第4話
■あかり(4)
目覚めるなり、朧げな記憶が頭をもたげた。咄嗟に手探りで本を探したが、前回あったそれはどこにもなかった。
代わりに、左腕に妙な疼痛があった。あかりは横たわったまま、左腕をもたげて内側を見やった。するとそこに、赤いインクで書かれたとおぼしい文字の羅列が見つかった。
むくり、と起き上がって改めて見直す。いつも通り、というか毎度同じく、窓辺には眩しい朝日が射している。夏前なのに真夏を思わせる、焼けつくようなギラギラした日差しだ。
その明るい室内で、腕の皮膚に並ぶ文字を読んだ。筆跡からしてボールペンで書かれているようだ。くっきりした細い文字が、等間隔で縦に並んでいる。こんなの、誰が書いたんだろう、と首を傾げたが、自分ではないということ以外はわからなかった。
文字が示しているのは、住所のようだ。ここからそれほど遠くない、電車で数駅の町の住所が、番地まできちんと書かれている。その隣には、名前もあった。
藤島富貴男。
あかりは眉を寄せ、その名を頭の中で繰り返した。藤島、藤島。同じ人物かどうかわからないが、なんとなく覚えがある。一体どこで耳に、あるいは目にしたのだろう。
そして、藤島というのが何者にせよ、どうしてその人の住所と名前がわたしの腕に書かれているんだろう。
本を見つけた時にも思ったことだが、もしかすると本当に、この世界にはここを統べる”主”がいるのかもしれない。
だとしたら、とあかりは思う。一体なぜ、”主”はわたしが毎回酷い目に遭うのをそのままにしておくんだろう。なぜ、なんとかしてくれないのか。それとも、本やこの文字が、わたしに寄越された助けなのだろうか。
釈然としないが、それが事実なのだとしたら受け入れるしかない。――渋々、あかりはそう考えることにした。
それに、前回、あの本に救われたというのは事実だ。教室であの男に襲われたものの、なんとか逃げ出し、大学を飛び出した。その後は、路地裏に蹲り、ずっと震えていた。そのうちに意識が遠くなり、途切れたのだ。
どういうルールなのかわからないが、この世界には時間制限があるのかもしれない。あの男に痛めつけられ、続行不能な状態に陥るか、もしくは無事なまま一定時間が過ぎれば、終わりを迎える。そして、また同じ日の朝に戻される。
この恐ろしいまでに不毛な世界にも、やはりルールと呼べるものがあるのだ。肩をすくめて、あかりは考えた。
不毛だけど、とにかく付き合うしかないだろう。そして、なんとか逃げ延びるしかない。誰だって、あんな目に遭わされるのは嫌だもの。
窓際に立つと、朝日を浴びる大学校舎とそこにはためく横断幕が見えた。”祝・バレーボール部 大会出場! あと8日”――日付の部分は毎日貼り換えてるんだな、とどうでもいいことをよぎらせる―― スクールバスは、まだ停留所に到着していない。
急ごう。手早く洗顔その他を済ませ、髪をまとめた。無意識に気分を変えようとしたのか、Tシャツとスカートではなくワンピースを選ぶ。腕の文字がそのままなので、カーディガンを着たほうがいいだろう。身支度を終え、バッグを掴むと、部屋を出た。
共有スペースでは寮友たちがまだテレビを観ていたが、あかりは戸口から二人に、「おはよう。先に行くね」と声をかけるだけにして、玄関に向かった。二人とも特におかしいとは思わなかったようだ。
寮を出ると、ちょうどスクールバスが角を曲がって来たところだった。クリーム色の車体が、のんびりと停留所へ近づいてくる。あかりはそちらをちらっと見やり、足早に大学に向かった。
これまでの経験から、事故に遭わないよう”対処”することは可能なのだ、とわかっていた。そのお陰で、正気を失いかけるほどの恐怖は幾分和らいだ。事故はまだ恐ろしいが、対処できる、とわかったことはあかりに自信を与えた。なんとか乗り越えられる、そんな気がした。
あの男の襲撃も、同じように乗り越えられるだろうか? 今はまだ、考えるだけで身が竦むほど恐ろしいが、これも”対処”できるのだろうか。
いや、できる、のではなく、やらなければ。でないと、またバットで滅多打ちにされてしまう。右足がミンチになるほどの、容赦のない殴打を浴びることになる。
