第36話


 僕と楓彩さんが再開してから二回目の春が来た。

 日曜の朝、僕は鏡の前で髪を整えていた。

 ワックスを指に取り、手に馴染ませていると鏡越しにウザったい笑みを浮かべた姉貴と目が合う。


「お、デートかい?」

「そうだよ」

「マジか、知らぬ間に瑛太に春が来ていた」

「……なんで今日は昼起きじゃないのさ」


 僕の質問に、姉貴は目を細めてきた。


「人をそんなだらしない奴みたいな言い方するなって」

「実際だらしないだろ。そんなんだから……」


 言いかけたところで、殺気のような圧が背中を押していることに気が付く。

 だが、言いかけた時には遅かった。


「余計なお世話じゃボケ猿が」


 ボケ猿て。


「彼女の地雷踏み抜いて死ね」


 機嫌が斜めになってしまった姉貴は僕の尻につま先を刺すような蹴りを見舞うと、洗面所から離れていった。

 特に気には留めずヘアセットを再開する。


「ったく」


 僕はこの春から大学生になった。年齢的にはもう大人と呼ばれる人間だ。

 だが、僕の体は二年前を機に変わってしまった。

 食べても満たされない。寝ても頭がスッキリしない。

 何をしてもザルに水を溜めるような感覚になってしまう。


「……ふぅ」


 手に付いたワックスを洗い流し、支度を完了させ、スマホの時計を表示する。

 待ち合わせの時間には少し早いが、リビングで機嫌を損ねている姉貴にダル絡みをされるのは面白くない。

 僕は洗面所を出た足で玄関へと向かい、一声「行ってきます」とだけ言い残して家を出た。



 僕と楓彩さんが再開してからの二年間、彼女がタマホウシと戦ったという話を聞かなくなった。依然として出会う以前の話は何度か聞くものの、僕や小田原の街からタマホウシという存在が消滅しつつあった。


 代わり映えしない小田原の街を走行するバスの中から眺める。

 今でも、北条氏政に乗っ取られてしまった小田原の街を夢に見ることがあった。嫌な記憶だが、この記憶は僕だけが知っていて、今の僕を形成している大切な思い出でもあった。


『次は小田原駅東口』


 降車口が開き、人の流れに沿ってバスを降りる。

 今日は日曜ということもあるが、いつもより格段に人が多い。

 僕は小田原城方面へと向かう人の流れに逆らい、小田原駅の中を通り抜けて反対側のバスロータリーへと出た。


 そして、この二年で慣れ親しんだ山道へと入っていき、真上で照り付ける太陽を右手で隠しながら坂道を登っていく。


「ここは何も変わらないのか」


 舗装された道を外れ、獣道へと入っていく。

 木々が風に揺られ、時々名前の知らない鳥が鳴き声を上げる緑の世界を進んでいくと、徐々に人の気配が前方に現れ始める。


「……お」


 作業着を着た大勢の男が、鉄パイプに囲まれた日本家屋に色を塗っていた。

 鉄を叩く音や、野太い男たちの声、工具が鳴き声を上げ、鬼月邸はある意味では賑わいを見せている。


「磯崎さん」


 茶髪をポニーテールにまとめた女子高生へ背後から声を掛けた。


「あ、瑛太先輩。ってそっちから上がってきたんすか?」

「そっち?」

「せっかく道路作ったんだから正面から上がってくればよかったのに」

「あぁ、もう出来てたんだ」


 磯崎さんは高校三年生ながら、とあるプロジェクトの重要な役を与えられていた。


「うっす、そろそろ旅館鬼月邸の完成が見えてくるっすよ」

「さすが未来の女将さん」

「それやめい」


 磯崎さんから腹部へ水平に手刀が振られた。

 前々から鬼月邸が旅館だったら儲かりそうとは思っていたが、タマホウシ討伐を金に換えていた伊勢真の失踪により財源を失った鬼月家は新たな稼ぎ口を探さなければならなかった。

