コーヒーブレイク、キャラメルシンキング

間 敷

コーヒーブレイク、キャラメルシンキング


 あれは十月だった、と東正太あずましょうたは思う。

 その頃は、落ち葉を掃くひとの姿が路上に増えたのを憶えている。その日も外ではザッザッと箒の音がしていた。店内の時計はもうじき午後四時を指すところだった。そうだ、そうだったと彼は胸中で返事をする。コーヒーが五つ。自分と仲間たちの分だ。

 喫茶〈あおさぎ〉の大きな窓へ射し込む陽光は、アンティーク調の木製テーブルの滑らかな丸い角をたっぷりと縁取り、室内はキャラメル色に輝いていた。プリンのカラメルを上から生クリームで装飾するかのように、テーブルには繊細な白いレースのカバーがかかっていた。表面には透明なビニール素材のマットが敷いてあり、よく見ると拭ききれない手垢がこびりついている。縁あって何度もこの店に出入りする東は、店主がフライパン用のキッチンスポンジで手垢汚れを擦っているのをたまに見る。

 その店主の孫こと五十鈴が、東の所属するバンドをなんとか取りまとめている。東はこの頃から、ライブに毎回参加することができなくなっていた。五十鈴たちを頼もしく思うし、人並みに若さへの嫉妬もする。東のライフステージにおける課題は、誰にも共有できないものの心の置き場を探すことだった。けれど、一緒に音楽をしている時は誰に対しても気持ちがフラットになった。

 ライブの前日。そうだと東は返す。紙上の誰かを演ずるように。川の流れがチャートや泥岩、石灰岩などで基盤を作られて初めて“流れ”になるように、東は“この”空間を形作る地の文を頭上に、あるいは反転した文字を足元に見ていた。そこに、譜面も現れる。風景があって、人がいる。

「休憩しよまい」

 キャップを被った五十鈴が言った。地方で活動し、なおかつ年齢層の幅が広いPuzzlyzeを存続させるために、彼はわざと訛ってみせる。と、東はそう思っているが、尋ねて確かめたことはない。どちらにせよ五十鈴は訛る。それは、東にとって好ましいか否かではなく、まして良いか悪いか評価することでもない。五十鈴はエレキベースを弾く、ということが良いことでも悪いことでもないように、東は仲間のことをただそう思うに留めたかった。五十鈴に限らず、ここにいるコニーやスイ、ジュンのこともだ。東は、自分の生きる時間の流れが彼らから離れていくことを頻繁に感じていた。

 二、三曲、と区切りをつけたわけではないが、体感にしてそれくらいの長さの即興音楽が皆の気分のままに繰り広げられた。曲が怪しいグルーヴを帯び始めたのは、コニーが蛍光グリーンの塗装がされた派手なジングルベルを持参していて、それをリズミカルに振りながらお経のようなイントネーションで謎のもにゃもにゃを発しだしてからだ。ジュンの叩くドラムスが即座にフィルインで奇跡的なシンコペーションを発動し、もにゃもにゃに反応する。原曲ではコニーのトイピアノが担当するパートはスイが引き受けており、いつだか店に誰かが持ち込んだらしいバーンスタインで流麗にアレンジしている。終わりそうで終わらない喫茶店のおしゃべりに似た応酬が繰り返されて、最後は誰からともなくどっと笑い声が沸き上がった。

 店主のみすゞがいつの間にか厨房からカウンターに出ていて、ぱんぱんぱんぱん、とぶっきらぼうな拍手をした。飾り気のない性質は孫たちそっくりだった。

 コニーがまだ緑髪を振り乱し、プロンプター代わりに床置きしたブラウン管テレビへ片足を上げ、取り憑かれたようにジングルベルを鳴らしている。どうする、終わる? とスイがニヤニヤしながら五十鈴に尋ねた。

