金木犀のふりかけご飯(季節の便り~12ケ月/9月・初恋)
源公子
第1話 金木犀のふりかけご飯
「今ね、優くんのお嫁さんにあってきたの。凄く可愛い子だった」
ポッカリと目を開け、お母さんはそう言って幸せそうに笑って死んだ。
お葬式の後、火葬場でお母さんの焼ける煙がたった。それを見たくなくて足元ばかり見てたのに、煙の影が雲みたいに足元をゆらゆらと翳らせた。
耐えられなくて、走って家に帰って来た。だからお母さんの骨は拾わなかった。
「お母さんのバカ! 僕のお嫁さんに会いたいなら、僕が結婚するまで生きてれば良いじゃないか」
昨日までお母さんのいた部屋の、障子戸の前の縁側に座って僕は泣き続けた。
もう秋だ。お母さんの部屋の正面にある庭の金木犀も少し散り出して、門から続く敷石にも、お祖父ちゃんの自慢の枯山水の池と灯籠にも、オレンジ色の雪みたいに振りそそぎ、庭を甘い香りで満たしていた。
金木犀はお母さんの一番好きな花で、この辺では毎年お彼岸の頃に咲く。
いつもなら後ろの障子を開けて「今年も咲いたわねえ」って笑うのに。金木犀の匂いが、擦った目の涙に染みて痛くなる。僕はさらに泣き続けた。
「お兄ちゃんなんで泣くの」
小さな丸い声が降ってきた。
顔を上げると、おかっぱ頭の小さな女の子が立っている。
赤い長靴に、赤い梅模様の綿入れのちゃんちゃんこ。チェック模様のつなぎのズボン。何故か季節が一つ進んだ格好だ。手におままごとの道具らしいプラスチックのザルを持っている。
「男の子は泣いちゃダメなんだよ。おばあちゃんがそう言った」
済ました顔でそうゆうから、慌てて涙を拭った。
「わあ、いい匂いのお花。トイレの神様の匂いだ」
「トイレの神様?」
「お兄ちゃん知らんの?トイレにはすごくきれいな女神様がいるんだよ。
アーちゃん、夜、お化けが怖くて、1人でトイレ行けないの。
そしたらおばあちゃんが『これはトイレの神様のお花だよ。トイレの神様が守ってくれるから大丈夫』って、この匂いのお花飾りおいてくれたの」
それは「トイレの芳香剤」ではなかろうか……。
「アーちゃん、さっきその女神様に会ったの。着物着た物凄いべっぴんさんで、おんなじ匂いがしたから間違いないの。
そいで、『私の庭で泣いている男の子がいるから、一緒に遊んであげて』って言った。だからアーちゃんは、お兄ちゃんと遊ぶです」
そう言うと、その子は持っていたざるの中から縁のかけた赤い漆のお椀を出して、庭の枯山水の砂の中にざくりと突っ込んだ。
うわあっ、お祖父ちゃんが庭師雇って綺麗にしてる枯山水なのに!
飛び石の上に散った金木犀の花を拾って載せて、赤いお椀をお箸と一緒にその子は僕に差し出した。
「はい、ご飯です。アーちゃんおかかのふりかけご飯大好き。ご飯食べたら涙が止るです」
えーと、これは世にゆう“ねこまんま”……。
なんでこんなことに? とは思ったが、その子があまりに真剣な顔をしているので、僕は生まれて初めて“おままごと”の相手をするはめになってしまった。
◇
「すまん。金借りた上に車で送ってもらったりして。急に田舎の妹が上京して来て、給料日前だったから、ホント助かった」
助手席で頭を下げまくるバイト先の遠藤先輩に、運転しながら僕は言った。
「別に良いですよ、どうせ実家に帰る途中の道ですから。だけど妹さん、今時迷子になったなんて、携帯のアプリ使えないんですか?」
「一応教えたんだが、昔からものすごい方向音痴で、地図の見方がどうしてもわからないらしいんだ。修学旅行でも迷子になって大騒ぎになって、危ないから二日目からはずーっと担任の先生と手を繋いで見学したくらいだって。そういやあの時も、金木犀の花を探してて、迷子になったって言ってたな」
「金木犀なんてどこでも咲いてると思った。北海道じゃ咲かないんですか?」