構内に入ると、すぐに校舎に入らず、辺りを散策した。建物と建物の間に廃材とおぼしきものが積まれており、中から直径五センチ、長さ六十センチほどのパイプが見つかった。塩ビパイプという奴かもしれない。
こんなもので身を守れるか、甚だ疑問だったが、ないよりはマシだろう。あかりはパイプを手に、あまり人目につかないよう気を配りながら校舎へ入った。階段を上り、いつも行く講義室のある階の上階へ。
踊り場にパイプを握り締めて身を潜めながら、あかりはふと、藤島というのはあの男の名だろうか、とよぎらせた。だが、すぐに、おそらく違う、と心の中で首を振る。藤島、という名に微かに聞き覚えがあるのは、その人物が大学関係者だからだろう。しかし、あの男にはそういう雰囲気が備わっていないし、以前、大学で会ったという感じもしない。
だとすると、藤島というのは誰で、わたしとどう関わりがあるのだろう――
そこまで考えた時、例の足音が階下から聞こえてくるのに気づいた。びくっ、と肩が大きく跳ね上がる。心臓も忙しく脈打ち始めた。手すりの隙間に顔を寄せると、前回と同じく、ストライプのシャツに包まれた肩と腕が見えた。
一気に恐怖が込み上がり、冷静さが失われそうになった。落ち着け、落ち着け、と懸命に自分に言い聞かせる。ここであの男を打ち負かさなければ、永遠にこの呪縛から逃れられない。
男の足取りは軽快で、リズミカルだ。よほど機嫌がいいのだろう、とあかりは想像する。あの男の機嫌などどうでもいいが、これからこちらを打ちのめそうと考えて浮かれているのだ、と思うとぞっとした。
怖がってちゃ駄目。怒りを掻き立てるんだ。自分を鼓舞し、パイプを握り直す。掌が汗ばんで、何度もスカートに擦りつけねばならなかった。
男がこちらを見上げた。軽快だった足音が止み、すぐに再開する。今度は速度を増して。
思わず口から飛び出そうになった悲鳴を、あかりは飲み込んだ。叫んでる場合じゃない! そして、震える膝を伸ばし、立ち上がった。
階段を駆け上がってきた男が、こちらを見て足を止める。あかりは両手でパイプを握り、踊り場から男を見返した。男がぎゅーっと口の端を吊り上げる。
「やめて」あかりは呻いた。「近づかないで!」怒りを込めたつもりだったのに、放たれた声は情けなく震えていた。
男がバットを手に、大股で階段を上ってくる。上りながら、バットを持つ手を大きく振りかざした。
あかりは堪え切れず、迸るように悲鳴を上げた。そうしながら、何回も頭の中でシミュレーションした通りに、塩ビパイプを突き出して男の胸を強く突いた。さほど強い力ではなかったはずだが、それでも男は、うっ、と呻いた。
男の顔に、まざまざと怒りが漲っていく。迎え撃ったこちらに逆上しているのだ。階段を踏み外してくれたら、というあかりの期待を裏切るように、素早く体勢を立て直すとバットを横に振った。
鈍い痛みが腕に走る。あかりは思わず悲鳴を上げ、後ろに下がった。殴打された上腕を庇いつつ、男を見返す。
「あっちへ行って!」無我夢中で喚きながら、手にした塩ビパイプを男めがけて投げつけた。顔を狙ったつもりだったが、狙いは外れて胸のあたりに当たった。
腹立たしげな唸り声をあげ、男は腕を振り回したが、パイプは弾かれることなく男の足元に落ちた。そして、ちょうど階段を駆け上がろうとしていた男の足に絡まり、体勢を崩させた。
それ以上見届けることなく、あかりは走り出していた。さらに上の階へと一段飛ばしで駆け上がり、無人の廊下を走る。そのまま、走って、走って、走り続けた。
気がつくと、廊下の突き当たりの非常階段の手すりに掴まり、身を支えていた。息はとっくに上がっていたが、もたもたするな、逃げろ、という自分自身の声に従い、体をもたげて階段を下っていった。どうにか一階に辿り着くと、校舎裏に通じるガラス扉を開け、外へまろび出た。
更に移動して、別の建物の陰に身を潜めながら、あかりは考えた。なんとか逃げ切ったのだろうか? 安心するのはまだ早いだろうが、少なくとも当座の危機は脱した気がする。