 旅館でもやれば? という軽口が楓彩さんと磯崎さんによって徐々に現実味を帯び始め、今に至る。


「といっても、後は本館の補修作業と内部設備のメンテナンス……あー他にも導入しなきゃいけないことがたくさんあるっすね」


 正直、今の磯崎さんは僕より大人だ。


「なんか手伝えることは?」

「なら、カエさんの面倒見て欲しいっす」


 カエさんとは楓彩さんのことだ。


「面倒?」

「ここ最近、旅館の経営を手伝うんだって聞かないんすよ。カエさん、今の学力だと瑛太先輩の大学厳しんじゃないすかね。この前の模試もヤバかったらしっすよ?」

「マジかい……なんでだろ」


 人の家の稼業の心配だけではなく、楓彩さんの将来まで心配している磯崎さんには素直に脱帽だ。

 僕自身、彼女のお人好しに命を救われた。


 出会い頭のドロップキック。


 初めは困惑と痛みでしかなかった凶行は結果として僕と磯崎さんとの間に強力な繋がりを生んだのだ。

 この旅館鬼月邸の開業も彼女のお人好しの延長線だと言える。


「わたしもカエさんの勉強見てあげた方が良いかな」

「ふっ、ありがとう、磯崎さん」

「んー? 別に瑛太先輩に感謝されることじゃないと思うっすけど。わたしだって、瑛太先輩には感謝してるんすから、このくらいは当然っす」


 二年前、正史通り楓彩さんが悪食のタマホウシおよび夢路のタマホウシと対峙したわけだが、国王丸を持たない楓彩さんが太刀打ちする術は無く、暴走を続けるタマホウシに対峙したのは他でもない僕だった。

