Felix Dies Natalis, Theodorus

ナルコスカル

「インペリアル」を愛筆にする子と、彼の家庭教師

 俺にとって大先輩である夏目漱石や谷崎潤一郎のそれが今でも読まれているように、いつの時代も「文具の話」は一定の人気がある。


 俺が百貨店の中を回る際のルーティーンはこうだ。まずは、テナントとして店を構えている大衆向けの雑貨店に足を運ぶ。ロ◯トとか東◯ハ◯ズとか、そういったものと同じような店だ。


 そこで俺が物色するのは、低価格帯、高くても5000円以下の文具だ。最近はだいぶ落ち着いたが、とある動画投稿者の影響で中高生に木軸のボールペンやシャーペンが、それとは別に成人女性の間では万年筆インクがブームになった。それらの余波はまだ続いていて、こういった店ではまだまだ文具の品揃えがいい。


 そこで俺は、必ず何か一つは新作文具を買う。ペンとは限らない。ノートの場合もあるし、愛用しているシステム手帳用用紙リフィルを買う事もある。消しゴム、定規、封筒や便箋、シール類、それ以外のチェックも欠かさない。


 大学生の頃から、俺はネット上のSNSに文具の記事を投稿している。現在では、読者からの「投げ銭」は決して小さいものではない。一時期は、大手小売店のブログや文具雑誌に寄稿していた。自分で言うのもなんだが、俺は文具の世界でそこそこ有名だ。だからこそ、あいつの目に留まったんだろうな。


 会計を済ませた品物を入れたビニール袋を受け取った俺は、このあたりで一回トイレに行く事が多い。身だしなみがチェックできるしな。俺は普段から愛用のリュックに入れてポーチを二つ持ち歩いている。一つは、ボールペンの替え芯リフィルや、もしもの時の万年筆洗浄液などを入れた文具関連。もう一つには、ワックスや予備のヘアゴム、それからリップクリームや折りたたみ式の櫛が入っている。


 それから俺が次に向かうのは、百貨店そのものや大手メーカーが経営している高級文具コーナーだ。什器の上で大量に陳列されている数百円のペンから一変して、こっちではショーケースに入った数万円クラスが、「安くはないぞ」というキラキラ輝く警告を放っている。


 とはいえ、今の俺の財布は実質的に「残機無限状態」だ。そこに差さっている黒いカードは上限額がなく、しかも支払いや年会費が俺に回ってこないように設定されている恐ろしい代物だ。もちろん、それは俺自身の名声で得たものじゃない。だから俺は、そのカードをあいつから頼まれた「おつかい」にしか使わない。


 高級文具コーナーの担当員と俺はすっかり顔馴染みだ。いつの時代も文具は一定の人気があるとはいえ、万年筆のような高価格帯は身も蓋もない言い方をすれば「先細りの世界」だ。ペンだけに。だから足繁く通う物好きは限られていて、それ以外の大部分はギフト需要だ。


 高級文具の世界は基本的に新商品や限定品の頻度が、低価格文具と比較して低い。だから百貨店に足を踏み入れる度に寄る必要はない。だが、俺は必ず最低でも挨拶だけはするようにしている。


 今は記事投稿の頻度がかなり落ちたとはいえ、俺の顔は文具の世界で知られている。どこで誰が見ているか分からない以上、公の場で礼節は欠かさない。それに、俺は「言葉」で稼がせてもらっている身だ。その重要性を、それに対してさほど興味がない人間よりも知っているつもりだ。


 最後に寄るのは、日本語で「白い山」を意味する、あの「文具の王」であるブランドのブティックだ。そこでも基本的に挨拶だけだ。黒いショーケースの中の数十万円クラスの限定品には、俺の本来の収入では相当背伸びしないと届かない。しかし、見るだけならタダだし、店員も俺が何者か知っている。


 余談になるが、あいつの初めての万年筆は、このブティックで買ったものだ。正確には、俺があいつの代理としてネット上で注文し、このブティックに到着したそれを引き取りに来たのだ。


 もっと正確に言うなら、受け取った場所は店先ではなく、普通の客は入れない百貨店の応接間だった。もちろん、地方都市のブティックにあんなものは入荷しない。「黒いカードの専任コンシェルジュ」が無理を通してくれた形だ。