バットで殴られた箇所に手をやると、まだ痺れが残っているものの強い痛みはなかった。軽い打ち身といったところだろう。
これから、どうすべきだろう。この前と同じく、大学の外へ逃げ出す? それもいいかもしれないけど、気になることが一つある。それを調べられないだろうか。
こちらを追っているであろうあの男に見つからぬよう、周囲に気を配りながら目的の場所に向かう。ありがたいことに、無事、そこに辿り着くことができた。ほっとしながら、あかりはその場所―― 大学事務局の窓口に近づいた。
「あの、ちょっといいですか」声をかけると、事務員が顔を覗かせた。「聞きたいことがあるんですけど。大学職員に、藤島富貴男って人、いるでしょうか?」
それだけでは怪しまれるかと思い、用があるのだが所属学科を度忘れしてしまって、とぼそぼそ付け加える。
ちょっと待ってね、という言葉とともに事務員の頭が引っ込んだ。今にもあの男が角を曲がってこちらへ突進してくるのではないか、と怯えながら待っていると、再び事務員が窓口に現れた。
「どうでした?」
「藤島助教授ですね。神経科学の」
神経科学――
ありがとうございます、と礼を述べて事務局を後にする。
そうだ、思い出した。一昨年だったか、参加したセミナーで、あかりは藤島と顔を合わせたことがあった。顔などほとんど記憶にないくらい、短い邂逅だったはずだが、ぼんやりと、中肉中背の平凡な顔立ちの男の姿が記憶に刻まれていた。
あれが、藤島――
一体、あの男が自分とどう関わりがあるのだろう。どうして、腕にあの男の名が記されていたのか。
しかも、赤い文字で。肌に痛みが残るほど、くっきりと。
次に、あかりは大学の図書室に向かうことにした。そこなら端末が使えるし、あの男の目からも逃れられるだろう。
死神の如く執拗に追いすがって来るとはいえ、あの男は所詮、部外者だ。学生の自分ほど、自由に構内を動き回れはしないだろう。
用心深く再び移動し、図書室に辿り着いた。PC端末が並ぶスペースがあり、ありがたいことに空席がある。足早にその席に向かい、腰を下ろすと、PCを立ち上げた。割り振られた学生IDを使い、ログインする。
藤島富貴男―― 何でもいいから、その名の人物について情報を得られないか。そう祈りつつ、名前を打ち込み検索をかけてみる。
検索結果は、ゼロだった。
あかりは落胆したが、それでも諦め切れず、別の検索ワードで何か引っかからないかと試した。学科名では?
大学名と神経科学で検索すると、当然ながら幾つかヒットがあった。その多くは大学が発行しているサイト記事で、学内のニュースの詳報を記載したものだった。
全部見ていくときりがないので、二、三年前のものがないかと見ていったところ、幾つかあった。その中に、写真付きの記事が一つ見つかった。
記事は、大学と医薬品メーカーが共同で臨床研究に携わる、というもので、写真には何人かの人物が肩を並べて写っていた。
そのうちの一人が、今もあかりを追っているあの男だった。
どうして、あいつがここに写ってるんだろう。ショックに見舞われた頭で、あかりは懸命に考えようとした。記事に目を凝らすと、次のようなことが読み取れた―― 写真の人物の名は、菱野英彰。大手医薬品会社の社員で、今回の提携の責任者だという。
あかりの頭の中を、がらんどうの木のうろに響く音のように、幾つもの単語が駆け巡った。共同の臨床研究―― 菱野―― 提携――
わからない。大学にとって大事なことらしい、とはかろうじてわかるが、だったらどうだというのだろう。
菱野と、藤島。二人は知り合いなのだろうか。
画面を見つめているうちにくらくらしてきて、あかりは両手で顔を覆った。そして、キーボードの上に突っ伏すように、深々と頭を垂れた。
■朱莉(あかり)(4)
「ほら、見て。綺麗でしょう」ベランダから部屋に戻ると、朱莉は食事中の勇吾に近づいた。手には鋏とピンクの花の束が握られている。
勇吾は振り向き、目を丸くした。
「本当だ。店で売ってる花みたいだね。それ、朱莉が育てたの?」
「そうだよ。丹精込めて育てたんだから」
