第5話

■あかり(5)

 目覚めると同時に、あかりは半身を起き上がらせた。起き抜けとは思えないほど、頭が冴えている。以前、頭にかかっていた靄はすっかり晴れたようだ。

 はっと左腕を見下ろしたが、そこには何も書かれていなかった。もう片方の腕も同じだ。本が下敷きになっていないかと体を浮かせたが、そこにも何もなかった。

 どういうことだろう、と首を傾げる。”主”はわたしに手を差し伸べるのを、やめたのだろうか。

 とりあえずベッドから出ようと両足を投げ出すと、何かが踵に触れた。考えるより先に、床の上に膝をついてベッド下を覗き込む。

 そこには、見たことのないものがあった。

 木でできた弓のようなものと、鞘に収まった剣らしきものだ。前者は正確に言うと弓ではなかった。

 あかりはその二つの品をベッド下から引っ張り出して、床の上に並べた。白い壁と、木製の家具と、レースのカーテンで構成された、それなりに女の子らしい部屋に似つかわしくないものが、そこにある。

 よく見ると、弓に似たものはいわゆる弓道のそれとはまったく違う見た目をしていて、大きさも、幅も、そしておそらくは発射の仕組みさえも異なるようだった。弓は手で引くものだと思うが、これは金具に留めて引き絞るらしい。発射の際も、金具を操作して矢を放つのだろう。

 ひょっとすると、クロスボウと呼ばれるものだろうか? だとしても、少なくとも競技などで使われる現代的なそれとは違うと思う。クロスボウには詳しくないが、あの手の道具は金属でできているはずだ。一方、こちらは木製で、しかもかなり使い込まれた様子だ。

 あかりはもう一つの、鞘付きの剣に視線を移した。触れてみると、鞘の部分は革でできているようだ。こちらも使い込まれているのか、黒ずんでいて、全体はずっしりと重い。とはいえ、片手で持ち上げられないほどではなかった。柄はというと、黒っぽい金属でできていて、その上に銀色に光る鍔がついている。あかりはおそるおそる、鞘から剣を引き抜いてみた。最初は抵抗があったが、力を入れると、すうっと長い刀身が現れた。ギラリと輝く、鋼色の刃だ。

 あかりは唖然として、抜き出したそれに見入った。刀身はかなり細身で、そのせいか剣全体も重すぎはしない。むしろ、あかりにでも扱えるくらい軽い、と言える。とはいえ、刃渡りはすらりと長く、短剣とは言い難い。中世の決闘を題材にした映画を観たことがあるが、それに出てきた剣とよく似ている気がする。レイピアという剣だ。

 これでどうしろというのだろう、と半ば呆然としながら考えた。――答えは、頭を働かせるまでもなく、歴然としていた。生き抜け、ただ逃げるだけではなく、抗え、ということに違いない。

 でも、なぜこんな中世の武器を? この間の本といい、”主”はこういうものが好きなのだろうか? だとしたら、とあかりは肩をすくめた。悪い趣味じゃない、という気がする。ひょっとしたら自分も、こういうものが好みなのかもしれない。

 とりあえず、試し撃ちでもしてみよう、と思い、あかりはクロスボウと思われるものに手を伸ばした。両手で抱え、木製の部分に顔を近づけると、弧を描くその表面に無数の薄い染みが付着しているのがわかった。血、だろうか。

 矢はすぐそばの筒状の入れ物に数十本収められていた。そこから一本引き抜き、クロスボウにセットする。昔のものだからかもしれないが、使い方を知らなくてもどうにかなるほど、単純な造りだった。なるほど、と矢と弦を器具に結わえ終えて、水平に構えながら思う。

 そのまま、窓に歩み寄り、窓ガラスを開けた。構えたクロスボウを、向かいの建物の屋根に向ける。

 留め具を動かすと、音を立てて矢が放たれ、やや下向きに屋根めがけて飛んでいった。

 使い方はわかった。思ったほど勢いはないし、狙いもやや正確性に欠けるようだ。あまり遠くから撃っても意味がないだろう。

 自分に本当にこれが使えるのだろうか。だが、あの赤い車と、菱野のにやにや笑いが頭に浮かぶと、そんな躊躇いは消し飛んだ。昨日は、あいつに立ち向かえたじゃないの。それに、塩ビパイプなんかよりこっちのほうがずっといい。