 と言っても、楓彩さんのように苛烈な戦闘を繰り広げたわけでは無く、触れただけで吸収してしまったのだ。


 僕はタマホウシになった。

 いや、楓彩さんが言うには半分タマホウシになったというのが正確らしい。


「瑛太先輩、良かったら外周回るっすか?」

「いや、楓彩さんを迎えに行くよ」

「まだ準備できてないと思うっすよ? さっき話したし」

「そっか……じゃあ準備できるまで案内してよ」

「よし来た」


 磯崎さんは嬉しそうに踵を返して歩き始め、僕はその後ろを付いていく。


「すっげ、展望台じゃん」


 鬼月邸の外周を進んでいくと、家屋を取り囲んでいた木々が無くなっている箇所が姿を現した。

 コンクリート製の綺麗な地面に覆われ手すりに覆われた天空の足場となっていた。


「この旅館の名物になると思って」


 小田原街の向こうに海が望める絶景。

 さすがに、小田原駅隣接のビルより高いとはいかないが、旅館としてのロケーションはハイレベルだ。


「すごいのは鬼月家の貯金額っすけどね」


 ここまでの改装工事が行えたのはタマホウシ討伐による貯蓄だが、僕はその額に対して驚かなかった。「だろうな」という感想しか得なかった。


「まぁ、無欲な家計だしね」

「悪かったな、つまらない家族で」


 小田原の街並みを見下ろしていると、背後から重みのある声がした。


「は、隼人さん!」

「何をしに来た、瑛太」


 隼人さんは鋭い目つきのまま口角を少し上げる。

 相変わらず何を考えているのか分からない怖い顔だが、少し慣れてきた。


「肉体労働がしたいなら、あそこの丸太を運んでくれ」

「話聞いてました? てか、あれは重機の仕事ですよね……ですよね?」


 目が本気だった。

 これは僕がタマホウシだと知っての責め苦だろう。


「冗談だ」

「……相変わらず冗談は上達しないですね」


 隼人さんは鼻で笑うと、僕の頭を鷲掴んで撫でまわしてきた。

 お陰でヘアセットは滅茶滅茶になってしまったが、悪い気はしなかった。


「で、何をしに来たんだ?」

「提灯祭りがやってるので、楓彩さんと一緒に行こうかと」

「ん? 楓彩ならさっき、ウキウキしながら降りていったが」

「え」

「……なんだ、待ち合わせしていたわけじゃないのか」

「ご、ごめんなさい、隼人さん! 失礼します」

「待った、臨も連れて行きなさい」


 急に呼ばれた磯崎さんは目を丸くして僕と隼人さんを交互に見つめた。


「え、でも……」

「この男と娘を二人きりにするな」

「あ、おけっす」

「心外すぎる……」


 磯崎さんは抱えていた迷いを一瞬で投げ捨てて、去ろうとする僕の背中へ付いて来た。

 まぁ、面倒な事になったが、磯崎さんくらいなら食べ物で釣れば撒けそうだ。


 僕はせっかくなので、新たに舗装された来客用道路から山を下ることにした。

 鬼月邸へ行くにはイノシシと隣り合わせの山道を進むしかなかったのに、近代的できれいなコンクリートが敷かれているのは凄く新鮮な気分になる。


「瑛太」


 僕が一歩踏み出すと、再度背後から呼ばれる。


「はい?」

「……気を付けて行けよ」


 何も変わっていないようで、隼人さんはしっかり変わっている。良く言えば丸くなった。悪く言えば牙を抜かれた、と言ったところだろうか。


「はい、行ってきます」



 僕らは鬼月邸から新たに伸びた道路を通って下山し、小田原駅前まで出てくる。


「ったく、少しは空気読んでくれよな」

「大丈夫っすよ、頃合いを見てちゃんと消えるっすから」


 出来た後輩だ。あの鬼月隼人を騙せるとは。


「てか、瑛太先輩って、カエさんとは……その……」


 何やら聞きにくい事らしいが、不自然に視線を逸らしている点からプラトニックなことを聞きたいらしい。


「磯崎さんが聞いたら夜眠れなくなるくらいの事はした」

「―――!」


 声にならない悲鳴が上がる。


「冗談。手を繋いだくらい」

「あれ、二年も経っててまだそこ?」

「なんだ急に強気じゃん……仕方ないんだよ、楓彩さん、そう言う雰囲気になるとすぐ逃げだすし、無理強いは出来ない。何より受験が控えている今は自重しないと」

「……本音は?」

「壊れるくらい抱きしめたい」


 磯崎さんは少し早歩きになって、僕から距離を取った。


「言わせといてそれは無いだろ」

「いや、いざ言語化されるとマジキモいなって」

「酷い」


 小田原駅前まで来たところで、磯崎さんが徐に歩みを止めた。


「あれ、京香先輩じゃないっすか?」


 磯崎さんが指さした方を見ると確かに、ギターを背負った里美沢京香の姿があった。高校を卒業してより一層、彼女らしいパンクな姿になった気がする。


「ナンパされてるっすね」


 もう一人、頭を明るい茶色に染め上げた男が楽し気に里美沢へ話しかけている。

 僕は二人へ歩み寄り、男の背後から声を掛けた。


