この世界の自分の研究内容を詳しく知る必要があったからだ。
データを見ていくうちに、碧眼は驚愕の事実に気づいた。
(これは……並行世界間の転移理論!? しかも、かなり進んでいる……)
碧眼は、画面に映し出された複雑な方程式を食い入るように見つめた。そこには、彼女が年月をかけて築き上げてきた理論が、さらに洗練された形で記されていた。
(この世界の私は、すでに並行世界への扉を開こうとしているのね)
その時、碧眼の背後から声がした。
「博士、もうお時間です」
振り返ると、紫苑が立っていた。その表情は、どこか悲しげだ。
「ああ、そうね。行きましょう」
碧眼は、婚約者の三回忌に向かう準備をした。心の中では、この世界の自分の研究成果に興奮しつつも、これから向かう場所への不安が渦巻いていた。
車で30分ほど走ると、彼らは静かな墓地に到着した。碧眼は、紫苑に導かれるまま墓前に立った。
墓石には、確かに彼の名前が刻まれていた。「
「博士、お線香をお持ちしました」
紫苑が、静かに碧眼に線香を差し出す。碧眼は、自動的にそれを受け取り、墓前に捧げた。
しばらくの沈黙の後、紫苑が静かに話し始めた。
「博士、天馬様のことを思い出すたびに、私は……」
紫苑の声が震えている。碧眼は、思わず紫苑の方を見た。
「紫苑……あなた、天馬のことを?」
碧眼の問いかけに、紫苑は驚いたように目を見開いた。
「博士、どうして急に……? 私と天馬様のことは、もうお許しいただいたはずです」
碧眼は、今度こそ本当に驚いた。この世界では、紫苑と天馬が……?
「ごめんなさい、紫苑。ちょっと記憶が曖昧で……もう一度、二人のことを聞かせてくれないかしら」
紫苑は、少し戸惑いながらも、静かに話し始めた。
「私と天馬様は、博士の紹介で知り合いました。最初は、ただの友人でしたが……いつしか、お互いに特別な感情を抱くようになってしまって」
紫苑の目に、涙が浮かんでいる。
「でも、博士への罪悪感から、二人とも誰にも言い出せずにいました。そして、あの事故が起きて……」
碧眼は、言葉を失った。この世界では、天馬と紫苑が愛し合っていたのか。そして、自分はそれを知っていて、許していたというのか。
「紫苑、私は……怒らなかったの?」
「最初は、博士も激怒されました。でも、天馬様の遺言を読んで、私たちのことを許してくださったんです」
紫苑の言葉に、碧眼は深い衝撃を受けた。同時に、この世界の自分の器の大きさに、畏敬の念すら感じた。
「そう……私は、許したのね」
碧眼は、静かにそう呟いた。そして、なぜ自分がこの世界に来たのかを、改めて考え直し始めた。
(私は、天馬に会いたくてここに来た。でも、それは間違いだったのかもしれない)
碧眼は、静かに墓石に手を当てた。冷たい石の感触が、彼女の心を少しずつ落ち着かせていく。
「紫苑、ありがとう。あなたの気持ち、そして天馬の気持ち……きちんと受け止めたわ」
紫苑は、涙ぐみながらも微笑んだ。
「博士……」
二人は静かに墓前を後にした。帰り道、碧眼の頭の中では、さまざまな思いが交錯していた。
◆第四章:「真実という名の特異点」
研究所に戻った碧眼は、自室に籠もった。彼女は、この世界での自分の研究データを熱心に読み込んでいった。
(並行世界間の転移……この世界の私は、すでにかなり進んだ段階まで来ているわ)
しかし、データを読み進めるうちに、碧眼は奇妙な違和感を覚え始めた。
(待って、これは……)
碧眼は、急いでキーボードを叩き始めた。彼女は、自分の知識を総動員して、この世界での研究を検証し始めたのだ。
数時間後、碧眼は愕然とした顔で椅子から立ち上がった。
「嘘……こんなことが」
その時、ノックの音が聞こえた。
「博士、よろしいでしょうか」
紫苑の声だった。碧眼は深呼吸をして、平静を装った。
「ええ、入って」
紫苑が部屋に入ってくると、碧眼は真剣な表情で彼女を見つめた。
「紫苑、あなたに聞きたいことがあるの」
「はい、なんでしょうか」
「私の研究……本当の目的を知っているわね?」
紫苑の表情が、一瞬凍りついた。
「博士、それは……」
「正直に答えて。私は、何のためにこの研究を続けているの?」
紫苑は、しばらく黙っていたが、やがて決意したように口を開いた。
「博士は……天馬様を生き返らせるために研究を続けているんです」
碧眼は、予想通りの答えを聞いて、深く息を吐いた。
「やはりそうなのね……。並行世界から、生きている天馬を連れてくるつもりだったのね」
「はい。でも、それは……」
「倫理的に問題がある。そして、科学的にも危険すぎる」
碧眼は、紫苑の言葉を遮って言い切った。
「博士、どうして急に……」
「落ち着いて聞いて、紫苑。私は本当の碧眼博士じゃないの。私は、別の並行世界からやってきた碧眼なの」
紫苑は、驚きのあまり言葉を失った。碧眼は、自分がこの世界に来た経緯を簡潔に説明した。
「そんな……じゃあ、私たちの博士は……」
「おそらく、私の世界にいるはずよ。そして、私たちは早く元の世界に戻らなければならない」
碧眼は、自分の発見を紫苑に伝えた。この世界での碧眼博士の研究は、並行世界の壁を完全に崩壊させかねない危険なものだった。それは、全ての世界の存在を脅かす可能性があったのだ。