 もちろん、今でも菱野のことが恐ろしいし、暴力そのものにも嫌悪感を覚える。だが、それと同じくらい、痛めつけられることへの恐怖も強かった。そして―― ふつふつと湧き上がってくる、恐怖とは別の感情。許せない、というどす黒い感情が、あかりの内に生まれつつある。

 あの男はわたしをずたぼろにしたばかりか、嘲笑った。わたしという存在を、足蹴にした。尊厳も何もかも、跡形も残らなくなるまで踏みにじったのだ。暴力そのものより、そのことが許せない。

 赤文字で腕に記されていた、藤島、という人物も、あいつと同種の人間なのかもしれない。実際、菱野とは接点があったし、事故に何らかの形で関わっている可能性はある。”主”はそのことを知らせようとしてきたのだろう。

 菱野、そして、藤島。あかりはその二つの名を心に刻むと、身支度にかかった。

 これまでで一番簡素な服装に身を包むと、片手にレイピア、片手にクロスボウを提げ、部屋を出た。共有スペースには寄らず、真っすぐ玄関に向かう。こんなものを持っているところを誰かに見られたら説明が厄介だが、なぜかそんな面倒事は起こらないだろうという確信があった。表には既にスクールバスが到着している。その前を速足で通過し、校門を目指した。

 門をくぐると、目の前に聳える校舎と、横断幕が見えた。”祝・バレーボール部 大会出場! あと8日” ――すぐに目を背け、あかりは門の内側の灌木の陰に身を潜めた。

 数分後、轟音が響き、通りのほうで悲鳴が上がった。来た、と心の中で呟くと、あかりはクロスボウに矢をつがえた。そして、立ち上がって校門を睨んだ。

 門の外では異臭の混じった白煙が舞い上がっている。けたたましいほどの喧騒の中、右往左往する人々の影が行き交っている。それらの間を縫い、人影がぬうっとこちらへやって来た。菱野だ。

 あかりは口元を引き結んだ。菱野はうろたえた様子もなく、軽快に足を運んでいる。あんな酷い事故を起こしたというのに、怪我一つなく、平然としているらしい。額に癖毛を垂らした顔には、不遜な笑みが浮かんでいた。――その顔が、こちらを見て凍りついた。

 あかりは引き絞っていた弦をつがえた矢ごと放った。空を切る音とともに、矢の影が男の胸へと飛んでいく。次の瞬間、矢は菱野の胸の真ん中に突き立っていた。

 うおっ、という叫びが、菱野の口から漏れる。その顔が激しい苦痛に歪み、片手で空を搔きながら倒れ伏すのを、あかりは冷ややかに見下ろした。

 ストライプのシャツに、みるみる赤い染みが広がっていく。

 胸を上下させながら、あかりは後ずさった。身を翻す際に、クロスボウは矢筒ごと灌木の茂みに投げ入れた。これはもう必要ないだろう。

 構内を駆け裏口から逃げ出すと、次に目指す場所を頭に描いた。赤字で腕に書かれていた住所は記憶している。これから、そこへ行かなければいけない。

 うん、それでいい。――自分を納得させるように、小さく頷くと、あかりは歩き出した。



■朱莉(あかり)(5)

 朱莉はベッドの中でうっすらと目を開けた。ゆっくりと寝返りを打ちながら、無意識に腹に手をやる。――腹部に感じた衝撃は、今はもうやんでいるようだ。

 ほっとため息をつき、朱莉は再び目を閉じた。こんな時間にお腹を蹴るなんて、どうしたんだろう。この子が活発に動くのは大抵昼と決まっているのに。

 母親である自分の眠りが浅かった、とは考えにくい。ヘッドセットは大部分がラバーで覆われており、就寝の際に不快感を与えぬよう工夫されている。それでも、慣れるまでに数日を要したが、ここのところは接続が安定してきたせいもあってか、ほとんど気にならなくなっていた。