へえ、と感心した様子の勇吾を、微笑みながら見つめる。勇吾なら、それで、その花はどうやって食べるんだ、と聞きかねない。朱莉は先回りして言った。
「寝室に飾るの。きっといい夢が見られるよ」
「君がそんな乙女っぽいことを言うなんて、意外だね」
失礼ね、と笑って、朱莉は鋏を仕舞い、花瓶を探しに行った。背後から、勇吾の声が追いかけて来る。「今日の夕食は何を作るんだい? 何か買って来なくていい?」
今日はつくねハンバーグを作るの、と朱莉は答えた。
「買い物はいい。わたしも出掛けるから」
「どこへ行くの?」
戸棚の奥にあった花瓶を手にダイニングに戻りながら、朱莉は答えた。「美術館。面白そうな展示をやってるみたいなの」
「いいね」見ると、勇吾はにこにこしている。「胎教によさそうだ」
ベランダ園芸に、アート鑑賞。確かに、これ以上ないくらい穏やかな気分になれそうだ。朱莉は心の中で苦笑した。
「それに、日差しをたっぷり浴びながら散歩もしてくるつもりだしね。日頃の運動不足を解消しないと」
食事を終えた勇吾が朱莉の腰に腕を回し、大きく膨らんだお腹にそっと頬を寄せた。「なるべく早く戻るから。色々聞かせてくれよ」
彼が吐き出す湿った息を腹部に受け、朱莉はじわっと胸が温まるのを感じた。
勇吾が家を出ると、朱莉は花を挿した花瓶を手に寝室に入った。そして、花瓶を慎重に棚の上に置くと、デスクに向かった。ノートPCは既に起動して、スリープ状態になっている。
今朝一番にメールを確認し、探偵事務所からの追加の報告を受け取ったのだ。内容は、例の事故の後、藤島が医薬品メーカーから多額の金を受け取ったようだ、というものだった。
やはり、そうだったのか。――朱莉の率直な感想は、それだった。事故後、目撃者の証言から、藤島が防犯カメラのデータを盗み出した可能性が高い、ということはわかっていた。しかし、その証拠は得られず、どうすることもできなかったのだ。
藤島富貴男。彼はおそらく、菱野の命令で不利な証拠となりうるデータを握り潰したのだろう。そしてその見返りに、多額の金を得た。藤島としては、大事なプロジェクトの責任者に恩を売れるばかりか、金まで貰えるとあって、いいことづくめだったに違いない。
朱莉は、ふぅ、と自分を落ち着かせるための深呼吸をした。
――それはさておき、再度PCに向かったのは別の目的のためだ。メールを確認した際、塩畑准教授にメールを一通送っておいたのだ。内容は、できれば今日の午前中にオンラインで通話できないか、というものだった。
チェックすると、塩畑からその件について返信があった。九時から十時の間ならオーケーだそうだ。
朱莉は、では九時ジャストに繋ぎますと返信した。
准教授は時間通り、画面に現れた。朱莉はノートPCのディスプレイに映る彼にお辞儀した。「お忙しいところ、すみません」
「いえ、とんでもない」塩畑は顔の前で手を振った。「こちらこそ、ほったらかしにしてないかと心配してたんです」
「そんな、お気遣いありがとうございます」
「それで、どういったご用件です?」
実は、と切り出す。「お預かりしているDメディアの記録媒体なんですが、どうも調子が悪いらしくて」
「ほう。何か異常が?」
「異常というほどじゃないんですが、昨夜、起動後、しばらくして勝手に止まってしまって…… すぐに気づいて、再度記録をスタートさせたので、問題はなかったんですが、一応お知らせしておこうと思って」
「なるほど」塩畑はしかめ面になった。「わたしも、Dメディアの開発には携わってますが、記録媒体のほうはねぇ。今のところ、記録はしっかり取れているようですか?」
「はい、大丈夫です」
なるほどね、と塩畑はもう一度唸った。「でしたら、しばらく様子を見ましょうか。また同じ症状が出たら、交換しますから」
「わかりました」
朱莉が答えると、塩畑はほっとした様子で笑みを浮かべた。「ご面倒をおかけします。ところで、実験のほうはいかがです。よく眠れていますか?」
「ええ」と、朱莉は笑みを返した。「今、アバターの行動に干渉できないかと、色々試行錯誤しているところです」
「そうですか。それは、今度の報告が楽しみです」