『先生! 僕、これがいい! これに決めた!』


 俺が貸した文具雑誌を床に広げて爪で指し示すあいつを、指し示されたモデルを見た時、俺は本当に目玉が飛び出るかと思った。それは中国文明をモデルにした超高額万年筆で、万年筆なのにペンの尻側に毛筆を持つ、ある意味あいつに相応しくカラフルで可愛らしいものだった。お値段は全く可愛げがなく、万の左側に4つも数字が並んでいたが。


 俺ひとりで雑誌をめくっていた時は、「こんなの誰が買うんだ?」と首を傾げたが、まさか「俺の生徒」がそのひとりになるとは考えもしなかった。いや、あいつのクチバシから黒いクレジットカードを、まるで労いの缶コーヒーのように何気なく手渡された時に、いつかこういう事が起こるのかと予想していたのかもしれない。


 俺が百貨店に入るのはいつも開店と同時で、遅くても昼過ぎには出る。店の中かその周辺で昼食を済ませ、タクシーに乗り込む。行き先はいつも同じだ。だから運転手の中には、俺の顔を見ただけで発車させる奴もいる。俺はそれに文句を言ったりしない。そんな事に労力を使いたくないし、「下々の者の態度にいちいち小言を漏らす天上人」を気取りたくない。


 その気になれば徒歩で済ませられる距離だが、タクシーの中は貴重な「俺だけの時間」だ。いつもはリュックから取り出したタブレットで、あいつに見せたくない海外情勢のニュースや、ちょっとセクシーなお姉さんの動画を物色する。


 だけど今日は違う。俺はリュックからプラスチックのフォルダーを出して、そこから更に一枚の紙を取り出した。いつ見てもやっぱり噴き出しそうになる。


 それは、あいつからの最初の手紙だ。今はかなりマシになったが、このフニャフニャな筆跡筆致を最初見た時は、なんらかの脅迫文だと誤解した。しかも調べてみたら英語じゃなくラテン語だったから、更に怪しさが増したし。だけど今は、俺とあいつを繋いでくれた「えにし」だ。そんな事をしていると、タクシーはこの街で最も大きく、高級なホテルの前に到着する。


 俺の日々の生活を、ホテル側は熟知している。だから俺がホテルに着く時には、いつも俺とあいつ専属のホテルマンが出迎える。いつもと変わらない、皺一つないスーツ姿だ。一礼され、軽い挨拶を交わして、手荷物を渡す。そして、ドアマンが開けてくれたドアを通って中に入る。


 まるでディ◯ニー映画のミュージカルパートの舞台として出てくるような、華々しいエントランスを抜けて、俺たちはエレベーターに乗り込む。最初の頃はエントランスの煌びやかさに目を奪われたが、今の俺にはここは自宅同然だ。


 あくまで最低限の礼儀は失わないが、俺がこのホテルを「根城」とし始めてから数年は経つので、エレベーターの中でホテルマンは俺に雑談を持ちかけてきた。そもそも、ホテル側も今日がどういう日か熟知しているし、俺は一ヶ月ほど前からその手配をしていた。


 最上階に到着すると、そこには予定通り別のホテルマンが待機していた。俺は24本で構成された白い薔薇の花束を受け取る。それからそのホテルマンは持ち場を離れ、俺は専属ホテルマンに先導されて廊下を歩く。と言っても、最上階に客室は一つしか存在しない。俺たちはすぐさま巨大な両開き扉、最高級スイートルームの前に辿り着いた。


「失礼致します」


 手袋で包んだ拳でドアをノックしたあとに、その向こう側に向かってホテルマンが穏やかな声で言った。


「はーい! 先生が帰ってきたんだよね!」


 すぐにあいつの元気な返事が、廊下であるここまで響き渡った。今日の朝もそうだったが、やっぱりあいつの気持ちは普段より一段と上擦ってる。


「仰る通りでございます。ただいま開錠致します」


 その言葉のすぐに、ホテルマンはドア横の電子機器を操作した。ドアを開けるホテルマンに促され、俺は「あいつと俺の自室」に足を踏み入れた。


 やっぱりというか予想通りというか、広々とした部屋の出入り口と、そこから見えるリビングにあいつの姿はなかった。毎年の事だ。俺は小さなため息をついた。その時だった。


「ケンイチ先生! おかえり!」

「おわっ!?」


 持ち前の鋭い爪を突き立てて天井に張りついていたあいつ、テオドルスが俺へ目がけて力加減して飛びかかかり、俺は背中を前足で押されてスイートルームの床にうつ伏せになった。テオドルスは倒れた俺に覆い被さるように体を重ねた。俺の顔のすぐ横に、満面の笑みを浮かべたテオドルスのそれがある。純白の毛並みの仔グリフォンの、金色の瞳の下の黄色いクチバシから桃色の舌が伸びて、俺の顔を舐め回した。