 もしかしたら、この子なりに母親の緊張を感じているのかもしれない。あかりはそう考えて、口元をほころばせた。お腹に手を乗せたまま、「大丈夫」と囁く。

 大丈夫。

 心配すべきことなど、一つもない。計画は綿密なものではないかもしれないが、それなりに用意周到にやってきたつもりだ。

 菱野と藤島。彼らは、朱莉の人生に立ちはだかる敵だ。彼らから何かを学んだとすれば、それは人間はどこまでもおぞましく、醜くなれる、ということだ。我が身を守るためならどんなことでもやってのける、そういう人間こそが最後には勝つのだ。

 だとしたら、わたしもそれに倣ってやる。どこまでも醜く戦い抜いてやる。

 夢の中の自分は、ベッドの下の贈り物を受け取ったらしい。しかも、その意味を正確に理解し、行動を開始している。

 早くも菱野を殺害したようだが、彼はDメディアの被験者ではないのでホストへの影響はないだろう。だが、藤島のほうはそうはいかない。

 准教授が述べた通り、Dメディアは未知数な技術だ。同時接続している被験者同士の接触がどの程度、ホストに影響を及ぼすのかは、まだわかっていない。

 無論、何の影響も及ぼさない可能性だってあるだろう。それはそれで致し方ないことだ。――だが、逆の可能性だって、ないとは言えない。

 そのあたりの采配は、運に任せるしかないだろう。数年越しの復讐が、運という不確定な要素にかかっているとは、複雑な気分だ。けれど、一方で、それも悪くないかもしれない、と思える。自分の凝り固まった復讐心が、運命の掌の上で転がされるかと思うと、楽しみですらある。

 結果がどうなろうとそれに身を委ねよう。そう、朱莉は決めていた。

 けれど、少なくとも自分の手で確定的にできることは、確定しておくつもりだ。ことが済んだら、Dメディアの記録データは消去する。そうすることで、ここ数日分の夢の記録が失われることになる。予め、准教授に記録媒体の調子が悪いと伝えておいたので、疑われることはないだろう。証拠を握り潰したあいつらの行為を真似ることになるのは、皮肉だけれど。

 隣のベッドで、勇吾がこちらに背を向けたまま、身じろぎしたのがわかった。寝息と、言葉にならない寝言が耳に届く。

 彼のほうを向いて横たわりながら、朱莉は小さく、「愛してる」と呟いた。そして、意識がさらに深い場所に誘われていくに任せた。

 きっとやってのけてやる。あいつらのしたことに屈せず、完璧な幸せを手に入れる。綺麗事だけではこの世は渡っていけない。おぞましいことでもやらなければ。

 愛してる。夫も、子供も。――わたしは本当に幸せだ。

 この幸せを守るためにも。心の翳りを消すためにも、やらなければならない。



■あかり(6)

 軽いふらつきを覚えて立ち止まったものの、数秒後には再び歩き出していた。何だったのだろう。ふっと視界が暗くなった気がしたけれど。

 もしかすると、短い時間、自分は気を失っていたのかもしれない。だとしても、今はなんともないし、気にしている余裕はなかった。

 右手には、鞘に入ったレイピアが握られている。金属の握りから伝わるひんやりとした感触が、あかりを安心させる。

 バッグは不要だと思い、部屋に置いてきたので、あかりの持ち物はこのレイピアがすべてだった。これさえあれば何とかなる。そんな、得体の知れない確信がある。

 向かっているのは、腕に書かれていたあの住所。藤島、という男がそこにいるはずだ。

 自分はその男のもとへ行き、菱野と同じ目に遭わせようとしている。惜しげもなく血を撒き散らし、倒れる様を見たいと願っている。

 なぜ、見も知らない相手の死を願う、などということが自分にできるのか、はっきりとはわからなかった。わからないながらに、激しく憎しみを燃え上がらせていた。

 ぶら下げて歩くと地面を擦るくらい長い剣を、半ば胸に抱くようにしながら歩いた。通りには人通りがほとんどなく、たまに通行人とすれ違ってもこちらを注視することはない。わたしにとって現実そのもののこの街は、現実じゃないんだろうな、とあかりはふと考える。

 繰り返される時間。理不尽にこちらを追いかけて来る襲撃者。突然、現れては消える、本や文字。考えるまでもなく、明らかだ。

 目指す住所は、藤島の自宅だろうか。徒歩で行くには距離があるので、電車かバスに乗らなければならない。

 バスにしよう。特に理由もなくそう決めた途端、滑るように現れたバスが少し先の停留所に止まった。行き先を見なくても、そのバスが自分の行きたい場所に連れていってくれることはわかっていた。あかりは悠々と、バスのステップを上った。

