雨と鬼蜘蛛

みかみ

第1話 一話読み切り

 妻の四十九日を終えて帰宅するなり、喪服のまま縁側に腰をおろした。昨夜から雨がしとしとと降り続いていて、患っている膝が痛みだしそうな気配があったが、外の空気を吸いながらぼんやりしたかったのだ。


 近所に住む娘は、「着替えてまたすぐに来るから」と言って、私を玄関まで送り届けると、ばたばたと車に戻り帰っていった。妻が死んでから、飯もろくに食べずに呆けてばかりいる私を、心配しているんだろう。

 どうにもこうにも気力が湧いてこないのだから仕方ない。


 妻の死に顔。

 最後の瞬間まで必死に呼吸を繰り返していたその顔が、これまでの笑った顔や、怒った顔、泣いた顔。沢山のそれらを、全てまるっと箒で掃きとるように、私の記憶から一掃してしまった。


 遺影の妻は笑っている。けれどもそこから目を離した瞬間、彼女を象徴する表情は、死の間際にあった苦悶にとって代わる。すると私の胸は大きな楔を打ち込まれたようにずうんと重く痛み、頭には雨雲よりも分厚い霧がかかるのだ。


 こんな風になったのは初めてだ。実の親との死別でさえ、もっと冷静に受け止められたというのに。

 八十近い歳のせいか、もしくは気持ちの整理がつかないまま逝かれてしまったからか。説明はどうとでもつく。とはいえ、ずっと呆けているわけにもいかない。そうそれも、分っているつもりなのだ。


「さて、どうしたもんかなあ。……なあ、搭子とうこさん」


 妻の名を呼びため息をつくと、右隣でカサリと軽い音がした。


(邪魔するよ)


 一瞬、黒い石ころが喋ったのかと思ったそれは、一匹の鬼蜘蛛だった。


「おや。日中に会うのは初めてだな」


 我が家に住みついているオスの奴だ。昼間はいつも、軒先の隙間に潜んでいるのだが、珍しい事もあるものだ。


(しめっぽくてな。出てきた)


 鬼蜘蛛は感情の見えない声でそう言うと、伸びていた八本の脚を縮めて小さくなった。

 ますます石ころのようだと思いながら、私は軒先に吊ってある物干し竿を指さす。


「そうだ。君に頼みがあったんだよ。君、夜中はいつも、あそこに巣を張るだろう? 悪いけれど、別の場所に移動してくれないか」


(なぜ)


「ヨモギと、ねこじゃらしと、かやつり草が駐車場に沢山生えてるんだけどね。刈り取って、あそこに干したいんだ。それで団子や、お茶を作ったりするんだよ。去年までは搭子さんがやっていた事なんだが」


(食いものを作りたいのか)


「作るかどうかはまだ分らんが……無いと寂しくてね」


 鬼蜘蛛からの返事はない。気持ちを慰める為だけの仕事など、鬼蜘蛛には理解できないのかもしれない。私は自嘲気味に笑うと、「無理じゃなければ、お願いするよ」と控えめに頼みなおした。


(……少し、ずらすくらいなら)


 渋々、といった調子で折衷案が出された。


「すまないね」と小さく頭を下げた私は、じくじくと痛み始めた左の膝をさする。九月ももう終わりだ。雨が降ると、やはり冷える。


 伸びっぱなしになっている中庭の草たちが、雨に打たれて頭を重そうに垂らしている。しっとり濡れた葉先から雫が落ちる様子を眺めながら、私はまた、隣の同居者に話しかけた。


「そういえば今日、住職が法話で言ってたよ。初七日、四十九日、一周忌、三回忌、七回忌……。あれは実は、遺族の為にあるんだと。そうやって段階を経て少しずつ、仏になった人の死を受け入れていくんだとね」


(ふうん)


 鬼蜘蛛が興味なさげに相槌を打った。


「なあ。私は受け入れられるかな?」


 私は雨空を見上げ、隣に問いかける。


「死ぬ間際、本当に苦しそうに呼吸をしている妻に、『頑張れ。逝くな』と叫んでしまった。どうして、『後は私に任せて、もう楽になれ』と言ってやれなかったのか。そんな心の弱い私が、妻がいなくなったこの世を、果たして受け入れられると思うかい」


 人の感性など、蜘蛛には理解できないだろう。そもそも死別というものを知っているかすら分らないこいつに、一体私は何を話しているんだと思いながらも……やはり私は心が弱いのだろう。この後悔と不安を、誰かに聞いてもらわずにはいられないのだ。 

 だが少なくとも、独り言よりマシなはずだ。自分に言い聞かせつつ、右隣の小さな同居者に目をやる。

 彼は、濡れている庭をじっと見ていた。


(どちらにしても、搭子は死んだ)


 ややあって、彼は言った。


(朝露に濡れた俺の巣を見つけて、『今日のお家は一段と綺麗ね』と声をかけてくる人間は、もういない)


 言葉の内容は悲哀に満ちている。しかし彼の語り口は、この雨音よりも淡々としていて、私に何の感情も起こさせなかった。


 と、その時。ある情景が頭に浮かぶ。


 朝露が輝く中庭で、洗濯かごを抱えた元気な妻の姿。晴れ渡った初夏の空。


『ねえ文治ぶんじさん。蜘蛛の巣が雨に濡れて大きな首飾りみたいなのよ。見に来ない?』


 妻が楽しげに笑っている。その記憶が、暗くどんよりとしていた私の心に、大輪の花を咲かせるが如く広がりはじめた。


 ああ……。と声を出し、思わず両手に顔を埋める。


(どうした?)


「思い出したんだよ。思い出した」


 妻の笑顔を一つ。その笑顔が、苦悶にまみれた彼女の死に顔を覆い隠した。


「ありがとう」


 顔を上げ、蜘蛛に心から礼を言った。

 そうだ。思い出していこう。これから、妻の表情を一つずつ。


(礼なら、なんぞ飯をくれ。昨晩はひとつも巣にかからなかった)


「餌か……」


 私は両膝を擦り、苦笑った。


「すまんね。すっかり脚が弱っちまって。バッタ一匹捕まえられそうにないんだ」


(そうか)


 再び感情の見えない応対をした鬼蜘蛛は、縮めていた脚を出した。私に尻を向けると、カサカサ、と音をたてて縁側伝いに這ってゆく。


「なあ」と私は、小さな黒い尻に声をかけた。


「君は、いつまで生きられるんだい?」


 鬼蜘蛛がぴたりと歩みを止める。体半分だけ私に振り返った彼は、触肢を小さく開閉させると


(そんなもんは知らん)


 そう言い残して雨戸を伝って登り、軒先の隙間へと消えてしまった。






 鬼蜘蛛の寿命は一年。秋に生まれ、越冬し、次の冬を迎える事は無い。






~完~




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雨と鬼蜘蛛 みかみ @mikamisan

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