こいをくう
北路 さうす
第1話
同じ部署の斎藤さんは、鯉を飼っている。
雨の日、私は傘を忘れて途方にくれている斉藤さんに声をかけた。彼女の住んでいるマンションが私の帰路の途中にあることを知っていたからだ。私も傘を一本しか持っていないから、一つの傘を彼女と並んで使い彼女を家まで送った。彼女を送るまではよかったのだが、いつのまにか雨は大振りに。雨脚が弱まるまでと彼女の家にお邪魔することになった。
「おじゃまします」
初めて上がった彼女の家は、会社のデスクと同じく綺麗に片付いており、彼女の几帳面さが現れているようだった。
「適当にくつろいでいて。お茶を入れてくるわ」
そう言い残し彼女は台所へ向かった。部屋の中央にある小さなテーブルのそばに座り、部屋を見回した。ベッド、テレビ、洋服ダンスに本棚。シンプルながら色味が揃えられていて、センスの良さが伺える。
「ごめんなさいね。あまり人を呼ばないものだから、お出しするお菓子がなくって」
可愛らしいカップを受け取る。洋風な見た目に反し温かい緑茶が入っていた。薫り高く、程よい渋みでおいしい。すぐに飲み干してしまった。いやしくもお代わりを入れてもらっているさなか、雨で冷えてしまったからか、私は用が達したくなってきてしまった。台所にいる彼女に声をかけ、トイレを借りる。ひと段落付きトイレからの戻り、どこからかバシャリと水音がした。雨のせいか?いや、この家のどこからか。再びバシャリ。どうやら斜め向かいのドアの中からのようだ。少し隙間があり、通りすがりに中が見えた。
「あっ」
そこは浴室だった。浴槽から、赤い手が私に向かって手を振っていた。
「あら、見てしまったの、吉野さん」
ぎょっとして固まっていると、少し困ったような顔をした斉藤さんがこちらへ歩いてきた。
「ごめんなさい。覗くつもりはなかったのだけど」
ううん、大丈夫。彼女はそう言い、ドアを開けた。
「私の秘密。誰にも言わないでね」
風呂の浴槽に、鮮やかな赤白黒のうろこをもつ一匹の大きな魚がいた。着物のように長いヒレを優雅に動かして、私たちの所に近寄ってくる。水面に顔を出し、パクパクと何かを求める口には立派な髭が生えていた。
彼女は、その魚が観賞用の錦鯉であり、ペットなのだと教えてくれた。鯉というと、昔親が連れて行ってくれた動物園で、池にうじゃうじゃいたあの恐ろしい魚か。今は広い水槽にただ一匹ヒレを優雅にたなびかせ悠々と泳いでいる。なるほど、先ほど手に見えたのはこの鮮やかな魚がはねた瞬間だったのか。
「鯉ってね、雑食性でなんでも食べるの。最初は小さかったのだけれど、色々なものをあげているうちに大きくなっちゃって。そろそろ新しい水槽に移さなきゃならないのだけど…」
鯉について話す彼女はずいぶん楽しそうだ。今まで誰にも話せなかった反動か、顔を少し上気させいつになく饒舌な彼女をみて私は考える。斎藤さんは職場ではどちらかというと聞き役に回りがちで、大先輩たちの愚痴をうんうんと聞き、時々彼女らが喜ぶ相槌を打つ。聞き上手な彼女は誰からも好かれていたが、誰一人として彼女の詳しいプロフィールを知らない。そんな人だ。誰にでも優しく自分を出すことがないから、仕事を押し付けられているのも見かけるし、本当は飲み会に行きたくないが、強引な誘いを断り切れずにつれていかれるのもみてきた。言い方は悪いが、まわりの都合に振り回されている彼女は何が楽しくて生きているのだろうと思っていた。なるほど、彼女は家に大切な友達がいたのだ。
「ご飯作るときに出る野菜クズなんかも食べてくれるの。私と同じものを食べているとなんだか余計可愛くって」
この時から、彼女との雨の日の奇妙な交流が始まった。
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