「おい、ナンパ野郎」

「――っくりしたぁ、瑛太かよ」


 僕はナンパ男が中崎亮平だと知った上で声を掛けた。


「あれー、上ヶ丘くんじゃん、久しぶり」


 亮平の影から、里美沢が顔を覗いてきた。


「珍しい組み合わせだな」

「そう? 俺ら同じ大学だぜ?」

「お前の方こそ磯崎ちゃんと一緒なのな」


 と、呼ばれた磯崎さんは亮平と里美沢へ「どもっす」と挨拶を交わした。


「お、浮気かー? 上ヶ丘くん浮気してんのかー?」


 里美沢はここぞとばかりに揶揄ってきた。


「違う。諸事情で仕方なく磯崎さんと一緒になっているだけだ」

「おいこら、人を妥協案みたいな扱いしないでもらえるっすか」


 抗議する磯崎さんは置いておいて、僕はスマホを取り出して、楓彩さんへ電話を掛けることにした。


「もっと早くに電話しておくんだった」

「なんだよ、喧嘩でもしたのか?」

「いや、ちょっと間が合わなかっただけ。家まで行ってサプライズしようとしたらすれ違った」


 楓彩さんとは小田原城前の通りで待ち合わせている。だが、朝起きてから一刻も早く楓彩さんに会いたかった僕は早めの時間に出て鬼月邸へと向かったのだ。

 急がば回れとはまさにこのこと。


「あれ、出ない」


 楓彩さんが電話に出ることは無く、何度掛け直しても不在着信になってしまう。


「ついに瑛太が嫌われたか」

「ぷくー、鬼月に嫌われたら上ヶ丘くんいよいよ独身コースじゃん」

「なんでお前らにそこまで言われなきゃいけねぇんだよ。てか、そんなに仲良かったか?」


 高校では二人が仲良さげに話しているところはほとんど見なかった。

 だが、同じ大学という空間が二人をそうさせたのだとしたら納得せざるを得ない。


「まぁ、中崎くんにはバンド活動の手伝いしてもらってるしね」

「バンド? 里美沢、そう言えばお前、ギターなんて持ってるとは思ったが、いつからバンド何て始めたんだ?」

「……え、まさかみちるさんから何も聞いてない?」

「姉貴?」


 上ヶ丘みちるは僕の姉だ。


「アタシ、充さんのバンドでギターボーカルやってんの」


 初耳だった。

 姉貴がバンドをやっていることも初耳だった。


「あ、姉貴、楽器なんか持ってたっけ?」

「あの人、練習とかしないし、スペース取られるのが嫌って理由でアタシの家にベース置いてるけど」

「そんなんで足引っ張ってない?」


 里美沢は僕の質問に対して、スマホの画面を見せてきた。


「これ、あの人のアカウント」


 フォロワー十万人越えのSNSアカウントだ。

 画面をスクロールしていくと、ベースを弾いている手元の動画を何個もアップしている様子がうかがえた。


「今日も祭りのステージで演奏するし、見に来れば?」

「……な、なんかショック」


 身内にちょっとした有名人がいたとは今日一番の驚きだった。おまけに、姉貴が今日は早起きしていた理由が明らかになった。


「弟のお前はこんなだけどな」


 と、亮平が暑苦しく肩を組んできた。


「うるせぇ、お前もお前でカナメとはどうなんだよ」

「この前、江の島行ってきたぞ?」

「破局フラグじゃん」


 江ノ島へデートに行ったカップルは別れるというジンクスが僕の周辺ではあった。

 ネットなどでも、江の島デートは不吉だという意見がチラホラ散見される。


「あーん? じゃあこの写真を見てもそんなことが言えんのか?」


 と、惚気られそうになったので咄嗟に亮平のスマホを持つ手を抑える。


「遠慮しておく」

「てか、中崎くん、カナちゃんと付き合ってないでしょ」


 里美沢の横やりで僕と磯崎さんの冷たい視線が亮平の頬へ刺さる。


「え、そうなの?」

「交際前デートってやつだろ、これは……てか、京香のブロックが強すぎんだよ! いい加減交際を認めてくださいよ!」

「愛が足りない。あともっとスムーズに機材運んで」


 なるほど、僕が楓彩さんに現を抜かしている間に、亮平やカナメ、里美沢の間では色んなドラマがあったようだ。

 半ば羨ましそうに亮平と里美沢を見つめる磯崎さんだが、恐らくこいつらの青春は多少なりとも歪んでいるので、気にしないでもらいたい。


「さ、行こうか、本来の待ち合わせ時間に遅れる」

「あ、上ヶ丘くん」

「ん?」


 歩き出したと同時に里美沢に呼ばれ、首だけを背後へ向ける。


「今日、カナちゃんも来ると思うから、見つけたらアタシが探しているって言っておいて?」

「自分でメッセージ送ればいいだろ?」

「あいつここ最近スマホ見てないんだよ。お願いね」


 僕は小田原駅の脇を抜けて小田原城址公園へと向かった。


「何だかんだで、卒業後も仲いいっすね、先輩方」

「まぁ、色んなことがあったしね」


 色んなこと、という言葉を使った僕の横顔を磯崎さんは見上げてきた。

 彼女が想像している色んなこと、僕が思い浮かべる色んなことには大きな差があるだろう。