「紫苑、私たちには、やるべきことがあるわ」
碧眼の眼差しは、強い決意に満ちていた。
◆第五章:「愛と論理が導く最終解」
碧眼と紫苑は、研究所の中央にある巨大な装置の前に立っていた。それは、並行世界転移装置の最終形態だった。
「紫苑、準備はいい?」
「はい、博士」
二人は、緊張した面持ちで互いを見つめた。
「この装置を起動すれば、私たちはそれぞれの世界に戻れるはず。そして同時に、この危険な研究データも全て消去されるわ」
碧眼は、装置のコントロールパネルに手をかけた。しかし、その時、警報が鳴り響いた。
「警告! 未知のエネルギー反応を検知! 並行世界の壁が崩壊し始めています!」
「まさか、もう始まっているの!?」
碧眼は慌てて、モニターを確認した。そこには、複数の世界が重なり合い、混沌としていく様子が映し出されていた。
「紫苑、急いで! これ以上放置すれば、全ての世界が……」
碧眼の言葉が途切れた。モニターに、見覚えのある姿が映ったのだ。
「天馬……?」
碧眼の目が、モニターに釘付けになった。そこに映し出されていたのは、彼女の心を揺さぶる光景だった。
彼女の声は、かすかに震えていた。確かにそこには、天馬の姿があった。しかし、それは一人ではない。無数の天馬が、それぞれの世界から、この混沌の中心に引き寄せられていくのだ。
モニターには、まるで万華鏡のように、無数の並行世界が重なり合う様子が映し出されていた。その中心には、一つの輝く点があり、全ての世界がそこに収束しようとしているかのようだった。
そして、その光の中から、次々と天馬の姿が浮かび上がる。ある者は笑っており、ある者は悲しげだ。スーツ姿の天馬、白衣を着た天馬、宇宙服の天馬……様々な姿の天馬が、まるで光の糸に引かれるように、中心へと吸い込まれていく。
「これは……並行世界の壁が完全に崩壊しているのよ」
碧眼は、震える声で呟いた。彼女の科学者としての冷静さと、天馬への思いが、激しく衝突している。
モニターの中で、ある天馬と別の天馬がすれ違う。その瞬間、二つの姿が重なり、新たな天馬が生まれる。それは、まるで量子の重ね合わせが、肉眼で見えるようになったかのようだ。
「天馬……私の天馬はどこ……?」
碧眼は、思わず手を伸ばした。しかし、その手はモニターの冷たい表面に阻まれる。
その時、一人の天馬が、まっすぐ碧眼の方を向いた。彼の目には、深い悲しみと、どこか諦めのような色が浮かんでいる。碧眼は、息を呑んだ。
(これが、私の世界の天馬……?)
しかし次の瞬間、その天馬の姿も、渦の中に吸い込まれていった。
「博士! このままでは全ての世界が……!」
紫苑の必死の叫び声が、碧眼の意識を現実に引き戻した。彼女は、最後に映し出された天馬の表情を心に焼き付けながら、決意の表情を浮かべた。
「だめよ、止めなければ……!」
碧眼の指が、装置のボタンに伸びる。それは、全てを元に戻すと同時に、彼女の夢も打ち砕くボタンだった。
碧眼は、モニターに映る無数の天馬たちに、心の中でそっと語りかけた。
(さようなら、天馬。どの世界にいても、あなたの幸せを祈っているわ)
そして、彼女は迷いなくボタンを押した。
すると、装置から強烈な光が放たれ、部屋中を包み込んでいく。
「紫苑! 私の世界に着いたら、すぐに装置を破壊して!」
「はい! 博士も気をつけて!」
二人の声が、光の中に消えていった。
碧眼が目を覚ますと、そこは彼女の本来の研究室だった。彼女は急いで立ち上がり、装置に駆け寄った。
「オーバーライド・コード:Δx2-π」
碧眼が呟くと、装置が起動し始めた。これは、緊急時に全システムを停止し、データを完全に消去するためのコードだ。
装置が次第に機能を停止していく中、碧眼は静かに目を閉じた。
(天馬……私たちは、それぞれの世界で生きていかなければならないのね)
彼女の頬を、一筋の涙が伝った。
その時、部屋のドアが開く音がした。
「碧眼博士! 大変です!」
助手の声だった。碧眼が振り返ると、そこには……
「紫苑!?」
確かに紫苑だった。しかし、彼女の表情には、先ほどまでの出来事を共有した様子はない。
「博士、大変なことが起きています。並行世界の……」
「ああ、もう大丈夫よ。全て、解決したわ」
碧眼は、穏やかな笑みを浮かべた。
「え? でも、どうやって……」
「それはね、長い話になるわ。でも今は、新しい研究を始める時よ。人々の幸せのために、私たちにできることをね」
紫苑は、混乱した様子だったが、碧眼の微笑みに救われるように頷いた。
「はい、博士」
碧眼は、窓の外を見た。そこには、いつもと変わらない世界が広がっていた。しかし、彼女の心の中では、確かに何かが変わっていた。
(これが、私の選んだ道。そして、これからも選び続ける道)
碧眼は、新たな決意と共に、研究室の中央へと歩み寄った。彼女の人生の新たな章が、今まさに始まろうとしていた。
(了)
【SF短編小説】彼女の量子力学的な恋、あるいは多世界解釈のロマンス(約7,900字) 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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