第35話


 カナメの家を後にし、僕と美川明日実が出会うであろう空き教室でその時を待ち続けて早くも三日を遡った。


「あぁ……退屈だ」


 僕は黒板前の段差に腰を掛けて項垂れる。

 教室の中は酷く荒れており、窓ガラスは割れ、床の傷はタマホウシと少女の戦闘を物語っている。教室前の廊下には規制線が貼られており、物好きな生徒が立ち入らないようになっていた。

 あの事件以来、この教室に訪れるのは初めてだ。


「国王丸、何か面白い話」

「緊張感」


 リラックスし切っていると、国王丸から短い喝を入れられた。


「暇ならやはり剣術指南をしてやろうか?」

「んなこと言って、山走りさせるだけじゃん」


 ここ数日、国王丸は事あるごとに僕へ鍛錬を進めてくる。

 初めのうちは鬼月さんの修行を追体験するつもりで話に乗ったが、酷く後悔した。

 国王丸は木々を避けながら下山するだけだと簡単そうに言っていたが、見分けのつかない木の配置を間違えることなく駆け抜けるのは最早神業だった。


「楓彩の記録を越すとか息巻いていなかったか?」

「ごめんなさい無理です」

「意思が弱いな」

「意思というか、一朝一夕で出来るものじゃないでしょ、あれ」

「楓彩は二日で完走した」

「マジ?」

「……マジだ」


「何、今の間」

「……少し手伝った」


 僕は国王丸の刀身を手の甲で叩いた。


「考えてもみろ、十才の少女がイノシシやクマがいる山道を一人で駆けおりるんだぞ? 人の心が残っていれば見過ごせないさ」

「それは同感」

「だとしても、楓彩は三か月もあれば自力で完走した……傷だらけになりながら」

「さすがは鬼月さん」


 このように、この三日間は国王丸との会話を楽しんでいた。

 主に、国王丸は鬼月さんがどんな修行をしていたのか、これまで鬼月さんがどんな苦労をしてきたのかなど、需要のある話を提供してくれた。


「……ところでさ、国王丸の本名って」

「今さらそんな話か? まぁ良いが」


「氏直って確か北条五代の最後の人だよね」

「そう大したものでは無い。ただ父上の言いつけを守り続けて、結局後悔して死んだ哀れな敗北者だ」


「確か関東支配してたんじゃなかった? そこまで卑下しなくても」

「いいか? 人の後悔をむやみに否定しない方が良い。より深くなる」


「めんどくさ」

「さらに傷つく」

「……」


 急にメンヘラみたいなことを言いだした戦国大名は中々愉快だ。


「ふっ……楓彩ともこうしてよく話していた」

「そうなの?」


「母を失い、愛する人と繋いだ左腕を失い、それでも折れない彼女を私は支えてやりたかった。こんな古臭い話では年端のいかない少女を楽しませるには実力不足だったが……」


「……」

「最初は隼人の頼みで、仕方なくと思っていたが、次第にあの子の人間としての強さに惚れていたんだろうな」


「意外なライバル出現」

「……敵に塩を送るわけでは無いが、数少ない共通の話題だ。ここだけの楓彩の秘密でも話してやろう」


「マジですか!」

「と、行きたいところだったが……」


が、気が付けば教室の中には夕陽が差し込んでおり、その時が近づいていた。

 僕は立ち上がり、自分が座っていた床を注視する。

 記憶が正しければ、巨大蜘蛛を模ったタマホウシは黒板の下あたりで鬼月さんに討伐されたため、美川明日実が現れるとしたらこの教室の黒板の下だ。

 証拠に、徐々にではあるが、僕の足元を中心に影の様な物が浮かびつつあった。


「上ヶ丘瑛太」

「ん? あ」


 顔を上げると知った顔が白衣のポケットに両手を入れてこちらへ歩いて来ていた。


「伊勢先生……またかよ」


 伊勢先生は半ば呆れる僕に気づきもせず、僕の足元で屈んで右手を床へ突き出した。

