2.巌頭之感
受験というものは、人生の
もっとも、すべてがそうとは言えない。たとえば小学校、中学校、そういうものはまだ残りの時間で方向性を変えることだってできるのだ。けれど高校、大学と進んでいけば、やり直すことは難しくなっていく。競争することやふるいにかけられることを、忌避する人もいるのだろう。けれど秋則から言わせてみれば、ひどく残酷ではあるが不必要なものではない、というものになる。
これは秋則の考えであり、そんなもので人生を決めるのは間違っていると言う人もいるかもしれない。けれどそう言われたのなら、秋則はきっとこう問うのだ――では、医学部を卒業していない医者がいたら、その医者にかかりたいですか、と。
これは、一般論だ。それでも腕のいい医者になるかもしれないなどと、例外を聞きたいわけではない。教師であっても保護者からどこの学校出身ですかと聞かれることがあるのだから、やはりふるいにかけられたことへの信用というものは、確かに世の中に存在している。
塾講師として九歳から十二歳の子どもたちを見つめ続け、今年で何年だろう。
入社して二年目、篠目秋則という塾講師の経歴の上、二度と忘れることができない名前が刻まれた。それはちょうど、空に夏の大三角と
今はもう閉鎖しているその校舎の名前は、
考えていると、記憶の底で蓋が大きく開く。別に固く閉じてしまい込んでいるわけではない、むしろ常にその蓋は小さくではあるが開いていて、いつだって秋則の中でその過去の記憶は
どどう、どどうと、風が哭いていた。夏の日であるのに、まるで冬の日のような風である。その日本当に風が吹いていたのかどうか、もうそれは思い出せない。けれど秋則の耳の奥で、どどうどどうと風が哭き喚いているのだ。
それはまるで――彼の、叫びのように。
「篠目君」
「あ、は、はい!」
目を閉じて記憶の泥の中に潜り込みそうになった秋則を、畑元の声が引きずり出した。わずかにひっくり返った声に畑元は気付いていたのだろうが、笑みを浮かべるだけで何かを追求するようなことはない。
「佐納さんから電話があったって?」
「はい、お母さんから」
皐ヶ丘校は、中学受験が盛んな地区に建っている。だから中学受験が珍しいことではなく、同じ小学校の生徒が通っていることも珍しくはない。
小社校は、そうではなかった。同じ小学校の生徒がいたとしても一人か二人。学校の友達にも受験を隠しているとか、そういうことも珍しくはなかった。
「もうちょっとしてからかけようかな、長くなりそうだし」
彼もまた、そうして隠しているうちのひとりだったのだ。熱心なのは父親であり、本人はそうではなく、父に言われるがまま。自分が辿ろうとして辿れなかった、そういう道を子供に歩ませようとして、父親が必死になっていた。足掻いていた。
それがすべて悪いことだとは、秋則も言わない。子供もまた親と同じ方向を向いて足掻けるのならば、悪いばかりではないのだ。
けれど。
「昨日は? 本人、どうだった?」
「泣いていました」
「そっか」
畑元は塾講師として積み重ねた年数が、秋則よりも遥かに長い。だからこそ、秋則以上に様々な子供と親を見てきている。
「……あまりに酷ければ、児相かな。電話番号、調べといて」
「はい」
あの時の秋則も、そういう選択肢を取れれば良かったのだろうか。克郎を見れば、ぼさぼさ頭がほんの少しだけ揺れ動いていた。もしかすると、同じことを思っていたのかもしれない。
あの日。
南の地平線すれすれに、心臓が輝いていた。子供たちが駆けてくる駅の前、秋則は彼らを待つ間、ずっとその心臓を眺めていた。
いつもなら一番最初に通り過ぎていくはずの彼はおらず、ただ駅の中が騒然としていたのだけは覚えている。列車が遅延しているとの報告を受けて、けれど授業の開始時刻を遅らせるようなことはなく、遅延しているから来ないのだろうと、そんなことを思って。
その遅延の原因を、聞いておけば良かったのか。いや、聞いてはいたのだ。人身事故だと、それだけは。
校舎の事務所に戻ったところで、電話が鳴り響いた。見たことのない電話番号だった。
どのように出たのか、きっといつも通りに電話に出たのだ。
そして。
それから。
どうどうどうどう、風が哭く。声を上げて、風が。
前日、勉強に身が入っていないと、彼に言った。彼は暗い顔をして、俯いていた。あの時に戻ることができるのならば、きっと秋則は別のことをする。そのまま家に帰すようなことはせず、もっと彼から詳しく話を聞いた。
自分の辿れなかった道を押し付けた父親の、彼へのことば。
父からの「できないのなら死んでしまえ」というそのことばが、どれほど鋭く彼に突き刺さったことだろう。
そして、彼は。
彼は――。
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