そう言って、さらに口元をほころばせる四角い画面の中の塩畑の顔を、朱莉は薄く笑みをたたえたまま見つめた。
「実験についてですが、実はこれから、幾つか展開を考えてましてね」声を弾ませつつ、塩畑は続ける。「被験者二人に同時に眠ってもらい、お互いの意識が交感するか調べる、ということも試したいと思ってるんですよ」
「この前おっしゃってた、同時接続のことですか?」
「そうです。真岩さんの話にもありましたが、もう既に準備はできているんですよ。上手くいけば、被験者同士のアバターが遭遇したり、それによって現実に影響を及ぼせるんじゃないかと考えています」
「現実に? どういう影響があるんでしょう?」
「ああ、もちろん、そこのところは事前によく調べないといけません」塩畑は慌てた声で言った。「この技術は色々とわからないことだらけで…… しかし、テストに危険がないかどうかは、念入りにチェックするつもりです」
「もちろん、わかっています」朱莉は言った。「一つ、伺ってもいいですか?」
「何でしょう?」
「先生はどうして、この研究を思い立ったんです? つまりその、どういうことを目指してるんでしょう?」
「どういうことを、ですか」
「はい。だって、VRは既に確立してる技術だし、Dメディアはそれに似た体験ができる、というだけのものでしょう」
「鋭い意見ですね」眼鏡を指で押し上げながら、塩畑は言う。「おっしゃる通りですが、この分野はまだ未開拓で、無限の可能性を秘めている、とわたしは考えているんです。たとえば、意思疎通のできない、いわゆる植物人間の患者と家族がDメディアを通じて会話する、というようなこともできるかもしれない。それはVRにも成し得ないことでしょう」
「確かに、そうですね」
「それに、VRには今や、様々な規制や法律が存在する。何でもできると言いながら、できないことが多々ある。その点、Dメディアには、当たり前だがまだ規制がまったくない―― 白紙の状態です」
「法整備されるのは、かなり先のことでしょうね」
「そう。ですから、それだけ自由度の高い試みができると思うんです」
通話を終えると、朱莉はノートPCを閉じ、椅子の上で体の向きを変えた。手を伸ばし、ベッドサイドに置かれた記録媒体と、その上のヘッドセットに触れる。そうして、微かに微笑むと、立ち上がった。
美術館の内部は、外の喧騒が嘘のように静かだった。別世界に迷い込んだように静謐で、建物から滲み出る重厚な雰囲気をより際立たせている。
『ヨーロッパの剣と鎧展』――副題は、ロマンの海を越えて、だったろうか?
展示品の並ぶ通路に足を踏み入れた途端、期待した通りの、厳かでどこまでも冷たい空気が朱莉を包んだ。
陳列されているのは、実際にヨーロッパから海を渡ってきた中世の武具だ。剣、槍、弓、鎧、馬具、などなど。美術館の企画だからか、意匠を凝らした美麗な旗などもあるらしい。朱莉は通路を進みながら、解説の書かれたパネルに目を通した。いずれの品も、血腥い戦場を掻いくぐってきたものだとある。つまり、煌びやかな剣も、その脇のレリーフを施された盾も、本物の人間の血を浴びているのだ。
この展示の内容を知ったら、勇吾は眉をひそめるだろう。そう考えて、朱莉はくすっと笑った。
彼に嘘をつくつもりはなかったが、本当のことを言うつもりもなかった。朱莉がしようとしていることを知れば、きっと善良な彼はショックを受けるだろう。
平日だからか、客は視界に数人いるだけだった。朱莉はじっくりと一つ一つの品を見て回り、学芸員らしきスタッフに質問もした。
「こういう剣って、凄く重いんですか?」
「はい。刃が長くて幅広のものほど、刀身が重くて、柄もそれに釣り合う形で重くなっています」
「そうなんですね。じゃあ、こっちの小ぶりな剣は――」
「そうですね。そちらは日本刀でいう脇差に近いもので、大きな剣が使いづらい時に使うものになっています――」
その説明に、いちいち頷きながら、朱莉は目にしたすべてを深く頭に刻み込んだ。
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