 乗客は数人いたが、通行人と同じく誰もあかりの持ち物に視線を向けなかった。あかりもまた、周囲を気にするのをやめ、堂々と座席に腰掛けた。その時初めて、白地のスカートに血の飛沫が跳んでいることに気づいた。さほど離れていない場所からクロスボウを撃ったため、返り血を浴びてしまったらしい。

 汚い、と思ったが、怖い、とは思わなかった。感情がないわけではないが、それよりやるべきことをやらなければ、という思いのほうが強いのだろう。おぞましくも、正しいことを自分はしている。その確信が、あかりの弱さに鉄の覆いをかけている。

 ふと、ピンク色のものが目にとまり、あかりは窓の向こうに視線を向けた。沿道に花壇が並び、そこにみっしりと植えられた花が咲き誇っている。花はどれも薄いピンクで、花弁の形はマーガレットに似ていた。あかりが知らないだけで、こういう色のマーガレットがあるのかもしれない。

「凄い、満開……」と、思わず呟いた。

 ピンクの花の花壇は、バスの両脇に延々と続いている。その光景に目を奪われながら、あかりはふっと、暗いものが胸に差すのを感じた。

 こういう花を育てる人は、きっと家庭を持ち、満ち足りているのだろう。心に充分な余裕があるから、こんな花を咲かせることができるのだ。

 余裕、か。そんなふうに呼べるものは、わたしの心には存在しない。こんな出来事に巻き込まれる前から、そうだった気がする。ただ学校に通い、勉強し、虚しい遊びに付き合い、帰宅し―― その延長で、就職先を探している。

 わたしには、何もないのだ。目標も、強い意志も。激しい感情さえ。今、激しい憎しみを燃え立たせているが、その土台となるものは、わたしの中には存在しないのだ。赤い車による事故。その痛みだけが、感情を燃え上がらせる燃料となっている。

 わたしには、辛い過去も、本当の憎しみもない。幼さの抜けない空っぽの心に、虚しく復讐心だけが燃えている。

 わたしは、愛を知らないんだろうな。

 ふと、そう考えて、前方を見ると、バスのフロントガラスの向こうに停留所が見えた。そこで降りるべきだ、という声がどこかから聞こえる。

 あかりは席を立って、バスを降りた。料金は払わなくても何も言われなかった。通りに降り立つと、バスが粉塵を巻き上げて走り去り、沿道の花がその風に吹かれて揺れた。

 ここが――

 正面に建つ戸建ての家を、あかりは見つめた。ありきたりでありながら、どこか瀟洒な佇まいの家だ。二階建てで、敷地も割合広い。助教授って儲かるんだろうか、とどうでもいいことをよぎらせる。

 家の窓には明かりが灯っていた。昼なのに、と辺りを見回すと、なぜか景色が夜のものに変わっている。

 唖然としたが、これがこの世界の仕組みなのかもしれない、と思い直した。わたしのいた場所と、藤島という男のいる場所は、時間帯がまるで違うのだ。無茶苦茶だが、そういうものなのだろう。

 レイピアを胸に抱くのに疲れ、あかりは剣を持つ手を下げた。鞘の先端が地面につき、革とアスファルトが擦れる音が響く。あかりはゆっくりと扉を押し開け、その家の門をくぐった。目の前に緩やかなコンクリートの階段があり、その先が玄関だ。

 チャイムなど鳴らす必要はないだろう。そっとドアを引くと、音も立てずに開いた。そのまま、ドアの隙間に身を滑り込ませる。

 玄関の内部は明るかった。そこから伸びる廊下も煌々と照明が灯っている。足もとを見下ろすと、女物のハイヒールがあった。

 あかりは靴を履いたまま、廊下へと上がった。靴底の柔らかいパンプスなので、足音が響く恐れはない。それでも、忍び足で廊下を渡り、人のいそうな部屋の扉を目指した。

 途中で足を止め、鞘からレイピアを引き抜く。

 鞘はその場に捨てた。右手に剣を構え、左手を伸ばして、ドアの一つを開ける。――誰もいない。

 その時、二階から微かな物音が聞こえてきた。ああそうか、二階が寝室なんだ、とあかりは思う。

 念の為、一階を残らず調べてみたが、住人の姿はどこにもなかった。居間には家族写真があり、子供部屋らしき部屋があったにも関わらず。――家族全員、二階にいる? そうじゃなさそうだ、という気がする。