 すると、伊勢先生の右手から糸状の影が現れてはみるみるうちに巨大蜘蛛を模っていく。


「なるほどね、伊勢先生が簡単にタマホウシを隠蔽できたのはこういうことか」


 まるで所有物であるかのようにタマホウシを出し入れしていとしたら、一般人に対してタマホウシという存在が公になっていないのも頷ける。

 伊勢先生はタマホウシから離れ、嫌な笑みを浮かべて空き教室から出ていく。

 そして入れ替わるように二人の気配が教室の中へ入ってきた。


 恐らく、僕と鬼月さんだろう。だが、いることは分かっても姿が見えたり声が聞こえたりはしない。ただ、陽炎のような空気の揺らめきが見えるだけだ。


 程なくして、蜘蛛が起き上がり、見えない何かとの戦闘を始めた。

 傍から見れば蜘蛛が荒れた教室を直していく光景にしか見えないが、この時の恐怖は今でも骨に染みついている。

 やがて、蜘蛛のタマホウシは人間の姿へと戻っていき、見知った美川明日実の容姿を形成した。


「今だ」


 僕は黒板の下で項垂れる美川明日実の体へ手を伸ばした。


「え?」


 僕の指は美川明日実の右肩を直前に見えない壁に阻まれた。壁というよりは僕の腕が勝手に動きを止めているような感覚だ。


「な、なんで」

「何をしてる?」

「触れない!」


 全体重をかけて美川明日実へ倒れ込もうとしても、ある一定の距離まで近づくと、完全に動きが止まってしまう。


「まさか、反発しているのか?」


 同じ物は同じ世界に存在できない。

 国王丸に習った言葉を思い出した。


「そんな」


 今、教室の真ん中あたりで怯えているでありう僕のことは認識できないのに、同じ情報を持ったはずの美川先輩を認識できている矛盾が生じている。

 全身に力を込めて右手を美川明日実へと押し込もうとする最中、耳を舐めるような嫌な視線を感じた。


「え」

「ふふっ」


 顔面を鮮血で濡らした美川明日実はこっちを見ていた。


「無駄だよ、瑛太くん」


 言葉は相変わらず逆再生だ。なのに意味だけはハッキリと理解できた。

 まるでこちらの苛立ちや不安を全て見透かされているような笑みを浮かべている。


「君の席には私がいるから」

「……そう言うことか」


 理解に苦しんでいる傍らで国王丸が声を上げた。


「異なる時間の向きが反発し合っている。君が逆行している限り彼女に触れることはできない」

「じゃあどうすれば!」


 不意に、美川明日実の顔が僕の耳元へ迫った。


「―――バイバイ、瑛太くん」


 次の瞬間、床に散っていた血液が美川明日実の頭部へと吸い込まれていき、見えない糸で引っ張られているかのように彼女の身体が教室の窓際中央へと飛んでいく。

 ぴたりと止まった彼女は横目で僕のことを見ながら、壁際に追いやっている誰かへと唇を迫らせた。


「ま、待て……待ってくれ!」


 僕が美川明日実を追いかけようと一歩踏み出したその時、窓の外から差し込んでいた光が消えた。

 辺りは一瞬にして夜のような闇に包まれ、ありとあらゆる生命体の気配を消失させる。


「な、なんだこれ……おい、何なんだよ!」


 美川明日実も、彼女にキスされていた男の気配も、これから現れる少女の気配も……何もかも消えてしまった。

 光は一切ないはずなのに、教室の中の景色は色を変えることなく、不自然に色を放ち続けている。


「国王丸……これは……」

「……」

「……国王丸!」

「……残念だが……ここまでだ、上ヶ丘瑛太」


 国王丸の言葉は無情にも頭の片隅で理解していた現実を掘り起こした。


「いや、だって……そんなの……」

「君の存在は美川明日実に上書きされてしまった……もう現世に戻ることは出来ない」