 悪食のタマホウシは心底怖かった。夢路のタマホウシは二度と会いたくない。

 伊勢先生とはもう一度話してみたい気もするし、現れたら現れたで、厄介なことになるのは確定してしまう。難しいところだ。


 単純に僕はあの梅雨の季節を二回も経験してしまったのだ。

 だからこそ、高校で知り合った亮平やカナメ、里美沢とはいつ会っても昨日のことの様に話しが出来る。

 彼らは僕の人生において心の大部分を埋めてくれているのだから。


「やっぱり今日は人がたくさんいるっすね」


 小田原城前の歩道は祭り目当てで訪れた人々で埋まっており、思い通りの歩幅で歩くことは出来なくなっていた。

 車道も大渋滞となっており、いつも以上の喧騒に包まれている。


「年に一度だしね……ていうか、これじゃ楓彩さんを見つけるの無理じゃね?」

「っすね。カエさん小さいし、瑛太先輩、この人たち吠えて退かしたらどうっすか?」

「出来ちゃうぞ。やろうと思えば」

「マジでやめてくださいっす」

「とにかく、これじゃあ楓彩さんを探すどころじゃないな」


 僕らが、人の壁に呆気に取られていると一台のハイエースが僕らの真横に止まった。

 内側が見通せず少し怪しい雰囲気があるなどと思っていると、窓が下がり始めた。


「よ、二人とも!」


 中から姿を現したのはサングラスと黒のキャップを被った怪しい女だった。


「不審者だな」

「っすね。不審者っすね」

「ちょ、二人して酷くない? てか乗って! 色々マズいからさ」


 女がドアを開けると、僅かな注目が集まり、僕らの背後で声が上がる。


「え、夢野ゆめのカナメじゃん!」

「あ、やべ」

「え! うそ! 本物⁉」


 騒ぎは徐々に広がっていき、このままいけば軽いパニックになりそうな勢いだった。


「早く乗って!」


 カナメに引っ張られ、僕と磯崎さんはハイエースの中へと乗り込んだ。


「佐藤さん、進めそう?」


 カナメは運転席に座るスーツ姿の女性に声を掛けた。


「無理、少し大人しくしててください」


 黒髪をハーフアップにした大人らしい女性は表情一つ変えずに答えた。そんな彼女とルームミラー越しに視線が合う。


「お友達ですか?」

「うん、高校の時の大親友」


「そうですか。夢野カナメのマネージャーをしております、佐藤です」

「あ、どうも……カナメがお世話になってます」


「ちょっと瑛太くん、なにそれー」

「はい、死ぬほど苦労してます」

「佐藤さん、なにそれ……」


 顔を引きつらせるカナメい対し、磯崎さんが首を傾げ質問した。


「というか、乗っちゃって良かったんすか?」

「あーうんうん、大丈夫大丈夫。どうせ進まないみたいだし。それにお菓子あるから食べて良いよ、臨ちゃん」

「いや、手口が誘拐犯のそれと一緒なんすけど」


 と言いながらも、差し出された箱に手を伸ばす磯崎さん。


「それにしても、久しぶりだな。カナメ」


 高そうなお菓子を食べ始めた磯崎さんを可愛がるような笑顔で見つめるカナメに声を掛けた。


「うん、一年ぶりくらいだね」

「順調そうか?」

「んーまぁ、この前、江の島行ったし」


 ここでは仕事のことを聞きたかったが、カナメは亮平との関係について話始めた。

 後で聞く予定ではいたので止めはしなかった。


「マジ、破局フラグだよね」

「それな」


 どうやら浮かれていたのは亮平だけらしい。


「でも、そろそろちゃんとしなきゃね」

「早く付き合えよ、お前ら」

「今はスキャンダルになるようなことは控えてください」


 と、運転席から喝が飛んでくる。

 どうやらカナメと亮平を隔てる物は多いようだ。


「さっき里美沢と会ったぞ」

「あー京ちゃんとも会いたいなぁ」

「その里美沢も会いたいって言ってた。今日はステージにも出演する見たいだから会いに行けよ」

「おーいいねいいね! てかさ! 今日の夜とかみんなでご飯行こうよ!」


 と、ルームミラー越しに佐藤さんと目が合ったのか、カナメは笑って誤魔化した。


「そういえば楓彩ちゃんは? なんで一緒じゃないの? 浮気?」

「なんで皆して浮気させたがるんだ」

「そうっすよ、浮気相手のわたしが気の毒っす」


 いや、気の毒なのは僕なのだが。


「今楓彩さんを目下捜索中なんだよ。多分待ち合わせ場所に行けばいるとは思うけど」

「待ち合わせ場所は?」


 僕がカナメに待ち合わせ場所を伝えると、カナメは運転席の佐藤さんの肩へ触れた。


「ねぇねぇ、佐藤さん。友達のために無茶したいんだけど」

「いつものですか」

「今度ラーメン奢るから!」

「仕方ないですね」


 何だかんだで、カナメはマネージャーさんとも上手くやっているらしくて安心した。おまけに、彼女の仕事っぷりはSNSを見ていれば随時確認できるため心配する必要は無さそうだ。