金木犀は秋の花だ。秋の訪れとともに、涼しくなった空気が花を咲かせて、周り中を香りで満たす。
香りが邪気を払うからと神社に植えられることが多く、強い香りは「あの世の花」とも、月から地上に伝わった「仙木」とも言われる。
お母さんが一番好きだった花だ。山間の僕の実家では毎年9月のお彼岸のお母さんの命日頃に満開になる。1週間ほどで散ってしまうので、確かに確実に見ようと思ったら難しい花かもしれない。
金木犀の花言葉は、隠世・気高い人・謙虚・謙譲・誘惑・陶酔・真実
――そして初恋。
◇
「今豚汁作ります。ちょっと待っててください」
穴の空いたザルの中には、縁のかけた紅い漆の茶碗と木のお椀。お箸が二つ。
古いたわしにスライサー、醤油入れ。短くなったヘラ、底が凹んだ小さなお鍋。みんな使い古しのもののようだ。
画用紙に書いて、切り抜いた段ボール紙に貼り付けた、白菜、なす、トマト、ジャガイモ、にんじん、とうもろこし、豆腐とわかめ。目玉焼き。おばあちゃんの手作りらしい。
驚いた。ジャガイモやにんじんをタワシを使ってちゃんと洗うしぐさをする。
絵に描いたじゃがいも、玉ねぎ、にんじん、をプラスチックの小さなまな板の上でおもちゃの包丁でトントンして鍋に入れ、使い古しのヘラで炒める。豚肉は、太った丸ごと豚の絵だった。(分かりやすい)
「上手だね、いつもお手伝いするの?」
「アーちゃん、おばあちゃんのお手伝いします。お野菜洗います。お芋の皮剥きできます。包丁はまだ危ないからダメ」
「凄いな。アーちゃん、絶対いいお嫁さんになるよ。相手の人は幸せだね」
「ならアーちゃん、お兄ちゃんのお嫁さんになる。そしたらお兄ちゃん幸せで、もう泣かないです」
「僕と結婚してくれるの?」
「はい」
……多分、意味わかってないよね。
◇
「お前顔もいいし、実家は旧家で金持ちだろ? 合コンの時の客引き用員にされてるくらいだし、女の子から結構言い寄られてたじゃないか。なんで恋人つくんないの。ひょっとして、男が好きなタイプ?」
「違います!……そういう気になれる女性に会えなかっただけです」
男の子の孫は僕1人。跡取りとして大事にしてくれるのはいいが、お祖父ちゃんのことあるごとに「帰ってこい」には困っている。
帰るとまだ学生の僕に「いい娘はおらんのか。早くひ孫の顔をみたい」なのだ。
それがうるさくて「バイトが忙しい」と言って夏休みに帰らなかった。
でも、お母さんの命日には必ず帰る。もしかしたら満開の金木犀の花が、アーちゃんをまた連れてきてくれるのじゃないかと思っているからだ。
◇
アーちゃんは五つ。来年小学校だそうだ。昔はお兄ちゃんがよく遊んでくれたけど、小学校に入ってからは、学校の子とばかり遊んでかまってくれなくなった。
だから早く小学生になって、アーちゃんも友達を作るのだと言う。
「僕、学校は参観日が楽しみだった。みんなが勉強してるのを、お父さんやお母さんが見に来る日をそう言うの。大抵はお母さんが来るんだけど、教室の後にお母さん達がずらっと並ぶとうちのお母さんが一番綺麗なんだ。みんなに羨ましがられた。
でも、来年からは来るのはお祖父ちゃんだろうなあ。お祖父ちゃん顔怖いから、ちょっとやだなあ」
「そなの? アーちゃんもおばあちゃん来てくれるかな」
「おばあちゃんなの? お母さんじゃなくて」
「アーちゃん、お母さんいません。お母さんお墓」
突き刺ささった。この子は僕よりずっと小さいのだ。
「そっか、僕もお母さん死んじゃったんだ。今日お葬式だったから」
やっとの思いでそう言うと、アーちゃんの顔が固まった。
「それで泣いてたの?」
そして突然くしゃくしゃな顔になってしゃくりあげ始めた。
「ごめんなさい……」
あわわわ!
