今は、遥か

 そこは、彼の席だった。彼はよく、そこから窓の外を眺めていた。

 その机の上に立って、窓の外を見る。閑散とした周囲は、昔と何も変わらない。結局現れなかったのだなと考えて、まだ期待をしている自分に笑みがこぼれた。

 忘れられない子供たちがいる。ひとりは、昔の秋則によく似ていた。ひとりは、今の秋則によく似ていた。ひとりは――とても、彼に、似ていた。

 あの子は線の上に踏み止まった。父親の手で背中を押されることはなく、前を向いて自分の足でそこに立ち続けた。

 こんなものが、贖罪しょくざいになるだなんて思ってはいない。そんな甘えたことは思わない。

 ひとりは、何もしないままに進んでしまった。ひとりは、努力と孤独に嘘を吐かれた。けれど結局何もしないままに進んだ彼は、ある日突然挫折した。

 秋則が手を差し伸べたとて、彼は秋則の手を取らない。それができるのは、克郎だ。

 だから秋則はもうひとり。努力と孤独に嘘を吐かれながら、それでも希望をその手に掴んで花を咲かせた、彼にすべての希望を託そう。これはとても身勝手で、とても教育者なんて名乗れない、そんな行為だ。

 けれど、それでも。もう秋則にしてやれることは、これだけしかない。

「僕は、木瓜ぼけに、なりたかった」

 けれどもう、木瓜にはなれそうにもない。


 窓の外、地面の上であかあかと燃える。

 ふと見上げた空には、彼方に心臓が熾火のように燃えている。手を伸ばしても届かない遥か彼方の心臓は、今でも火星に焦がれているのだろうか。

 今この瞬間の心臓の光が地球に届くのは、五百年後。その頃にはきっともう、今地球上にいる誰も彼もが彼方に旅立っている。なぜならそれは平等で、いつだって理不尽なのだから。

 そう、次は僕なのだ。自ら選んで、落ちるのだ。いつか弟が、父が、彼が、そうして落ちていったように。

 母は未だに線の上。けれどあの人は、篠目秋則という存在すらも、もうその記憶の中に留めてはいないのだ。だからこうして秋則が落ちたとて、あの人は嘆きも悲しみもしない。


 喜劇だ。悲劇なんてものになりはしないし、美談になんてもっとならない。

 ああ――悲願の花が、咲いている。


 今は遥けき彼方の心臓を、振り仰いだ。今日もその火が、燃えている。

 手を伸ばしたとて届くはずもない、光の速度でも五百年かかる遥か彼方。そこはまるで彼方の岸のようではないか。


 南の空。地平線の上。蠍の心臓が燃えている。

 どうどうどどうと風が哭いた。急かすようにして、風が哭いている。秋則を追い立てるかのように、風が哭く。

 どどう、どどう、どどう、どどう。

 地には彼方の岸に咲く花が、燃えていた。空には彼方の心臓が、燃えていた。


 先生。篠目先生。

 僕、先生の授業は、好きなんですよ。


 耳の奥で、彼の声が聞こえた気がした。


                    今は遥けき彼方の心臓 了

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今は遥けき彼方の心臓 千崎 翔鶴 @tsuruumedo

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