「じゃあ『happy ice cream』を一回やって終わろか」

 イントロは東のサクソフォンのソロだ。誰も東のほうを見たりしなかった。東自身、本番でもどうとでも演れる自信があった。

 その日は風が強かった。雲がよく形を変えた。一時、一筋の薄明光線が天を繋ぐ細い光を落としていたかと思うと、雲間が開いて明るいオレンジ色の光が地上を染めた。気付かぬ間に光の射し方が変わり、空は暗くなっていく。めくるめく落ち葉の舞いを思い浮かべる。そうすると、ジャズに捧げた東の魂は自然に高鳴る。テクニックはなくても、あんたのはジャズだよ、と言ったのは誰だったか。その言葉も東は、良いことでも悪いことでもなく、ただジャズという評価がなされたのだと思っている。二十年は昔の話だ。

 曲の終わりと同時にみすゞがスポットライトの光量を絞った。彼女の表情は、最近のものはこんなこともできる、と言わんばかりで、実際誰かにはそう言ったかもしれない。もうこの店もIoTなる悪魔と無縁ではいられないらしい。

 舞台装置はそのままに私物だけを片付ける。本番は明日だ。同じ時刻、この店で。五十人分のチケットはソールドアウト。大半は身内のそのまた知り合いという規模感だけれど、古びた飲食店でライブする小さなアマチュアバンドがそう簡単に集められる人数でないことも分かっている。

 外の風の音が聞こえるほど少しの間静かな時が過ぎた。秋ですね、とジュンが言った。

「夏に心残りは?」

「あれやりたかった、アイスクリームにエスプレッソかけるやつ」

「もうこの時間は涼しいどころか寒いもんねえ」

 コニーとスイがそんな話をしながらも半ズボンやノースリーブの格好でお喋りをしていた。確かに屋内は煮炊きしたものの熱と人の呼気がこもって暑い。

 今という時間が他者というそれになっていく。東の中に恐怖がないと言えば嘘だ。うん、と返す。その声がまた反響して返ってくる。返事をした主体がどこにいる誰なのか、こうしてたまに見失う。音楽に溺れる前後は特にそうだった。

 川の多い街、夕刻のたゆたう光のなかを指さす水先案内人は、青色や緑色の髪をした若者たち。不定形な面影が川に映り、水面で逆さまに佇むのは誰かと誰かが重なってできた存在しないひと。選び出された姿形は丸みを帯びて、かつ先鋭的で、川の底から浮かび上がる形でこちら側へ沈んでくる。正太さん、とそのひとは言った。いや、言ったと思った。言ってほしかった。次第に水の中は気泡で満ちて、そのひとと東とは満員電車のような圧力と揺らぎに戯れた。思えばまだ誰かが弾丸列車の実現を夢見ていたかもしれない。終戦の年に生まれた東にはそれこそ夢のような話だった。誰かと誰かが薄の生えた道端でぶつかった。泡が弾ける。自転車の車輪が勢い良く回り、その回転はスクリーンに映っている。35ミリフィルム専門映画館で、映写技師が投光器のふたを開けると、カーボンの入れ替えによって瞬間的に映像が途切れる。野原は霞んで、ふたりは互いに怪我がないか尋ねあう。何かが光っているのは、遠くでウスバカゲロウがちらついているからだ。

 誰かが肩を揺すった。顔を見て、みすゞさん、と言うと、五十鈴ははいと言った。起きられますか。一時は皆が自分の顔を覗き込んでいたらしい、と気がついて東はなんともないことを証明するように笑ってみせた。カウンターに座り直すと、急にここに居ない人間はすべて物質主義で、世間が東自身や仲間たちのことを嗤っているような気がしたけれど、ばかばかしいと一蹴した。その思いはもしかしたら突飛な発想ではなく、急に蘇った遠い記憶かもしれなかったけれど、川に運ばれる落ち葉のように、もう既に手が届かないところにある。

「車はここに置いといていいで、今日はタクミさんに迎えに来てもらったら。ジュンちゃん、お父さんこっち来とるんやろ?」

「そう、もう明日を楽しみにしちゃって」

 手元に車の鍵と、水の入ったペットボトルと、みすゞが出したコーヒーとが並んでいるのを見て、すっかり冷めたコーヒーを手に取った。その瞬間のことを、今、東はそこに居ながら思い出している。

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