第8話 誇れるように

 「俺は――絵を描くのが、大っ嫌いだからだ」


 低くなった葵の声に、絵李の目が丸くなる。

 大っ嫌い。自分に言われたわけではないのに――ずんと重たい言葉だ。


「……どうして? 楽しいじゃない」


「楽しくない」


「綺麗じゃないの」


「綺麗じゃない」


 絵李の乾いた問いかけに、葵は淡々と答えていく。

 明るい、けれど暗い色をした目は、本当に絵李を見ているのかわからなくなりそうだ。


「だって――」


「だから言っただろ、日高さんにはわからないって」


「ぁ……」


 喉が閉まって、ひゅっと息が漏れた。

 ようやく、葵の視線の先が絵李だとわかる。

 同時に失意のようなものを感じて、余計に息が詰まってしまった。


「……どうして、嫌いなの?」


 掠れそうな声をしっかりと出して、やっとの思いで問いかける。


 絵が大嫌いな人が、こんなにも沢山の絵を描くだろうか。

 絵が大嫌いな人が、こんなにも拘りを感じさせる絵を描くだろうか。

 絵が大嫌いな人が、響久が好む絵を描けるだろうか。


 絵李にはどう考えても、葵が絵を嫌っているようには見えなかった。


「嫌いなら、どうして美術部に入ったの。どうしてこんなに絵を描いたのよ」


「日高さんには、言ってもわからないよ。楽しくて楽しくて仕方ないんだろ、絵が」


 厳しい視線を向けられて、絵李は哀しそうに顔を歪めた。

 一瞬丸くした黒色の目をそっと伏せる。


 絵李に葵が絵を嫌っているように見えないのは。

 葵が一生懸命だからではなく――絵李が、その気持ちをわからないからなのだろうか。


「確かに私は、絵を描くのが楽しいわ。楽しくない人の気持ちなんてわからない。でもやっぱり私には、あなたが絵を嫌ってるようには見えないの」


 絵李の言葉の1つ1つが、葵の心を削るのではないか。

 そう考えると、声が出辛くなる。

 それでも絵李には、黙るという選択肢はなかった。


「どうしてあなたは絵が嫌いなの? 嫌いなら、どうして描いてるの?」


「……最初は、ちゃんと好きだったはずなんだ」


 絵李にはきっと理解できないから、と。

 そんな諦めが見えないフリをして、葵はゆっくりと小さな声を絞り出す。


「描き続けてるうちに、いつのまにか嫌いになってたんだよ。何も上手くいかなくて、描けば描くほど苦しいんだ」


 ふっと息を吐いた葵が、ゆっくりと足を動かした。

 描きかけの少女のすぐ傍で立ち止まり、髪として塗られた黒色をそっと撫でる。


「筆を進める度にゴールがわからなくなって、筆を進める度に綺麗だった記憶が汚される。そんな辛さ、日高さんにはわからないだろ!?」


「ええ。勿論わからないわ。わからないから教えてほしいの。そんなに苦しいなら、どうして今まで描き続けたの?」


 絵李は絵を描くのが苦しいと思ったことなど、ない。

 勿論思うような結果がでなかった時は悔しかったが、描くこと自体はいつだって楽しかった。

 だから葵の気持ちはわからない。けれど――わからないなりに気にかけてしまう。


「……そんなこと、俺にもわからない。描き続ければいつかって思ったんだろうな。月宮とか先輩がいたから……中途半端に調子に乗ったんだろうな。どんなに苦しくても、“辞める”って選択肢は出てこなかった」


 ――まるで、絵が葵を掴んでいるかのように。

 どれだけ辛くても、苦しくても、離れられなかった。


 そんな想いを、葵はまるで独り言のように語る。

 独り言に仕立てあげるように、絵李は無言で耳を傾けていた。


「――やっと。やっと逃げられたんだよ。来年受験だから勉強するとか言って。忙しいから絵なんて描けない、とか言って。ようやく肩の荷が降りたのに……全然楽になれないんだ」


