彼女が遺してくれた、私が生きる理由

白雪花房

ハナミズキのあなたへ

 また、同じ夢を見た。


 闇の中にハナミズキが揺れ、花びらに似た葉(ほう)が飛び散る。薄い葉に赤い色がにじみ、血を吸ったようにつやめいた。


紫苑しおん?」


 薄い唇が花が開くように動く。

 スカーレットのセーラー服を着た儚げな少女。


 透き通った瞳がこちらを見つめていた。


 ✿ ✿ ✿


 鎖谷くさりたにという町の高台にある校舎。影山紫苑しおんの名が星合ほしあい高校の学生名簿に加わってから、一年が経った。

 新学期が始まってもグレーのブレザーは似合わず、高校生である実感が湧かない。

 頭がぼんやりしているのは昨夜の夢のせいだ。闇夜に白く浮かび上がったセーラー服の少女――彼女はなにを伝えたかったんだろう? どうせ私には理解できない。

 校庭に生えた桜はまだ裸で、蕾は硬く閉ざされている。私の心は二年前の冬に置き去りになっていた。



 放課後。

 帰宅部なので悠々ゆうゆうと校門を出た。

 踏切の付近まで着て、足が停まる。

 反対の通りから見覚えのある影。他校の制服を着崩した不良じみた女子たちだ。

 どうしてソレが鎖谷くさりたにに……?


 警戒心をむき出しにすれ違おうとした矢先。

 ギロリ。

 見られた。

 張り詰めた顔で振り向く。三名の女子が軽蔑けいべつの目で私を見下ろしていた。


「あいさつもせずに帰ろって魂胆こんたんだよ」

「生意気だな。しつけてやらねぇと」

 悪意とたのしみが混じった顔。

 恐れが体の芯を貫き、体が強張こわばる。出遭ってはならない者と対面してしまったと、私は理解した。



 暗緑色の山に囲まれた空に暗雲が垂れ込める。駅の裏側に追いやられた空き地には隙間風が吹き込んでいた。

「おら!」

 鉄格子にたたきつけられ、背中に痛みが電流のように走る。

 全身が痛く、力が入らない。

「メソメソしてれば許されるとでも思ったぁ?」

「高校でもび売ってんの?」

「あ、芋っ子の色仕掛けが通じるわけないか。だからいじめられてんでしょ?」

「ご愁傷しゅうしょうさま!」

 中学時代のいじめっ子が他人事のように嘲笑ちょうしょうする。

 心にまでダメージが響いて、打ちのめされた。


 もう嫌! 逃げたい。帰りたい。

 誰か助けて!