「先生おかえり! 僕ずっと待ってたんだよ! ねえ、ケンイチ先生! 早くお祝いしてほしいな!」

「ただいま……分かったからちょっとどいてくれ……」


 俺はテオドルスの猛攻撃の合間を見て、それだけ呟いた。


「分かったよ、先生! あ、でも! 先生のお顔って、ちょっとオス臭くておいしんだよ! もうちょっと舐めてもいいかな?」

「何度も言ってるが……人間にはオスって言葉は使わない……!」

「そうだった! 今度からちゃんと直すよ、先生!」


 そんな俺たちを尻目に、専属ホテルマンは微笑みながら俺のリュックをリビングのテーブルに置くと、一礼したのちに立ち去った。俺の右手を確認すると、毎年の事だから無意識にそうしたのか、花束は無事だった。最初の年は無惨にも俺の胸の下敷きになって、テオドルスが泣いて謝ったのを今でも覚えている。


 テオドルスが俺の上からどいたので、俺は立ち上がって、左手で服を払った。テオドルスがキラキラした瞳で俺の顔を見上げている。今はまだ超大型犬ほどの大きさの仔グリフォンだからいいが、テオドルスが成熟するまでにこの習慣はやめさせよう。それが完遂できなければ、将来の俺は八つ裂きか内臓破裂のどちらかであの世行きだ。


「ふう……」


 俺は小さくため息をついた。すでに専属ホテルマンは退室し、このスイートルームには俺たちしかいない。つまり、ここからは俺たちだけの時間だ。俺はいきなり腰を落としてテオドルスのクチバシに花束を咥えさせると、左右の首筋をワシャワシャと撫で回しながら、おでこに何度もキスをした。


「お前のケンイチ先生が帰ったぞ。いつもヤンチャ坊主のテオドルス。昨日までの一年と同じく、今日も撫で心地が最高だな。これからの一年もその調子でいてくれよ。そしてずっと一緒にいよう」


 俺は、本当はテオドルスのクチバシに唇を重ねたい。だが、それはテオドルスが成熟するまで待つ事にしている。俺におでこへ何度もキスされて、最高に愛らしい笑顔を振り撒いているテオドルスも、前に同意している。グリフォンに人間の法は適用されないが、世間体は無視できない。テオドルスは私生児とはいえ、ローマ帝国時代から続くグリフォン王家の現女王の息子だ。


「フェンイヒふぇんふぇい! ほふほすっほいっふぉひひはひ!」

「花束を咥えてちゃ何言ってるか分からないぞ!」


 太陽のように明るい笑顔のテオドルスを置き去りにして、俺は駆け出して、スイートルームのリビングのソファーに倒れ込んだ。テオドルスはすぐさま追いついて、ソファーの上で仰向けになった俺に乗った。テオドルスはずっと笑顔だし、きっと絶対俺も笑顔だと思う。俺はテオドルスのクチバシから花束を受け取って、テーブルの上に置いた。自分のおでことテオドルスのそれを重ねる。


「俺がいなくてもいい子にしてたか?」

「もちろんだよ、先生! ほら!」


 そう言ってテオドルスは一度だけ羽ばたいて、テーブルの横に降り立った。俺が体を上げると、テーブルの上には俺が出かける前にキャップを外した「インペリアル」があり、その下には俺がお手本を書いた練習用紙が敷かれている。もちろん、万年筆は世界5本しか存在しない超高額モデルのうちの1本であり、練習用紙は俺がこれまでの知識と経験で吟味した日本製の万年筆用筆記用紙だ。


 テオドルスはその万年筆の尻の手前をクチバシで斜めに咥えると、用紙の上に「星界へAd Astra」と書いた。筆記練習パングラムという観点から見たら不適切なお題だが、純白の毛並みを持つ隠れた王子であるテオドルスにピッタリの成句だ。それに、これは俺がラテン語を勉強を始めた最初期に覚えた言葉でもある。