僕は慌てて、縁側からお母さんの部屋に入り、ティッシュボックスを取ってきて、涙を拭いてあげた。
「あ、うさぎさん。かわいい!」
ティッシュボックスの写真の絵を見て、アーちゃんの涙が止まった。
「良かったらあげる、もう使わないから」
「本当? お兄ちゃんありがとう」
にっこり笑うと本当に可愛い、この子は絶対泣かない方がいい。
それから、小学校の話をたくさんした。体育で逆上がりがなかなかできなかったこと。プールでの水泳。運動会や遠足、社会見学、この子の未来が楽しいものでいっぱいになると良いな。話してるうちに、僕の涙は完全に引っ込んでしまっていた。
◇
「俺の妹、明日香って言うんだけど、五歳の時神隠しにあったんだよ。21世紀にもなってバカな話だと思うけど、そうとしか思えないんだ。
庭で1人でおままごとしてたのが、突然いなくなって。誘拐事件だって大騒ぎになってさ。ばあちゃんなんて死ぬかと思うぐらい心配してた。
それが次の日に、ニコニコ笑って帰ってきてよ。安心するやらびっくりするやら。
一体どこに行ってたんだと問い詰めたら、トイレの神様と会って、そこの家の子とおままごとしてきたって言うのさ。
『この紋所が目に入らぬか』のと同じ――あ、これ水戸黄門のことな――瓦の屋根の乗った白い塀と門があって、敷石と砂の池があって、先に大きなトイレの花の木が咲いてて、縁側で男の子とおままごとしたんだって。
何しろ俺の実家、豪雪地の山ん中のポツンと一軒家でさ。
3kmは歩かないと隣の家がないんだよ。明日香は幼稚園も行ってないから、家族と時々来る親戚以外の人間に会ったことがない世間知らずだから。
「だってすぐそこだったもの、遠くなんて行ってない。神様と手繋いで、廊下歩いたくらいでお庭に着いたんだよ。ちゃんとお昼ご飯に帰ってきたよ」
もらったって、うさぎの絵のティッシュボックス大事そうに持ってて離そうとしないんだ。テレビのCMで見たことある「鼻セレブ」って高いやつ。この辺じゃ売ってない。俺も現物見たの初めてだった。
ままごとの道具から、トイレの芳香剤の絵と同じ金木犀の花がポロポロ落ちたときは、肝が潰れたよ。だってあんな花、家の周りには絶対咲いてない。
それに絵でしか知らないあの花が、背の高くなる木の花だなんて、俺も知らなかったのに、なんで俺より小さい明日香が知ってるんだ?
北海道に瓦屋根の乗った塀なんてあるわけない。そんなもんあったら雪の重みですぐ潰れちまうよ。
ばあちゃんは本当に神隠しにあったと信じてて、またあっちに行ったら二度と明日香が帰ってこないって怯えきってた。
なのにあいつ「また行くってあのお兄ちゃんと約束した」って言って、あの庭に行こうとして、何度も迷子になったんだ。でも見つからなくて、顔くちゃくちゃにして泣いて帰ってきた。
とうとうばあちゃんにこっぴどく叱られて、
「そんなにその家がいいか。ばあちゃんより大事か。今度探しに行ったら、もう私の孫じゃない」って泣かれて。それでやっと諦めて探しに行かなくなった。
ばあちゃん、先月死んだんだけど、ボケちゃって実の息子の父さんもわからなくなってたのに、明日香の事だけはわかってて、姿見えないと『アーちゃんおらん、どこいった』って心配して探し回ってたって言うのに、まさか、ばあちゃんが死ぬのを待ってまた探しに来るとはなあ。
明日香のやつ、ウサギのティッシュの箱まだ大事にとってあるんだよ。
連休利用して1人で上京してきたって、金木犀しか手掛かりないんじゃ、探しようがないのにあのバカ!」
◇
ボーン・ボーン・ボーン……
さっき飛び込んで閉め忘れた障子の隙間から、お母さんの部屋のボンボン時計が、12時を打ち出した。
「あ、お昼だ。おばあちゃん待ってるから、アーちゃん帰る」
昼間のシンデレラタイムは、もうお終いのようだ。
「また遊びに来てくれる?」
「うん、また来る。約束!」
赤い長靴が敷石を蹴って門に走る。迎えに来た白い手が、アーちゃんと手を繋ぐ。チラリと見えた女物の着物の柄は……