 何でだろうな、と呟いて、葵の手がキャンバスから離れた。

 指先に触れた絵具の感触をかき消すように、ぐっと拳を握る。


「部長だからか、部活辞められないからか。……そんな単純な問題ならよかったのにな。きっと、楽しかった頃を捨てられないから、こいつを捨てられないんだよ」


 手を解いた葵は、そっと自分の絵に背を向ける。

 辛そうな仕草に声をかけたくなって――けれど絵李が口を開く前に、葵が言葉を吐いた。


「いつの間にか好きじゃなくなって、嫌いになって、大嫌いになってた。描けば描くほど、触れるほど――相容れなくなっていくんだ。好きだったものと」


 ――だから、もう描きたくない。


 そう言う消え入りそうな声は、情けないほど震えていた。

 ちらりと絵李を見た瞳の奥が、少しだけ見える。

 葵の言われたい言葉を、視線が伝えていた。


「……それでもあなたは、描くしかないと思う。この先もきっと、ずっと描き続けるの」


 なんと言えばいいのかわかった気がした。

 なのに絵李は求められた言葉を飲み込んで、自分の思いを伝えることにする。


「絵が大嫌いって気持ちは、私にはわからないわ。だけど……絵から離れられないのはすごくわかる」


 もし、突然絵を描いては駄目だと言われたら。絵李は描くのを辞めるだろうか。

 答えは簡単、“絶対に辞めない”だ。

 理由は勿論“絵が好きだから”というのもあるが、それ以前に――。


「私にとって絵は、もう描いて当然のものだもの。大袈裟だけど、息をするのと一緒」


 あなたもそうでしょう? と、絵李は葵に笑いかける。

 葵は小さく開いた口をぎゅっと引き結ぶと、困ったように視線を彷徨わせた。


「絵を描かないと生きていけない。普通に生きてたら、いつの間にか絵を描いてるのよ。好きか嫌いかは関係なく、ね」


 絵を描くことの面白さを知ってから、絵の魅力を知ってから。

 何かを描かなかった日など1日たりともない。

 そんな絵李には、描くことを辞める未来などどうしても見えなかった。


「あなたもそうだと思うわよ。だって――昨日絵しりとりしてる時、すごく楽しそうだったもの」


「……それは、日高さん達と遊ぶのが楽しいからで――」


「いいえ? 私達と話してる時の何倍も、描いてる時の方が楽しそうな顔してたわ」


 絵李がきっぱりと答えると、口を噤んだ葵は困ったように眉を下げた。

 下を向いて、はぁーっと大きく息を吐く。


「……ははは、俺、どんな顔してたんだろ」


 元いた場所に戻った葵は、机の上に放置された自習ノートを手に取った。

 小さく微笑むと、真ん中辺りの数ページをビリビリとちぎってしまった。


「え、何してるの!?」


 驚いている絵李に身体を向けると、葵はちぎったページから手を離す。

 ばらけて落ちた紙が数枚、床に散らばる。


「何――」


 すぐに拾おうとしゃがんだ絵李は、そこにを見て目を丸くする。

 言葉も、動きもピタリと止まった。


 自習ノートなのだから、てっきり勉強していると思ったが。


 アニメのキャラクターのようなイラストや、葵の席から見えるのだろう、窓の外の風景。

 教室内の風景。椅子、机、ボールペンに消しゴム。


 散らばったページには、どれも違った絵が描かれていた。

 白と黒の世界に魅入っていた絵李は、顔を上げてその想像主を見る。

 男性にしては可愛らしい顔には嘲笑が浮かんでいたが――明るい茶色の瞳は、奥まで綺麗に輝いていた。


「……嫌になって、逃げたはずなのにな。教室で1人になっても、ずっと描いてたよ」


「真面目に勉強して偉いなって思ってたのに」


 肩を竦めて笑う葵に、絵李も冗談めかして笑う。

 なんの変哲もない風景、誰でも持っているような文房具。

 どの絵も抜群に上手いわけではなければ、特別なものを描いているわけでもない。


「――でも、こっちのあなたの方が好きよ」


 それなのに――なぜか目を惹かれてしまう。

 響久の言う通り、やっぱり葵の絵には『アイ』が溢れているのだろう。


「どうせわかってもらえないって不貞腐れてたけど。日高さんに話してよかったよ。……何か、ちょっとだけ楽になれた」


「何も解決してないけど、いいの?」


 絵を拾い集めている絵李に合わせたのか、葵は崩れるように床に座った。

 口から漏れる笑い声は、無理しているようには見えない。


「いいんだよ。絵から逃げたら楽になれるって思ってたのに、むしろ苦しくて八方塞がりだったから。日高さんがちょっとだけ、隙間を作ってくれた感じだ」


 ぎゅっと握った手を開いて、葵は柔らかく笑う。


 絵に向き合うのが辛かった。

 描けば描くほど、息が詰まった。

 好きだという気持ちを擦り減らしていくことが、嫌だった。


「このまま部活引退して大学行っても、趣味で描くのかとか。それとも、もう描かなくなるのか。どっちを想像しても怖いなんて、笑えるだろ」


「おかしくないわよ。どっちだってあり得ることでしょう?」


 やっぱり進路は美術系ではないんだな、などと思いながら、絵李はなんともないように返した。

 ふっと息を吐いた葵が、ゆっくりと首を振る。


「いや、有り得ないって、さっき日高さんが教えてくれたんだろ」


 ふっきれたような葵の口調は、聞いていてなんとなく心地良い。

 優しく細められた目が、どうしようもなく綺麗に見えた。


「描き続けるよ、俺は。どんなに嫌でも、こいつと生きていくしかないから」


「それがいいわ。響久も、あなたが描いてると喜ぶわよ」


「あいつはどうでもいい」


 葵がむっと顔を顰めて見せるから、絵李は声を出して笑ってしまった。

 折角優しい顔をしていたのに厳しい。


「もうちょっと優しくしてあげたらどう? 響久、時々寂しそうな顔してるわよ」


「うーん、まあ、少しくらいはな。あいつが言うように、俺の絵に『愛』があるとは思えないけど。どうせ死ぬまで描くんだ、ゆっくり見つけていきたいって思えたからな」


 少し考えた葵は、大きな目を閉じてニカッと笑った。

 初めてみた明るい笑顔に、絵李の口角も釣られてしまう。


「それでゆっくり、俺の絵をようになりたい。自分に自信を持ってる日高さんや月宮が、やっぱり羨ましいから」


「絶対できるわよ。相馬くんの絵、とっても素敵だもの」


 絵李が深く頷くと、葵はあはは、と声を上げて笑う。

 笑い声に混ざった「ありがとう」には、まるで作品のように『アイ』で溢れている気がした。


 何日間も放置された、アクリル絵の具の少女の絵。

 きっと明日――いや、今日からでも、彼女の時間は動き出すのだろう。





 ――――――2章 『アイ』を探していく

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

『アイ』の偏り 天井 萌花 @amaimoca

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