第5話 苺姫が望んだもの
収穫祭も滞りなく行われた。
見知った顔はおらずに、少しばかりフレジェは落胆した。
てっきり《黄金の眼鏡》がいると思っていたのだ。
フレジェのお披露目パーティーも終わって、王宮に用意されている自室に戻ろうとしていた時だった。
兄王に呼び止められた。
忙しい兄が自分のために時間を割りさいてくれるのだ。
断るわけにはいかない。
「成人、おめでとう。
私の可愛い妹」
パルフェは穏やかに笑う。
「ありがとうございます。
お兄様」
フレジェは宮廷式の優雅に礼をした。
盛装姿は慣れないもので、どこかぎこちなくなっていないか不安だった。
クリーム色のくせのある髪は華やかに編み込まれ、シュガーピンクの飾りピンやリボンでまとめられている。
ドレスの方もアイボリーを基調として、ローズピンクがアクセントとして配色されている。
「よく似合っている。
とてもじゃじゃ馬姫とは思えないよ」
ラズベリー色の瞳が細められる。
「一言、多いですわ」
フレジェは憤慨する。
「実は、クランと賭けをしていてね」
パルフェはゆったりと歩き出す。
国王だけに赦された紅色のマントが典雅にひるがえる。
フレジェは置いていかれないように歩を進める。
ドレスの裾を気にしながら。
「《黄金の眼鏡》と?」
ならばパーティー会場にいなかったのも、理由があるのだろう。
「そうだよ」
パルフェは鷹揚にうなずく。
「仲がよろしいのですのね」
「何といっても十四年の付き合いだからね。
大切な友人だよ」
ラズベリー色の瞳が懐かしむように語る。
「まあ、素敵ですわね」
フレジェは相槌を打つ。
同世代の友人がいなくて、のんびりと離宮暮らしをしていた王女にとってその絆は素晴らしいように思えた。
王宮に来たのだから、これからは自分にも友人ができるのだろうか。
そんなフレジェの心境を知らないのか、パルフェは王宮の奥へ奥へと進んでいく。
女官たちもまばらになり、とうとう二人きりになってしまった。
一体どこまで行くつもりなのだろうか。
広い廊下に二人分の靴音が響く。
「《黄金の眼鏡》の百の秘密の一つを知っているかい?」
パルフェが声を落として尋ねる。
「目には見えない辞書を引くことができる人物が《黄金の眼鏡》なのでしょう?
離宮で教えていただきました」
フレジェは夏の離宮での出来事を思い出す。
あれから数か月。
収穫祭の時期が来て、フレジェも社交界デビューをした。
もう一人前の王族だ。
「その通り。
ここから先は、誰も立ち入りが禁止されている。
たとえ国王でものね」
「え?」
ストロベリーピンクの瞳を瞬かせる。
途惑うフレジェをよそに兄は重々しい扉を押し開いた。
そこには何もなかった。
塵一つ舞っていない白い大理石が敷き詰めているだけの部屋。
広さはそれほどないだろうか。
少なくともフレジェが王宮に用意された自室よりも手狭だった。
「ようこそ、国王陛下。
並びに第一王女様」
ポツリと立った人影が言った。
シャンパン色の頭髪に、銀縁フレームの奥に収まるアップルグリーンの瞳。
盛装をしている二人とは正反対に、飾り気のない姿だった。
長衣をまとっていなければ、国一番の学者を示すメダルもしていない。
生成り色のシャツに、インディゴ色のズボン。
十八歳という、年相応といえば年相応の外見だろうか。
大学に通う平民のような装いだった。
以前と違うイメージのせいか。
あるいは、パーティー会場で見てきた男性たちと異なる姿だろうから。
フレジェは妙に気恥ずかしい気分になった。
「少しばかり秘密話をしましょうか?」
クランブルは優し気な雰囲気で言った。
それと同時にパタンッと扉が閉じられた。
「ここはどこですの?」
フレジェは尋ねた。
「成人おめでとうございます。
第一王女様」
気にせずにクランブルは続ける。
「あ、ありがとうございます」
フレジェは慌てて宮廷式の礼をする。
「ここは王宮の最深部です。
目には見えない辞書が存在している、と言われている場所です。
見ての通りに何もありません。
存在していないものが見えるはずがないのですから。
ただ形式として残っている場所です」
クランブルは何でもないよな口ぶりで語る。
「それも《黄金の眼鏡》の百の秘密の一つなのですか?」
フレジェは緊張しながら質問する。
「さあ、どうでしょう?