「な、ならもう一度あの時の力を! もう一度時間を巻き戻せば!」

「もう私の中に力は残っていない……それに、時空を歪めたのは父上の力あって出来たことだ」

「あ……」


 思考が止まった。

 今の時間が前と後ろ、どっちへ向いているのか分からなくなった。

 いや、止まっているのかもしれない。

 ただ、これまで虚勢を張っていた自我が音を立てて壊れたのを感じた。


「……どこへ向かう気だ?」

「何とか……何とかしなきゃ」


 分からない。自分が何を当てにして歩き始めたのか。

 僕の体は手に入らない物を求めているように、生理現象であるかのように空き教室を出て、真っ暗な校舎内を進み始める。


「上ヶ丘瑛太、どこへ行く気だ」

「まだ……」

「止まれ、もうその先には何もない」


 止まっても何もない。

 動いてないと何もかも失ってしまう気がした。


「まだ、まだ僕は鬼月さんに何もしてあげられてない……こんなところで終われないんだよ」

「君まで悠久に苦しむことは無い」


「……」

「……幸い、私は刀だ。雑多な凶器よりは命を刈り取るのはたやすい」

「国王丸……」


 僕は国王丸を目線の高さまで持ち上げ、その見事なまでの刀身を見つめた。

 多少の傷がついていたり、切っ先の辺りに刃こぼれはあるもの、鏡の様な刀身は芸術品のように美しい。


「私は五百年を経験した。千年も一万年も変わらないさ」

「そっか……まぁ、その時が来たら……」


 これが僕の終わりだ。終わりがあるだけマシなのかもしれない。

 今なら伊勢先生が死に際にどんな感情を渦巻いていたのか想像できる。

 自分が今まで残してきた後悔や、寂しさだけが胸の中に充満していく。頭の中は妙に霞が勝っていてぼんやりする。


 諦めきれないのはまだ僕の脳裏に彼女の、鬼月楓彩の不器用な笑顔が焼き付いているからだ。心臓に絡まる有刺鉄線の様に絡まって解けることは無い。


「なぁ、国王丸」

「ん?」

「僕はどこで何を間違えたんだろうな」

「……そうだな……どの欲求も叶うとは限らない。だが、向かうこと自体は決して間違いであってはならない。君の生き様は良いものだった。半分はな」

「半分……か」


 変なところで厳しい評価を貰った。


「ありがとう、上ヶ丘瑛太。君の思いであの子は少しでも報われたさ」

「ははっ……刀に慰められた」


 僕は適当な廊下で腰を下ろし、柱に背を預けて窓の外を見つめた。

 黒い幕で覆い隠されているように見えるし、夜空が広がっているようにも見える。

 代り映えしない光景に早くもうんざりした僕は項垂れて視界を塞いだ。

 この欲求が続く限りは自決はしない気でいたが、早くも心が折れそうだった。


「はぁ……」


「―――あのぉ、大丈夫っすか?」


「――⁉」


 顔を上げると、茶髪をポニーテールにまとめた後輩女子、磯崎臨の顔があった。


「え」

「さっきからそこでぐったりしてるっすけど……」

「……」

「体調が悪いなら保健室行くっすか?」


 磯崎さんの手が肩に触れて揺らしてきた。僕の意識や感覚が彼女の声に釣り上げられ浮上していくにつれて、窓の外を覆っていた黒幕が上がっていった。

 心配そうな表情をした彼女が覗き込んできて僕の目をまっすぐ見つめてくる。

 幻覚じゃない。

 感覚はあるし、瞳には僕の姿がしっかりと映っている。


「もしもーし、顔色悪いっすけどー?」


 僕は磯崎さんの手を握り返し、立ち上がった。


「え、ちょ」


 言葉は出てこなかった。

 今は磯崎さんの顔が、ポニーテールが神の姿に思えて仕方がない。

 胸の淵から高揚感が噴き出す勢いに任せて磯崎さんの体へ抱き着いた。


「は⁉ なになになに!」