 このスイートルームに招かれた当初と比べて、テオドルスの字はかなり上達した。テーブルの上には他に、ホテルに手配を頼んだケーキや花束を入れる為の花瓶、それからタブレット端末も置かれている。テオドルスがタブレットを見つめると、インストールされている動瞳感知によって画面が点灯した。視線の動きと瞬きで素早くパスワードを入力してロックを解除すると、そこに表示されたのは俺の西洋書道カリグラフィーだった。


「早くケンイチ先生くらい上手くなれるといいな!」

「テオドルスなら絶対なれる」


 俺はソファーから身を乗り出して、テオドルスの頭を撫でた。テオドルスがニコニコ笑うと、思わず俺も嬉しくなってしまう。


 学生時代からSNSに文具の記事を投稿していた俺は、それと同時に字の上達や特殊な筆記術も練習していた。カリグラフィーもその一環だ。小説家なら「完成物」は製本され出版された本だから字の巧拙はあまり話題にならないが、文具記事の投稿者ではそうはいかない。記事の中で筆記感や筆致に触れるなら写真は不可欠であり、だから俺は字の練習をした。


 それが俺とテオドルスの出会いのきっかけだった。ネットの海をタブレット越しで眺めていたかつてのテオドルスが見つけたのが、俺が書いた記事だった。それからテオドルスは、ちょっと表では言えない方法で俺の住所を知ると、自分の家庭教師になってほしいという依頼の手紙を出した。それがあのミミズ文字の怪文書だ。


「まあ、今の俺の方が上手いけど。おめでとう、テオドルス」


 そう言いながら俺は、リュックから一通の封筒を取り出した。タブレットに表示されたカリグラフィーは俺の最初期の作品で、封筒の面に書かれたものはつい先日書いたばかりだ。そこにはシルバーのラメシマーが入った黄色のインクで「誕生日おめでとう、テオドルスFelix Dies Natalis,Theodorus」とある。もちろん、俺が丹精込めて書いたものだ。納得できずに何度書き直したかは言えない。


「先生からの今年のお手紙! ありがとう! とっても嬉しい!」


 インペリアルを紙の上に置いたテオドルスはクチバシでそれを受け取ると、嬉しさのあまりか駆け出して、開け放たれたバルコニーへのガラス戸から外に出ると、己の翼で街の空へと舞い踊った。そのクチバシには、俺の手紙がしっかり挟まれている。


 俺には具体的な金額がちょっと想像がつかないグリフォン王家の口座と紐付けされている黒いカードを持ってるテオドルスと俺にとって、「金で買えるもの」はあまり意味をなさない。だから俺たちは、お互いの誕生日に手書きの手紙を贈り合ってる。そして、今日はテオドルスの誕生日だ。


「…………」


 俺は全身で喜びを表現する仔グリフォンを見上げて、小さくため息をついた。この暮らしがどれだけ続くのか、俺もテオドルスも分からない。遅くてもテオドルスが成獣になる時には、王家の一員として正式に認められるか、一切の関係を否定されて放逐されるか決まる。


 どちらに転ぶか今は誰にも分からないけど、どちらに転んでも俺はテオドルスに添い遂げるつもりだ。今の俺の肩書きは、良く言えば「グリフォン王家の私生児の家庭教師兼アマチュア文具ライター」だが、悪く言えば「ただのフリーター」だ。テオドルス以外は、失うものはほとんどない。いや、嘘をついた。インペリアルより金額的に劣るとはいえ、身銭を切って買った「カラヤン」や「トロピチ」といった限定万年筆は俺にとって宝物だけど、テオドルスほどじゃない。


 つまり、俺にとって怖いものは何もない。いや、また嘘をついた。極秘で来日したテオドルスの母グリフォンである現女王は、睨まれただけで心臓が止まったかと錯覚するくらい怖かった。だが、少なくともテオドルスに向けた優しい眼差しは本物だった。


 とりあえず、悩んでいても何も始まらない。今は今を謳歌するべきだ。あの大型トラックくらい巨大な成獣グリフォンを「陛下」ではなく「お義母かあさん」と呼ばなきゃいけないかもしれない恐怖は、それに直面した時に考えよう。それに今日は祝いの日だ。


 空から戻ってきたテオドルスがテーブルの上に手紙を置くと、俺の胸に飛び込んできた。俺はその重さに耐えきれずに、またもやホテルの床に押し倒された。


「ケンイチ先生! 大好きだよ! 心の底から先生の事を大好きだと思ってる!」

「俺もだ、テオドルス。愛してる」


 俺の頬にテオドルスがクチバシでキスをしたから、俺もテオドルスの頬にキスをした。

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