私自身も立ち入ることは滅多にありませんから。
まあ、秘密話にはちょうど良い場所だと言っておきましょうか」
クランブルは微笑んだまま言った。
これから、どんな秘密を聞かされるのだろうか。
フレジェの心臓が高鳴る。
ワクワクして、ドキドキする。
「実は最初に第一王女様には、謝っておかなければならないことがあるのです。
ルセット王国の慣習として、王女の名は秘される」
クランブルは穏やかに告げる。
「名を呼ぶことができるのは、名づけた者と、伴侶だけ。ですわね」
フレジェはつっかえながら答える。
兄である国王であっても、それは覆せない。
寂しくて、何度も枕を涙で濡らしたことがあった。
成人した今も、引っかかることではあった。
「それは間違いなのです」
青年は力強い声で断言した。
フレジェは手にしていた象牙の扇を取り落としそうになる。
「例外があるのです」
「どういう意味ですの?」
「《黄金の眼鏡》の百の秘密の一つです。
選定される条件だともいえる重要な理由です」
「……まさか」
そんことはないと思いながら期待をしている自分がいた。
「あなたの願いを叶えましょう。
フレジェ姫」
銀縁フレームの奥のアップルグリーンの瞳は雄弁だった。
そして、それはずっと、フレジェが求めても止まないものだった。
思い出の中の声ではなく、自分の声でもなく。
確かの声で名前を呼ばれたい。
自分の名前を。
フレジェは今度こそ扇を取り落とした。
塵一つ舞っていない白い大理石の床に扇が落ちた音は沈黙と同じぐらい重かった。
青年はそれを優雅な手つきで拾い上げる。
「《黄金の眼鏡》は呼べるのです。
私が初めて辞書を引いたのは、あなたが誕生した時です。
当時、私は四歳でした」
クランブルは悠久の時を語るように言った。
「どうぞ」
青年は扇を差し出した。
「ありがとうございます」
フレジェはドキドキしながら、扇を受け取った。
「どうやら、賭けは私の勝ちのようだな」
部屋に入ってから言葉を発していなかった兄が言った。
「パルフェ、まだわからないよ」
《黄金の眼鏡》の称号を持つ青年は言う。
「お兄様、どんな賭けをしたのですか?」
フレジェは兄を見上げる。
どう考えたって自分をだしに使われたのに違いない。
「名前を呼んでほしかったのだろう?
私の可愛い妹」
自分よりも濃いラズベリー色の瞳は優しかった。
「ええ、もちろんです」
母が星になってしまった時から思い続けてきたことだった。
「呼んでもらえたのだから、満足できたかな?
最高の成人の祝いになっただろうか?」
パルフェは重ねて尋ねる。
「もちろんです。
優しい優しいお兄様が私の願いを叶えてくださって嬉しいです」
フレジェは柔らかく微笑む。
「それは……一度で充分、という意味かな?」
謎かけのように兄が言う。
フレジェはこれまでもたらされた秘密の大きさに混乱している真っ最中なのだ。
回りくどい言い回しを解釈する余裕はなかった。
「パルフェ。それ以上は、意地悪というものだよ」
クランブルは口を挟む。
「古い友人を思いやってのことだと思ったのだが?」
パルフェは余裕のある微笑むを浮かべたまま言った。
「可愛い妹じゃなかったのかい?
成人したばかりの少女に対する態度とは思えないよ」
クランブルが言い返す。
気安いやり取りにフレジェの途惑いがさらに強くなる。
《黄金の眼鏡》は誠実なイメージが強かっただけに落差が大きい。
国王陛下とそれに意見を言える国一番の学者である《黄金の眼鏡》という関係には見えなかった。
本当に仲の良い友人同士のやり取りに見えた。
「この国の一番の権力者である私よりも、妹を庇うのだな」
「年長者なら当然だと思うよ。
年端いかない少女に対して、退路を断つような言い方は可哀そうだと思わないかな?
私には《黄金の眼鏡》という称号もあることだしね」
クランブルは辛辣に言った。
フレジェには事の成り行きをハラハラと傍観することしかできなかった。
「こういう時ばかりは、称号を使うのだな」
「嬉しくてなったわけではないからね。
利用できる時に利用しなければもったいないだろう?