 あかりは足音を忍ばせて二階に登った。二階の廊下は照明が消えていて、ドアの一つから光がこぼれていた。それと一緒に、男女の低い笑い声も漏れ出している。

 少しうんざりしながらも、あかりはそのドアに歩み寄り、勢いよく開いた。

 中にはキングサイズのベッドがあり、半裸の男女がもつれあっていた。床には脱ぎ散らかしたシャツやネクタイ、ブラウスなどが落ちている。

 あかりは汚らわしいと言いたげにそれらを避けながら、ベッド脇に進んだ。そして、レイピアを振り上げ、何も気づいていない様子の男の背中に振り下ろした。

 ざくり、という感触とともに、頬に生温いものが飛ぶ。

 迸るような悲鳴が、女の口から上がった。

 驚くほど素早い身のこなしで飛び退いた女が、ベッドサイドのライトにぶつかる。けたたましい音を立てて、シェード付きランプが床へ転がり落ちた。

 男が、遅れ馳せながら悲鳴を放つ。

 肩越しに手を伸ばして、届くはずもないのに傷を確かめようとしながら、ベッドの上を転がった。あかりは蛆虫でも見るような目で、のたうつ藤島を見下ろした。――この男は、妻子と暮らす家で、妻とは似ても似つかない女とベッドに入っていたのだ。

 妻子の姿が見えない理由はわからないが、おそらくそれにも理由があるのだろう。もっともで、この男にとって都合のいい理由が。そんなことはどうでもいいし、知りたくもなかった。

 あかりは敏捷に、再び腕を振るった。剣がしなるような音を立て、暗闇に吸い込まれる。床に落ちたシェード付きライトが、男の腿に走った傷とそこから迸る血を浮かび上がらせた。

 女がまた悲鳴を上げる。悲鳴を上げながら、ベッドの上を這うように転がり、鈍い音を立てて床に落ちた。

 男のほうは逃げることもできず、ただシーツの上で見悶えている。シーツには、ところどころ赤黒い染みができていた。

「き、貴様は誰だ」男の口が動き、言葉を発していることにあかりは気づいた。「なぜ、こんな―― こんなことになるなんて聞いてない」

 さらに、聞き苦しい呻きが漏れる。

「やめてくれ。これは、ただの実験なんだ」

 実験? 何のことだろう。

 だが、それもまたどうでもいい。この男の吐く言葉になど、何の価値もないのだから。意味があるのは、苦痛、そして悲鳴だけだ。

 その時、渾身の力を振り絞ったらしい男が、丸めたシーツをこちらに投げつけてきた。一瞬、視界を遮られた隙に、藤島はあかりの脇をすり抜け、もつれる足で部屋から飛び出していった。

 しまった、と束の間慌てたが、すぐに冷静さを取り戻した。あの怪我では、走って逃げたりできないだろう。ゆっくりと追えばいい。

 その時、床の上で起き上がるものの気配を感じ、振り向いた。あの女だ。返り血を浴び、情けないほど震えながらこちらを見据えている。

 この女は藤島の恋人なのか―― 興味を覚え、あかりは尋ねた。

「あの男はあんたを愛してる?」

 そんなわけないか、と答えを聞く前に目を逸らす。置き去りにするような相手を、大事に思っているはずがない。

 それに、もしかしたらこの女も、夜空やバスと同様、この世界の仕組みから生じたものなのかもしれない。

 ドアのほうを向くと、薄暗いライトの光に照らされ、廊下へと続く血の筋が見えた。まだ戦える。復讐を完遂できる。そう自分に囁きながら、レイピアを引きずり寝室を後にした。

 ずっしりと重さを増したように思えるレイピアの切っ先が、床に赤いS字を描いていた。

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綺麗事ではすまされない 戸成よう子 @tonari0303

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