「ありがとう……! 本当にありがとう……!」


 まだ泣くには早い。

 磯崎さんの体を離し、すぐに周囲を確認する。

 何もかもが僕の知る動き方をしていた。鳥の飛び方も、風の感じ方も、人々の話声も。

 磯崎さんが精一杯困惑しているのを尻目に、僕は踵を返した。


「え、ちょ、ちょっと! 何なんすか!」

「磯崎さん! 君の悩みは僕が! 上ヶ丘瑛太が解決してくれる! 僕を探せ!」


 これがせめてもの恩返しだった。

 今は咄嗟に降りた最後のチャンスを逃さないために三階の空き教室へと走る。


「国王丸! これなら! この時間の向きなら!」

「あぁ! 美川明日実に触れれば君たちの情報は一つになる! 悪食の少女のお人好しには感謝するべきだな!」

「あぁ! 今度腹いっぱい食わせてやる!」


 なぜ、磯崎さんが僕のことを認識できたのかは今は分からない。

 この奇跡を手放さないように、太ももが熱くなるのを感じながら階段を駆け上がる。

 まだ全てが元通りになったわけでは無い。

 こんなに廊下を全力疾走しているのに、すれ違う生徒や教師は僕に目もくれなかった。

 まだ僕はこの世界に存在していないのだ。


「―――」


 三階の空き教室にたどり着いた。

 既に美川明日実は壁に追いやられている誰かに唇を迫っている。

 あと三秒。

 僕は邪魔な机の上に駆け上り、最短距離で美川明日実の背中へと走った。


「届けぇぇぇぇっ!」


 確かに、美川明日実の右肩へ触れた。

 だが、次の瞬間には僕の右手が触れていたのは固く冷たい壁だった。


「――え」


 勢い余って、僕は胸を壁に打ちつけ、バウンドするように、壁から離れた。


「え、あれ?」


 美川明日実や、壁に追いやられていた男子生徒の気配は感じない。

 だが、身体の感覚は重々しく神経を覆っていた。


「も、戻ったのか? これ……どうなっ――」


 一瞬の出来事だった。

 鋭い痛みが僕の左のこめかみを襲い、凄まじい衝撃によって僕の体は机や椅子をなぎ倒して黒板に衝突した。


「いっ……たぁ……!」


 じんわりと滲むようにこめかみの辺りが熱くなっていく。


「え、あれ⁉ なんで!」


 熱くなっていくのはこめかみと、目頭だ。


「ごごごごめんなさい! 私、てっきりタマホウシを殴ったと……!」


 愛おしい人、鬼月楓彩が何も入っていない左袖を揺らして僕の目の前で狼狽えている。


「大丈夫ですか⁉ はっ! それより、タマホウシは!」


 鬼月さんは騒がしく、バットケースから日本刀を取り出して構えては、険しい表情であたりを見回した。

 夕日に染まる刀身も、日本刀が似合わない痩躯も、フワフワしたショートボブの髪型も、何もかもが懐かしい。


「大丈夫……もう大丈夫だよ……」


 声が少し裏返ってしまった。

 鬼月さんは僕の言葉に、切っ先を下げて僕の目を見つめ返して来た。

 高校で初めて再会した時のような悲しげな表情ではなくく、キョトンとした顔だ。

 泣きそうになっている僕を心配したのか、鬼月さんは刀を床に突き刺して、歩み寄ってくる。


「本当に大丈夫ですか? 泣くほど痛かったですよね?」


 そうして、こめかみを抑える僕の左に触れてくる。

 小さくて、ほんのり温かくて、微かに震えている少女の片手だ。


「もう大丈夫だよ、鬼月楓彩さん」

「……え?」


 伝えたかったことが山ほどあったはずなのに、どこから話せばいいのか分からない。

 全てが愛おしい。

 料理が下手なのに変に自身がある所とか、安心して眠らせたいのに空回って面白い話をしちゃうところとか、戦闘になるとパンツが丸出しになってしまうところとか、負けず嫌いなのに勝ちに拘れないところとか……全部、全部、全部。