君とは違う」
クランブルはハッキリと断言した。
《黄金の眼鏡》という称号を持つ国一番の学者だとは思えなかった。
フレジェよりも四つほど年長の青年がいるようだった。
姿形がいけないのだろうか。
ストロベリーピンクの瞳には新鮮に映った。
「たとえ《黄金の眼鏡》に選定されなくても国務大臣の一人として政治に参画していたことだろう」
パルフェが言い放った。
「運命は覆せない。
それを痛いほど知っているのは君自身じゃないのかな?」
「確かに……一理あるな」
「賭けを提案したのは私だけれども、決めるのはフレジェ姫だ。
約束を違えるのは為政者として失格だよ。
覆水盆に返らず。
口に出したことは守らなければならない。
それが国民に慕われる国王というものだよ」
クランブルは堂々と言った。
現金なものでフレジェの心臓は跳ねた。
ぎゅっと扇を握ってしまう。
また名前を呼ばれたのだ。
嬉しくて仕方がなかった。
青年の前では『第一王女様』ではないのだ。
無意識かもしれないけれども呼んでもらえたのだ。
心臓は早鐘を鳴らし続ける。
たとえ生涯の伴侶でなくても、《黄金の眼鏡》である青年は名前を呼んでくれるのだ。
百の秘密と千の知識として。
ちゃんとフレジェの名前を呼んでくれるのだ。
もし真っ直ぐに呼んでもらえたら、どんな気分になるのだろうか。
あのアップルグリーンの瞳に見つめられて、呼ばれたら。
きっと今以上の気分になるだろう。
それがどんな感情なのか、夢見るように離宮で暮らしていたフレジェにもおぼろげながらわかっていた。
砂糖菓子よりも甘い、苺ケーキのように完璧な、飛び切りの感情だ。
たくさんの本で書かれていた物語の一つ。
「クラン。
やはり賭けは私の勝ちのようだよ」
パルフェは苦笑した。
「……?」
クランブルは、いぶかしがる。
「それでも国一番の学者である《黄金の眼鏡》かな?
十四年間、国務大臣たちよりも的確な助言を与え続けてきた《黄金の眼鏡》でも見抜けないものがあるとは。
それとも恋は盲目、という古い言葉を贈ろうか?」
パルフェは笑いをかみ殺すように言葉を紡ぐ。
「え? お兄様?」
フレジェの声が上ずる。
「私の可愛い妹は、すっかり恋に落ちているようだ。
とても残念なことだけれども」
パルフェは言った。
フレジェはストロベリーピンクの瞳を瞬かせて、意味をくみ取ろうとする。
自分の感情を当てられたことに驚いたのではない。
それより前の『恋は盲目』という言葉が気になったのだ。
まるで《黄金の眼鏡》の称号を持つ青年が、自分に恋しているように聞こえたからだ。
耳まで紅潮するのがわかって、指先まで脈が通っているのを実感して、フレジェはうつむいてしまった。
塵一つ舞っていない白い大理石の床を見つめ続けてしまう。
「さあ、クラン。
男らしく約束を守ってもらおうか」
手狭な部屋で、兄の声が真剣に響く。
《黄金の眼鏡》の称号を持つ青年は膝を折って、うつむくフレジェと視線を合わす。
銀縁フレームの奥のアップルグリーンの瞳は綺麗だった。
まるで森の奥深くに隠された知識の林檎、秘密をたくさん抱えている。
フレジェはもったいなくて視線を逸らすことができなかった。
「《黄金の眼鏡》ではなくて、あなたの名前を呼んでもよろしいでしょうか?」
クランブルは緊張した面持ちで告げた。
フレジェは理解するのに、しばらくの時間を有した。
求婚されていることに気がついて
「たくさん呼んでください。
ずっとずっと……やがて星になるまで」
フレジェは声を絞り出すように言った。
「ありがとうございます。フレジェ姫」
クランブルは嬉しそうに笑った。
それがあまりにも甘やかなものだったから、フレジェの心臓は持ちそうになかった。
ドキドキするのに嫌な感じは一つもなかった。
こうして約束通りに、フレジェはこれ以上のない幸福を手に入れた。
童歌のように《黄金の眼鏡》は良い眼鏡。
どんな願いも叶えてくれる。
ルセット王国の第一王女は涙を一滴、零したのだった。
それでも目の前のアップルグリーンの瞳の青年は童歌のようには消えていかなかった。
永遠を誓い合ったのだから。
フレジェの願い通りに、二人きりの時はたくさん名前を呼んでもらえた。
王宮で、その幸せな時間を堪能した。
国王陛下の名の下に、優し気な顔立ちの《黄金の眼鏡》と可憐で愛らしい美貌の第一王女との婚約が発表されるのは、冬も近い頃のこと。
家臣一同、反対半分だったが、納得半分。
国務大臣を輩出してきた家柄や《黄金の眼鏡》としての十四年間に渡るの実績の前では、黙るしかなかった。
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