1.着信音の記憶
十四時、デスクに置かれた電話が着信を告げた。点滅する赤いランプをいつまでも眺めるようなことはなく、受話器を手にする。
ディスプレイに表示された電話番号は携帯電話のもの。けれどそれが誰のものであるのかなど、いちいち覚えていられるものではない。けれどその番号は、なんとなく見覚えがあるものだった。
「はい、
電話に出ることばなど、いつだって同じだ。
『あ、先生!
「佐納さん、お世話になっております。算数の
電話口の母親の声に、生徒の姿が思い浮かんだ。
昨日の帰り。スカートを掴んで、目に涙を溜めていた。「せんせい」とか細い声が聞こえてくるような気がして、
彼女の「がんばったのに」ということばに、何も言えなかった。「みんな同じように頑張っているんだよ」などと言うのは、あまりに無責任で、あまりにも軽い。けれどそれは事実であって、誰も彼もが同じように努力をしている。他の誰もが努力をしない中で自分だけが頑張れば、それは当然自分ひとりが上がってくことに繋がるだろう。
けれど、そうではない。そうではないから、何も言えない。
『あら、
「
ちらりと教室長のデスクに視線を滑らせた。さきほどまでは確かにいたが、「教室の掃除をする」と言って出ていったばかり。まだ戻ってくる気配はなく、事務所内の映像表示用ディスプレイを見れば、各教室を映した監視カメラの映像の中、彼がトイレットペーパーを手にホワイトボードを掃除している姿があった。
今すぐ戻ってくるようなことはないだろう。あれは、もう少し時間がかかる。
「すみません、少し席を外しておりまして。すぐに戻るとは思いますが」
『戻ってきたら電話して貰えるように、伝えてくださる?』
「かしこまりました」
ぷつりと、電話は途切れた。
小学六年生の、三つあるクラス。そのうちの真ん中、一番前の席。彼女の母親は、その位置では満足できないのだ。自分が受験に失敗したという女子の最難関校に何としても自分の娘は入れようと、母親が必死に足掻いている。
そう――母親が。それに引きずられるようにして、本人が。
だからあんな風に、怯えるように泣いたのだ。悔しいとかそういう感情からではなく、あれは恐怖で泣いていた。「がんばったのに」ということばに滲んでいたのは、声と肩を震えさせたのは、間違いなく悔しさではなかった。
あれが悔しさであったのならば、秋則とて「みんながんばっているからね」ということばを彼女に言えた。けれどそうではないから、何も言えなくなったのだ。などと、こんな風に思ってしまうのは、ただの言い訳なのだろうか。
「どうしました、篠目先生」
「
正面のデスクに座っていた理科担当の宗方
克郎の手に握られているのは採点用の赤いペン。デスクの右側に積み上げられた、何冊もの生徒のノート。そういえばテスト直し用のノートが提出されて、秋則はまだそれを一冊も見ていなかったことを思い出す。
今日は木曜日。明後日の土曜日までに返してやらなければ、来週になってしまう。
「佐納さんのところから電話があったんです。畑元室長と話がしたいと」
その名前だけで、用件が何かを克郎も察したのだろう。ほんの少し、溜息のような音が聞こえてきた。
「ああ……クラスが上がらなかったから」
「多分」
もう小学六年生の夏は終わった。夏期講習の最後のテスト、どうしてもここでクラスを上げないと、そんな焦燥に駆られたような声が耳の奥でよみがえる。
「本人は昨日、泣いてましたよ」
「そうですか……」
思い出したことがある。忘れようと思っても、忘れられないことがある。
「……心配ですね。お母さんが必死過ぎて」
きっと克郎も、同じことを思い出していた。
あの時、秋則と同じ校舎に克郎もいた。二人揃って、入社したばかりのとき、同じ校舎に配属された。今はもう閉鎖されたあの校舎、閉鎖された理由――そればかりが理由ではなかったけれども、あれが最後の一撃になったことは間違いない。
「そう、ですね」
救ってやれなかったのかと、今でも思う。けれど救ってやれたはずだなどと、そんな傲慢なことも思えない。
どどう、どどうと風が哭く。
あの日鳴り響いた電話を取ったのは、今日と同じように秋則だった。生徒の保護者からの電話であれば、ディスプレイに表示された番号には少しくらい見覚えがある。けれどその時にかかった電話の番号は、まったく見覚えがなかった。
もちろんそんなものは、珍しいことでも何でもない。新規の入塾希望者であれば、そうなるのが当たり前なのだから。
けれどあの日の電話は、そんなものではなかったのだ。
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