 なのに、この思いを言葉に出来ない。


「……あ……あ……」


 君への思いを継げるのにこの口では小さすぎる。

 君への思いを背負って来たのに、この教室では狭すぎる。


「はぁ、いつまでそうして見つめ合っている気だ?」


 そうこうしていると、痺れを切らした国王丸が口を挟んできた。


「生憎と、私には時間が無いのでな、先に失礼させてもらう」


 国王丸の言葉と同時に、僕の右手に握られていた刀が溶けるように姿を消してしまった。


「え、あれ? 国王丸?」

「え? 国王丸? どうして上ヶ丘さんが」


 僕の国王丸だけではない、鬼月さんの背後に刺さっていた国王丸までもが忽然と消えていた。

 そして、新たな気配が窓際に現れた。


『鬼月楓彩……鬼月家最後の末裔よ』

「え? この声……国王丸? どうして……」


 和服の男性が夕陽を背に立っていた。逆光になってしまい顔色はよくうかがえない。それどころか、彼の身体は全体的に透けていた。


『長きにわたるタマホウシ討伐の命への忠道、大義であった……』


 鬼月さんは何が何だか分からないと言った様子で、窓際に現れた氏直さんを見つめている。


「く、国王丸なの?」

『あぁ、君のことは傍で見させてもらった……だが、私はもう必要ないだろう。君は、君の時代を生きなさい』


「ま、待って国王丸! どういうこと!」

『鬼月楓彩、いや、鬼月家の家臣たちに告げる。長きにわたるタマホウシ討伐の命をここに解き、新たな命を下す。己が命を赴くままになさい―――』


「え、待って! 待ってよ! 国王丸!」


 鬼月さんは窓際へ窓際へ手を伸ばした。

 だが、彼女の右手は何にも触れることは無く、空気を掴んだ。


「ま、待って……」


 僕は国王丸、北条氏直が笑みを浮かべながら夕日の中へ消えていくのをしっかりとこの目で見届けた。彼が最後に託したのは「頼んだ」という思いだ。

 ならば、僕は友の頼みを果たさなければならない。


「楓彩さん」

「……?」


 振り返った楓彩さんの顔は今にも泣き出しそうだった。

 まるで図書館で初めて出会った時のような哀愁が今にも零れだしそうな表情。

 思い返せば、伝えるチャンスはたくさんあった。

 性欲が無かったからとかではない。僕は彼女に想いを寄せる勇気が無かった。だが、今は時空を越えて彼女へと募る様々な思いを背負っている。

 だから今こそ、彼女を救うことが出来る。頭の中に満ちている三文字で。


「好きだ」

「―――」


 鬼月さんは唇を結んだ。

 彼女の瞳の中で夕日が星の様に輝いた。


「もう君のことを忘れたりしない。突き放したりしない。君は僕にとっての半分だから……」


 結んだ唇の両端が、徐々に開いていく。

 目の中から夕陽が頬へと零れ落ちた。


「遅くなってごめん。――君を助け出しに来たよ」


 彼女の瞳から零れ出る夕陽が流星群を成す。

 止まらない。彼女はこの星々の止め方を知らない。


「瑛太……さん……っ!」


 必死に涙を堪えようと肩を震わせる彼女の身体を抱き寄せた。

 僕の腕が余りそうになるほど小さな背中を抱きしめ、鼓動や体温、不安定な息遣いを一身に浴びる。

 モノクロで乾いていた僕の心に清らかな雨が潤いを与えてくれているかのようだった。


「もう、我慢なんてしなくていい。君はもう、泣いても良いんだよ」


 楓彩さんの右手が僕の背中を強く掴んだ。


「ひっ……う……うぁぁぁぁぁぁぁん!」


 楓彩さんは泣いた。

 子供の様に、生まれた時の様に。

 静かな夕焼けの空き教室を、精一杯の感情で満たしていく。

 僕は彼女の涙で欲を満たすために、必死になって彼女の身体を抱きしめる。


 もう二度と離れないように。もう二度と彼女の不幸が零れてしまわないように。


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