 やっぱりダメ! 来ないで! 私を見ないで……。


「言っとくけど、耐えるのは強さじゃない。やり返す勇気もないだけだよ」

「じゃ一生、泥にまみれてな」

 気持ちよさそうな高笑いが、不協和音に歪む。

 くだらない人たちを相手になにもできない。そんな自分がなによりもみじめだった。


「あースッキリした。昔はナイトがいて手ぇ出せなかったしさぁ」

「そうあんたを守ってくれるやつはもういない」

「そのまま一人で野垂れ死んじゃいな」

 好き放題に言い捨て、声が離れていく。

 解放されて心に残った感情は、むなしさだけだった。


 ――『あんたを守ってくれるやつはもういない』


 いじめっ子の言葉が脳内にこだまする。

 私には三人を責める資格がない。

 同罪、なのだから。



 あたりが薄闇に包まれたころ、トボトボと家に帰る。

 裏口から部屋に入った。固く閉じた戸を背に制服のまま立ち尽くす。


 昔はもっと強かったはずなのに……。


 辛気しんき臭い息が漏れる。


 小学生まではむしろ明るい性格だった。

「リーダーになりたい人」先生の呼びかけに、「はい! はい!」と挙手。

 ガタイのいい男子が小柄な子をいびる現場には、迷いなく割って入った。


 なんで弱くなっちゃったんだろう……。


 昔の紫苑しおんを知るあの子は今の体たらくを見て、なにを思うのかな。

 赤羽無あかはなミズキ。

 記憶の中にいる少女の生き生きとした姿が、いまだに私の心に爪を立てていた。


 ✿ ✿ ✿


 鎖谷くさりたに中学の制服は赤いセーラー服だった。芋臭いデザインは田舎娘にはふさわしい。むしろ似合いすぎていたのが問題だった。


 勉強も運動もできない。なにをやっても最下位だった。目を合わせようとする度に皆はそっぽを向き、しっしと追い払う。

 暗澹あんたんとした状況で唯一手を差し伸べてくれたのが、ミズキだった。


 休み時間、図書館で本を借りた帰り、例の三人組に出くわした。私は人気のない角に追い詰められ、殴られる。

 されるがままになっていると、「やめなよ」と声がした。

 逆光を背にりんとした少女を見て、ハッとなる。デイジーの匂いが鼻腔びこうをかすめ、心を動かした。

 なんてかっこよく、美しい……。

 薄灰色の肌に熱が巡る。暗い瞳に明かりが差し込んだ瞬間だった。


 しかし、校舎には悪意が充満している。カーストが高い人たちに歯向かった結果、ミズキもいじめの標的となった。

「ごめん。私のせいで」

「いいのよ。辛かったら二人で分け合えばいいんだから」

 目も合わせられずに縮こまった私に、ミズキは寄り添ってくれた。


 彼女だけが心の支え。親友がいたから針のむしろのような日々にも、耐えられる。

 しかし状況は変わらない。いじめっ子たちは心を折るために、なんでもやった。


 歯磨きの折、水道の前でイライラと爪を噛むいじめっ子を横目に、ミズキを探す。廊下の端で一人、彼女は深刻そうに眉を寄せていた。

 事が起こる数週間前から不穏な気配を感じてはいたけど。

 まさかあんなことになるなんて……。



 一月八日。

 赤羽無あかはなミズキの席は空白だった。

 まさか病欠? 気になって授業に集中できない。

 午前の授業が終わるや、早退した。


 まっすぐに住宅地に向かい、赤羽無あかはな宅に突入する。

 親は仕事で不在。扉の奥は薄暗く、静かだった。

 ミズキの部屋に足を踏み入れ、生白い壁を見据える。

 私は言葉を失った。そこにあるものが現実だと受け入れられない。


 あいまいに歪んだ視界の中で、だらりと揺れる四肢。


 大切な友達が首を吊って死んでいた。



 自殺者が出た途端にいじめは表沙汰となった。事件の中心人物だった女子たちは退学。私はれ物扱いのまま、学園生活を演じる。


 どうして私を置いてってしまったのかな。

 心は空っぽで、涙すら出ない。


 巻き込んじゃってごめんなさい、助けられなくてごめんなさい。


 中学を卒業した後も、死んだように生き続ける。

 なにもかもが灰になったようだった。


 ✿ ✿ ✿


 六月。先日からシトシトと雨が降り続く。

 高校の掲示板ではある話題でもちきりだった。

 影山で交通事故があったらしい。被害者は三名。信号機を無視して横断歩道を歩いていたところ、トラックにはねられたとのこと。


 いじめっ子たちが死んだ。

 清々するはずなのに、どこか薄ら寒い。


 気持ちをまぎらわせるために、掃除を始める。

 参考書を片付けるために勉強机の引き出しを開けて、一時停止。空間の奥からノートが見つかる。マゼンタの表紙に『交換日記』とマジックペンで書いてあった。

 ミズキが自殺する前日に届いたもの。ノートが届いた夜、人生に嫌気が差し勉強する気力もなく、眠り込んだことを思い出す。

 追い打ちをかけるように親友が自殺――

 彼女は今際の際に役立たずの娘を呪ったかもしれない。

 勝手に想像して体の芯が重くなる。


 嫌だ。見たくない。心が悲鳴を上げた。

 目をぎゅっとつぶった矢先、黒い視界にミズキの生白い顔がかすめる。試されているような気がした。


 そうだね、読まないと。受け止めなきゃ。


 ゆるりと肩から力を抜く。


 せめてミズキが最期になにを思っていったのか、確かめるんだ!