 僕と磯崎さんはハイエースを降りて歩道へ戻った。

 だが、先ほどまでの人混みは無く、明らかに人が減っていた。

 というのも、ほとんどの人が、カナメがSNSでゲリラ的に投稿した写真によって本来の道から離れていったのだ。


「カナメ先輩、すごいっすね」

「たまに自分の強みを活かすのが上手くなるんだよな、あいつ」


 目的地である通りに出ようとしたところで、磯崎さんは徐に歩みを止めた。


「磯崎さん?」

「わたしはここまでっす。弟たちが来てると思うのでわたしはそっちに合流するっす」


 本当に出来た後輩だ。


「ありがとう、救世主様」

「なんすかそれ……カエさんの事、泣かせちゃダメっすからね」

「はいよ」


 磯崎さんは無駄にかっこよく踵を返して来た道を戻っていった。

 去り行く磯崎さんの背中へ心の中で感謝しながら、僕は大通りへと出た。

 小田原城のお堀へと続く道は車通りが規制され、いわゆる歩行者天国となっている。

 人々は左右で行と帰りの列を作り、進んでいた。

 通りに生えた桜の木からは真っ白な花びらが雪の様に降り注いでおり、幻想的な景色に見えた。


「あ」


 風に舞う花びらと戯れるように白いワンピースの長袖が揺れていた。

 流れていく人々の上、青空を覆う桜を彼女は子供のような横顔で見上げている。

 まだ五メートルの距離があるのに、埋まらなかった心の半分が少しずつ満たされていくのを感じた。


「楓彩さん」

「あ、瑛太さん」


 楓彩さんは僕と目が合うと、小走りで近寄ってきた。


「待った?」

「はい、十五分と三秒です」

「細かいな」


 楓彩さんははにかむような笑みを浮かべると、僕の左側へと立ち位置を移動し、並んで歩き始める。


「何かで埋め合わせしないとな」

「私、屋台の焼きそば食べてみたいです」

「じゃあ行こうか」


 僕は歩きながら、ユラユラと風に揺れる楓彩さんの左袖を見た。

 全てが元通りになったわけじゃない。失った物は確かに在る。

 伊勢先生だって、見方によっては僕の人生の一部だった。

 だけど、一番手に入れたかった人は僕の隣で笑顔を咲かせている。


「楓彩さん」

「?」


 僕は楓彩さんの顔を覗き込んだ。

 この二年間、楓彩さんのいろんな顔を見てきた。怒った時は子供っぽく口をへの字にして目を合わせてくれなくなる。悲しい時は無言で手を繋ごうとしてくる。

 お涙ちょうだいの映画では心配になるほど号泣するし、お笑い番組を見ている時は僕も釣られて笑ってしまう。

 もっと楓彩さんの顔を見ていたい。もっと楓彩さんと同じ空気を吸っていたい。もっと楓彩さんに触れていたい。


「……楓彩さん」

「は、はい」


「……模試、ヤバかったんだって?」

「んが!」


 口を大きく開けて驚く楓彩さんの反応から磯崎さんの言葉はどうやら事実らしい。


「はぁ、このまま楓彩さんが僕と同じ大学に進学できなかったら、寂しくて世界滅ぼすかも」

「シャレになってないですね」

「世界と僕のためにも、受験勉強を頑張ってもらわないと」

「うぅ……はい」


 楓彩さんは何か不安でもあるような微妙な返事をした。


「どうかしたの?」

「今から自信が無くなってきました……」

「大丈夫、僕も磯崎さんも、後は何気に勉強が出来る里美沢も手伝うから」

「さ、里美沢さんは少し怖いです……」


 と、楓彩さんは困り笑顔を浮かべた。


「楓彩さん一人で頑張るわけじゃないから、不安がる必要なんて無いよ」

「えへへ……そうですか? なら頑張れそうです」


 彼女の声や体温は世界を壊してまで手に入れる価値があった。

 鬼月楓彩は僕の半分であり、上ヶ丘瑛太は彼女の半分なのだから。

 どちらかが欠ければ募る欲求不満はどんな形であれ世界を崩壊させる。

 でも、その終わりはいつか必ず訪れてしまう。

 だからこそ今は、彼女の手を握りしめて桜並木の下を歩くのだ。


「離さないで」

「……はい!」


 この世の終わりまで、君と一緒に世界の行く末を背負いながら。

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ハーフ/グリード 取内侑 @toriuchi_yu

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