第7話 羨ましい
思いの外盛り上がった絵しりとりは、ズルズルと何時間も続いてしまった。
結局決着はつかず解散となったが、葵は勉強をしなくてもよかったのだろうか。
楽しかったな、などと考えると、慣れない廊下を歩く足取りが軽くなる。
2日連続だからか、もう5回目になるからか。緊張感は少しずつ薄れているようだ。
(昨日は部活でしか絵を描けなかったから、今日はちゃんと描きたいわね)
あっという間なようで長い廊下を歩き終わり、第2美術室のドアをノックする。
どうせ返事は来ないだろう、と決めつけた絵李は、流れるようにそのままドアを開けた。
「……え?」
ドアを開けた途端、広がる景色に絵李は目を丸くする。
薄暗いはずの教室が、光で満たされていた。
ずっと働いていなかった証明はピカッと光り、部屋全体を照らしている。
開け放たれた窓からも眩いばかりに光が差し込み、共に入ってきた風が束ねられたカーテンを揺らしていた。
昨日までと同じ教室なのに、解放感からか昨日以上に広く見える。
明るい室内に響久はおらず――代わりに、響久の絵の前に葵が座っていた。
いつもは響久が画材を広げている机には、教科書や問題集が広げられている。
「……お、日高さん。やっぱり来たか」
パタン、と問題集を閉じた葵が、絵李を見て少し微笑んだ。
微かな風が明るい茶色の髪を揺らす。
「響久は?」
何を言おうか考える前に、たった4文字が口から出る。
今日はここで勉強するの? 窓が開いてるなんて珍しいわね。という他の言葉は、今更になって脳をよぎった。
「あいつのことだからどうせ言ってないんだろうなと思ったら、やっぱりこれだ。待っててよかったよ」
「何のこと?」
きょとんとしている絵李を見て、葵は呆れたように首を振った。
「月宮は
「吹、部……?」
当然のようにさらりと告げられるが、絵李の頭はその速度についていけない。
「マジで何も聞いてないんだなー」と、葵は呆れたように苦笑した。
「あいつ兼部してんだよ。美術部はサブで、メインは吹奏楽部。今聞こえてる合奏、月宮も吹いてる」
「え……ええぇぇ!? 響久、吹奏楽部だったの!?」
1泊遅れた絵李の大声に、葵はむっと顔を顰めた。
反射的に両手を耳に近づけているが、当てる前に言葉が終わる。
「驚きすぎだろ」
「だって意外すぎるもの。絵一筋だと思ってたわ……」
絵李は落ち着かせるように深く呼吸しながら、ちらりと大きな絵を見る。
これほどのものが描ける画力とセンスを持ちながら楽器まで弾けるとは。
美術以外の芸術科目はさっぱりだった絵李からすれば、かなり驚く、というかもはや怖い。
「吹奏楽部って兼部できるのね。厳しいイメージあったから、できないと思ってたわ」
絵李が通っていた中学も今の高校も、吹奏楽部だけは兼部不可だった気がする。
美術部にしか入るつもりはなく、ちゃんとは確認していないが、部活動紹介で耳に挟んだ記憶があった。
「多分無理だぞ。あいつは特別に許可されてるだけで」
「特別?どうして?」
葵は散らかっていた筆記用具をペンポーチに押し込むと、気怠そうに頬杖をついた。
立ち尽くしている絵李を見て、困ったように眉を下げる。
「月宮、めちゃくちゃ上手いんだよ。月宮は吹部入りたくなくて、顧問はどうしても入ってほしくて……んで妥協点が美術部と兼部してもいい、だったっけな」
「そんなに上手なの? どうしても入ってほしいなんて」
問いかける絵李の眉が、無意識のうちに少し寄る。
聞けば聞くほど響久のことがわからなくなって、まるで別の人の話を聞いているようだ。
「中学が強豪校だったんだよな、確か。その前から習ってたんだったっけ、親が音楽家とかなんとか……」
「え、それ本当に響久の話!?」
とうとう絵李の中の像と話が完全に離れ、少し大きな声で聞き返してしまった。
ここ数日会って色々話したが、全く聞いたことがない。
「そうに決まってるだろ。絶対日高さんに言ってないだろうなって思ったよ」
「……ありがとう」
呆れたような目を向けられ、絵李は少し沈んだ声で礼を言う。
勝手に響久のことを知ったつもりになっていたことに気が付き、なんだかもやっとしてしまった。