 深く息を吸い込む。

 指先に力を込め、目をパッチリと開いてから、表紙をめくった。


 一月七日。中学二年生・三学期の冒頭。


『明日、私は私の大切なもののために殉じる。

 現状いじめは収まらない。誰もが見てみぬ振りを続けてきた。教師が目をつぶる限り、なにも起こっていないものとして、処理される。

 逆に言えば、誰かが犠牲になれば問題になる』


 瞳が揺れ焦点が合わない。視界が霞む。奥歯を噛み締め、苦痛を呑み込んだ。

 指に力を入れ、激しい勢いでページを裏へ送る。ヤケクソだった。


『一人の少女が身を捧げた理由を問われても、誰も答えられないだろう。これはちょっとしたミステリー。全ての謎を解く鍵は《六年前の秋》に隠されている。

 小学校中学年。赤羽無あかはなミズキは見た目だけ強そうな人たちにバカにされながら、生きてきた。

 絶望に未来さえくらむ中あなただけが味方をし、敵を追い払ってくれた。

 紫苑しおん……星の意味を持つ花の名。その通りに希望を見せてくれた存在。

 その恩を返したかった』


 紫苑しおんってそういう意味だったんだ……。

 感慨深さを抱いて、ため息が出た。

 同時にこの気持ちをどう持って行くべきか分からず、心がざわつく。

 だって、私が読んでいるのは正真正銘の遺言ゆいごんだから。


『かつて弱虫だった少女は、ただ一人にとっての英雄になれば、過去を乗り越えられると考えた。

 一緒にいじめられながら、自己満足に浸る。

 それはなんの意味ももたらさないと、とある冬に悟った。

 放課後、寒々しい空き地で膝を抱えて泣いている女子を見た。その小さな姿を見て、いたたまれなくなる。

 紫苑しおんのためになにをしてあげられるだろうか。

 もしも死にたいと訴えるなら、水底までついていく。

 弱いままの存在では愛した人すら守れない。ならばせめてこの身を捧げたかった』


 ミズキの気持ちが紙面を通して、伝ってきた。

 視線を下へ滑らすたびに緊張が解け、かせを外したように心が軽くなる。


『この人生に後悔はない。大切な人と出会えたから。その人のためなら命だって懸けても構わない。あなたの存在そのものを、私が生きた証にしたいのです』


 透き通った玉に一つ一つ糸を通しビーズにするかのように、メッセージをつむぐ。


『約束して。生きて。幸せになって。あなたが生きている限り、希望は残り続ける。私の人生はそれでようやく報われるのだから』


 最後に残った祈りの言葉。

 もしも当日に読めていれば……。


 小刻みに震える手を抑えられない。手のひらからノートがこぼれ、屋根の形で机に落ちる。あふれ出した涙が視界を淡い水色に染めた。


 生きて、ほしいだなんて。


 あまりにも切なくて、胸が苦しい。まるで海の底に沈むようだった。

 透明な雫が頬を流れ、あごすべる。足下でぽたりと落ちる音がした。


 私はただ、そばにいてくれるだけでよかったのに。

 それでも命をしてまで守ってくれた彼女の選択を、責めることはできなかった。




 静かな室内、時計の針が動く硬質な音だけが、鳴り響く。

 スタンドからシャープペンシルを取り出し、握りしめた。

 まずは六月一〇日と書き込む。


拝啓はいけい、愛しいあなたへ。この文が海を越えて空へ届きますように』


 丸い字が連なりやわらかな一文が浮かび上がる。


『あなたの死を無駄にはしない。故人の分まで精一杯に生き抜くことが、唯一にして最大のつぐないであると悟りました。

 まだ見ぬ明日へ歩いていく私を、どうか見ていてください!』


 澄み渡った心にほんのりと光が差し込む。

 雨は上がった。水溜まりにはきらめく空が映る。まっさらなキャンパスを横切るパステルカラーの虹は、クリアな未来を示しているようだった。

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