「お母さん!」
僕は靴下のまま門に走った。でも、門の外にはもう誰もいなかった。
あの子はそれきり2度と現れなかった。
僕は毎日縁側に座って、金木犀の花が全部散り終わるまで待ったけど来なかった。
夢だったのかな……僕はため息をついた。
「お嫁さんもらいそびれちゃった」
やっぱり初恋は実らないらしい。
お母さんが死んでも、毎日は続く。朝起きて、顔を洗って、ご飯を食べて、学校に行って…‥。お母さんが死んで変わったことといえば、僕がやたらにねこまんまが好きになったことくらいだ。
僕は少しずつ背が高くなってお祖父ちゃんの背丈を超えて、やがて東京の大学に入学して家を出たのだ。
◇
交番の中で、くしゃくしゃの顔をした女の子が泣いていた。
ツヤツヤの黒のストレートヘア。日本人形みたいな顔立ち。赤い靴が白い足を引き立たせている。目が真っ赤じゃなかったら、すごい美人だ。
「なんで一人で出歩いたんだ。お前は方向音痴で危ないから、後で兄ちゃんが連れて行くって言っただろう!」
「だ、だって日比谷公園駅のすぐそばって地図にあったから、わかるとおもって。それで駅員さんに道聞いたら、ちょっと行って右に曲がればすぐだって……」
「だから、日比谷公園まで歩いて2分なんだぞ? なんで東京タワーまで歩いちゃうんだよ」
道産子の“ちょっと”は、歩きで一里(約3.5km)。車なら20kmなんだそうだ。 恐るべし北海道僻地基準。方向音痴というより、地図の縮尺がわからなかったんだ。迷子になるわけだ。
「昔は9月の中旬には金木犀咲いたんだけどねえ」
おまわりさんが、都内の金木犀の名所に問い合わせてくれたが、この頃の猛暑で都内はまだどこも咲いてないんだそうだ。
「ほら、無理言っても仕方ないだろ、諦めて明日北海道に帰るんだ」
「だって……」
彼女の顔がさらにくしゃくしゃになり、しゃくりあげる。美人が台無しだ。
それで僕は携帯で家に電話した。
「あ、お祖父ちゃん僕。車でそっちに向かってるところ。今年は庭の金木犀咲いた?
うん、咲いてるんだね、わかった。あのね今バイト先の遠藤先輩と妹さんと一緒なんだけど、そっちに連れてっていいかな?」
彼女の涙がぴたりと止まった。やっぱり笑った方が可愛い。
◇
「遅いぞ、優。待ちくたびれたわ」
門のところでお祖父ちゃんが待ち構えていた。相変わらず怖い顔だ。
「あれ?明日香ここって」先輩の声が上ずる。
屋根瓦のついた白い塀と門。庭に続く敷石――。
車のウインドウ越しに彼女の顔が固まった。
「おおこちらが、妹さん? でかした、優。すごいべっぴんさんじゃないか!」
「お祖父ちゃん、違うよ。金木犀見にきただけ」
……多分それだけじゃないと思うけど。
彼女は車から降りると、縁側へ続く庭へと駆け出した。
門から続く敷石と灯籠と枯山水の池、飛び石に金木犀の花が散っている。
金木犀へ続く庭を彼女は必死に走る。
飛び石につまずいて靴が脱げて転び、お祖父ちゃん自慢の枯山水を蹴散らして、満開の金木犀の木の前にぺたんと座り込んだ。
「ここ、トイレの神様の庭……」
大きくなったアーちゃんが震える声で囁いた。
ハラハラ散る金木犀の花のシャワーの中で、彼女の脱げた赤い靴に入った白い砂にも、金木犀の花が降りかかる。
赤い漆のお茶碗の金木犀のふりかけご飯にそっくりだった。
僕はしゃがんで靴を拾って彼女に差し出す。
「アーちゃん、来るの遅いよ。僕ずっと待ってたんだから」
「ごめんなさい……」
大人になったアーちゃんの顔がまた涙でくしゃくしゃになった。
――優くんのお嫁さんに会ってきたの。すごく可愛い子だった――
どうやら、お祖父ちゃんにひ孫を見せてやれそうだ。
金木犀のふりかけご飯(季節の便り~12ケ月/9月・初恋) 源公子 @kim-heki13
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