「ってことで、今日は響久は来ないと思うぞ。最近ずっとサボってたし本番近いとか言ってたから」
「彼も忙しいのね。もう少し来るの控えた方がいいかしら?」
迷惑だったかも、などと、絵李は今更ながら反省しているようだ。
少し目を伏せた絵李を見て、葵はふっと息を笑みを零した。
「月宮、日高さんが来てくれて嬉しかったみたいだぞ。吹部行く日増えるだろうけど、そうじゃない日は来てやってくれ」
「わかったわ。ありがとう」
絵李がこくりと頷いたのを確認して、葵は「それで」と話を変える。
「日高さんはどうすんだ? 折角来てくれたところ悪いが、帰るなら駅まで送ってくぞ」
「相馬くんは描かないの?」
少し考えた絵李は、質問には答えずに聞く。
絵李が来るまで勉強をしていたのだろう。目の前に描くべき絵があるというのに、今日も勉強をしているとは。
「……描かない。日高さんが帰ったら施錠して、第1に顔出してから教室行こうと思ってた」
「どうして? あの絵、まだ途中でしょう」
つらつらと抑揚のない音を並べ立てた葵は、少し眉が寄っていることに気づいているのだろうか。
葵が描いたという、アクリル絵の具の少女。
儚げな印象の少女の肌や服には、ざっくりとした影が描き込まれている。一方で髪はべったりと塗りつぶされただけで、描き込みが足りないのは目に見えている。
「そうだ」
「私が初めて見た時から、全然進んでないわよね」
描き込みは数日前から増えていないどころか、何ひとつ手を付けられていない気がする。
折角ここに来たのなら続きを描けばいいのに、なんて思えてしまう。
絵に向いていた視線を葵に戻すと――絵李の黒い目がきゅっと丸くなった。
葵の顔がぐしゃりと歪んでいて、触れてはいけないものに触れてしまったような気分だった。
「……そうだよ。それは、もう描かないから」
「どうして? 今未完成だって――」
「いいだろ別に! 俺の絵なんだから!」
葵が立ち上がると、大きな音を立てて丸椅子が倒れた。
それでも葵は直そうとせず、絵李の方に身体を向けている。
「俺の絵なんだから、最後まで描いくのも途中でやめるのも、俺の勝手だ」
「勝手でも気になるじゃない。どうしてやめちゃうの?」
低く唸るような声に、絵李は落ち着いて返す。
葵が背を向けた窓から入って来る光が、歪んだ顔に影を描いていた。
「別に。……関係ないだろ」
「関係なくても気になるでしょう?」
「わからないだろ、日高さんにはっ!!」
きゅっと高くなった大声に驚いて、絵李はびくりと肩を震わせた。
葵が怯んだように眉を下げたのも気にせずに、むっとして言い返す。
「わからないから聞いてるんでしょう!? あなたのことなんて何も知らないもの、教えてくれなきゃ無理よ!」
「知らなくたっていいだろ! 放っとけよ……放っといてくれ」
弱気な表情の葵。その声が萎むように小さくなって、掠れた。
放っておいて、なんて冷たい言葉。何でそんなこと言うの? と聞く前に、絵李は困ったように――けれど柔らかく、笑った。
「放っておけないわよ。気になるとかじゃなくて、もう……そんな顔されたら」
少し強い風が入り込んできて、葵の短い髪を揺らした。
大きな目を丸くしていた葵の顔がぎゅっと歪み――紛らわすように顔を伏せる。
「……昨日、日高さんが羨ましいって言っただろ」
「ええ」
ぽつりと呟くような声は、少し落ち着いたようだ。
絵李もゆっくりと呼吸を整えて、控えめな相槌を返す。
羨ましい、昨日話している際、唐突に聞こえた言葉だ。
絵李のようには描けない、とも言っていたが、どういうことなのか。絵李の心にもひっかかっていた。
「それだけじゃないんだ。言ってないだけで、みんなが羨ましい。月宮も、引退した部活の先輩も、同級生も、後輩も、みんな」
「どうして?」
俯いていた葵が、ゆっくりと顔を上げる。
少し乱れた髪の隙間から覗く瞳は、明るい茶色。なのに――まるで夜闇のように暗く見えた。
「俺は――絵を描くのが、大っ嫌いだからだ」
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