4.春告花は咲かぬまま

 教え子が自分より先にこの世を去るというのは、何度経験しても慣れるようなものではない。慣れてしまえばきっと、それはもう麻痺してしまって、何も考えなくなっているだけなのだろう。

 まだ、おとなになっていない。まだ、未来がどうなるかも分からない。そんな彼らの可能性がすべて断ち切られた瞬間のことを知らされると、自分の中の何かが死んでいくような、そんな錯覚に陥っていく。

 それでも同じ後悔を抱えていると、そう信じていた。同じように彼方に行ってしまった彼のことを記憶に刻み付けているのだと、そう思っていた。けれどこんなものは、秋則の勝手な願望でしかなかったのだろう。

 あれから、何年だろうか。生きていたのならば、彼はとっくに成人している。けれど彼の時間は十二歳で止まったままで、もう二度とその針は進まない。

 もう良いんじゃないかと、克郎が言った。

 彼の墓を訪れる人は、他に誰がいるのだろうか。彼の父が、母が、今どうしているのかを、秋則は知らない。けれど命日に墓参りをしても誰にも出会わない、掃除をされた形跡もない、そんな寂しい墓標を見ていると、きっと両親も彼の墓から足を遠ざけているのだろうということは想像ができた。

 数年前はまだ、彼の祖父母に会うこともあった。けれど足が悪くてという話も聞いていて、彼らはいつまでもこの墓の世話をすることはできなかったのだろう。

 否応なしに、時間は流れる。彼ひとり、取り残されたまま。彼の時間だけは、止まったまま。もう二度と、動かないまま。

 秋則とて、年齢を重ねた。もう新人ではなく、中堅と呼ばれる世代になった。それでもずっと、彼のことは心の中にある。生徒と話をするときに、屈んで彼らと視線を合わせたそのときに、彼らの目の中に彼のような懐疑と煩悶がないかを探している。

 どうしてと、口にしたことばはひどく軽かった。克郎は変わっていく、それは何も悪いことではないのだ。けれど彼のことを忘れてしまったかのような、あの後悔すらもなかったことにしてしまったような、そんな態度は見たくなかった。

 もう忘れても良いんじゃないか、なんて。お前も忘れたら良いんじゃないか、なんて。自分がそれを言われたからといって、秋則もそうできるとでも思っているのか。

 線の上、みんな並んだ。誰も彼もが同じように、平等に。理不尽に。そうしていつか、みんなみんな、落ちていく。弟のように誰かに落とされてか、彼のように自ら望んでか、あるいは自然にか、それは誰にも分からないけれど。

 なあ、もう、良いんじゃないか。

 お前も、俺も。

 良いって、何だ。そのことばは、秋則の口から落ちていくことはなかった。何も言えないままに、ただただ俯いた。ようやっと絞り出したのは「そうだな」と、そんなこころにもないことば。

 もう良いって、何だ。彼のことを忘れることか。あの後悔を抱えたままに歩くことを止めてしまうことか。この時間の流れを、心の奥底に刻んだものを、捨ててしまうようなことか。

 お前がそうしたいのなら、好きにしたら良い。けれど、どうして僕にまで、お前がそんなことを言う。あのとき同じ校舎にいて、彼を知っていて、それなのに。

 どうして。

 彼がそんなことを言い出した理由は、察しがついた。結婚をするから、そうだろう。彼女が望むから身だしなみを整えて、彼女が望むから出世して。その中でお前は、子どもたちへの接し方まで変えていく。

 ぽつり、ひとり。秋則だけが立っている。みんな並んでいるはずの線の上、気付けば誰もいなかった。まるでたったひとり、取り残されてしまったかのように。

 部屋に戻ったところで、そこには何もない。ただ積み上がっていたはずの何冊もの本が崩れて、床に広がっていた。その中の一冊に目を留めて、秋則は本を拾い上げる。

「夏目先生」

 あなたはどうでしたかと、とうにこの世を去った人に問えるはずもない。ただこの本の中に、彼のことばが遺っているだけ。

 一九〇三年、華厳けごんたき。木に彫られた文字は、『巌頭之感』。

 当時、立身出世は美徳とされた。その死は社会に大きな影響を与え、彼の追従をするかのように自らを葬ろうとしたものが一八五名にものぼったという。

 あれは懐疑か、煩悶か、失恋か、それとも夏目漱石が記したように美のためか。彼の書き遺したホレーショの哲学とは、何であったのか。

 エリートと呼ばれた彼らの悲観主義が、厭世観が、どのようなものであったのかなど、秋則には想像も及ばない。けれどエリートと呼ばれた彼らの前に立ち、そして教鞭を取った夏目漱石の姿だけは、どうしてだかありありと思い浮かんだ。

「僕は、貴方のようには、なれないのです」

 机の上に転がっていたボールペンを手に取った。要らない封書を積み上げた棚の上、かがやかしい宝物のように飾っていたものがひとつある。

 篠目先生。俺です。

 目の前に真っ白な便箋びんせんがある。ボールペンのキャップを開けて、まずはひと文字。


 これはすべて、僕の不徳の致すところなのでしょう。

 これはすべて僕の罪。僕が背負うべきものでしょう。


 書き記して、ぐしゃりと握り潰した。こんなものを書いて何になる。こんなものでこの世から逃げ出して、何になる。自分まであの線の上から、己の足で落ちるつもりか。


 未だ、春を告げる花は咲かない。

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