3.捨つべからざる命を捨てたるもの
余の視るところにては、かの青年は美の一字のために、捨つべからざる命を捨てたるものと思う。
彼の死が、美のためであると秋則は思っていない。思えるはずもない。けれど、後半の捨てるべきでない命を捨てたということには、同意をする意外になかった。
きみたちは、どんなおとなになるのかな。
教室の中にいる生徒たちの前にホワイトボードがある。その前に立って彼らの顔を見ていると、存外色々なものが見えるものだ。彼らが本当に望んでそこに座っているのかどうか、そういうことすらも。
彼は決して、望んでそこに座っているわけではなかった。まだ十二歳、ただそこに座らされているということも、少なくはない。それでもテストは、入試は、やってくる。誰もに平等に、そして、誰もに理不尽に。なぜなら必ず、そこに結果はついてくる。何もなしには終わらない。
ある一点で、線が引かれる。誰も彼もがそこに並んで、そしてじゅんぐりに、足りないものから落とされていく。
入試というものに、似ているものがある。みんな並んで線の上、次に誰が落ちていくかは分からない。けれどそれは、必ず、いつか必ずやってくる。
一日の終わり、校舎の外へ出た。鞄ひとつだけを抱え、駅まで歩く。じんわりと纏わりつくような生ぬるい風が、秋則の頬を撫でていった。まるで濡れた手で触れられたかのような風の感触を振り払うように、ひとつ、かぶりを振る。
母親の手を思い出して、身震いした。みんな並んだ線の上、一番最初に弟が、ずるりと足を引っ張られるように落ちていく。
隣にいて、手を繋いでいたはずだった。けれど弟が、一番最初に真っ逆さまに落ちていった。ああこれは、誰もに平等で、誰もに理不尽で――そして、誰もが簡単に突き落とされるものなのだ。誰かの背中を押す人は、いとも簡単にそれをする。
みんなみんな落ちていく。彼もまた、自ら望んで落ちていった。
どうして、こんなに頑張らないといけないんですか。
彼の問いが、今でも耳の奥でリフレインしている。うわぁん、うわんと、耳の奥で何度も何度も、反響する。
君の勉強に対する姿勢は間違っている、だなんて、どの口が。父親に言われるがまま、父親の辿れなかった道を辿らされるその姿は、けれど秋則には間違いのように思えてしまった。本当は決して、そんなことばを口にしてはならなかったのに。
「秋則」
呼ばれて、足が止まる。
「克郎」
頭上には、夏の大三角。すべて同じ、白い星。織姫と彦星には、本当は光の速さでも十四年以上かかるほどの距離がある。年に一度の逢瀬なんて、到底できやしない。
「お前も俺と同じことを考えていたんじゃないかと思ってな」
「……そうだな」
克郎の問いに、短く答えた。
小社校はあの年で、閉校になった。それは前々から「そうなるだろう」と言われていたことで、ほとんど決まっていたようなものだった。けれど、きっと、最後の一押しは彼のことだったのだ。
九月だった。まだ、夏の星座が空の上にあった。
あかあかと燃えるのは蠍の心臓。北へ行けば見えなくなってしまう、地球からは光の速さでも五百年かかる遠い星。遠い遠い、彼方の心臓。
彼もまた、今はもう遠い彼方だ。
救ってやれただなんて、思わない。けれどもっと何かしてやれたのではないかと、そうしていれば今も彼は生きていたのではないかと、そんなことを思ってしまう。
最期の瞬間に、彼は何を思ったのだろう。紙の上にある彼の最後のことばはあれど、本当に最期に思っていたことなど誰も知らない。誰にも、分かるはずがない。
先生と、呼ばれた。けれど本当に、秋則はそう呼ばれる資格があるのだろうか。
自ら望んで、彼は落ちた。未だ見付からない、もう二度と見付かることがないだろう彼の左腕は、左利きだった彼の、本心のようでもある。
捨つべからざる命を捨てたるもの。
十二歳の中にあったのは、父の望んだ道を辿る自分への
線の上、みんな並んだ。秋則はまだ、その線の上に立っている。
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