第2話
「吉野さん」
雨の帰り道で名前を呼ばれ振り返ると、斉藤さんがいる。その雨音にかき消されそうな細い声は、彼女の家に遊びに行く合図だ。
温かいお茶とお菓子をたべたら、2人で浴槽の縁に腰掛けて鯉を見る。狭い浴室では肩が触れ合いそうになる。最初はお互い遠慮していたのに、回数を重ねる毎にいつしかそれが当たり前になっていた。
「斉藤さんって意外と大胆な性格だよね」
「そうかしら?自分でそう思ったことないわ」
斉藤さんは指についたクッキーの粉を拭き取る。
「ほら、お菓子の粉だって舐めたりしないわ」
「それは普段舐めてる人にしかない発想だと思うよ」
自慢げに見せびらかした指を、私の指摘でバツが悪そうにしまう。図星だったらしく、ちょっと恨みがましい目で見つめてくる。
「家の中なら大丈夫だもの。会社でしっかりしておけばいいの」
「私の前じゃない」
「吉野さんは……もう友達だからいいの。意地悪言わないで」
肩をぶつけながら、友達にしては丁寧な物言いで膨れてみせる斉藤さんに、つい吹き出してしまう。彼女は余計真っ赤になってしまった。
「ミケちゃん聞いた?吉野さんたら酷いのよ」
ミケちゃんは鯉の名前だ。毛は生えてないのに、3色だからミケ。なんとも奇妙だ。彼女のネーミングセンスがイマイチなのは、今に始まったことでは無い。彼女がつけた歴代ペットの名前を聞いた時は大笑いしてしまった。
「今日も晴れか」
いつの間にか、雨の日が待ち遠しくなってしまった。梅雨が終わり、徐々に天気の良い日が増えてきた。ここ数日、彼女と帰宅時間が被ることは無い。社会人になってから初めての友達だから、学生時代のようにあまりグイグイいくのは躊躇してしまう。相手の都合もあるだろうし、頻繁にお邪魔するのも気が引ける。
職場では今まで通り仕事の話しかしていない。同じ部署とはいえ、社員の私と派遣の彼女ではグループが違い、あまり行動を共にすることは無い。今日も聞き役に回る彼女を見ていた。一瞬目が合ったが、彼女はふいと視線を外し、また熱心に話をききはじめてしまった。
自分でも思った以上にショックだった。一応、友達のはずなのだけれど。
ショックを引きずったまま仕事をしていたら、軽いミスをしてしまって私は久々に残業をするはめになった。
気分転換に、やめようと考えながら一向に辞められないタバコを1本だけ吸う。そしてほとんどの人が退社した部署に戻ると、斉藤さんともう1人の派遣さん……確か名前は田辺さんが談笑しているのが見えた。
「もう定時過ぎていますよ。タイムカードは切りましたか?」
「あ、すみませーん」
面倒くさそうな雰囲気を隠さず、田辺さんから間延びした返事が返ってくる。別に私が声をかける必要は無かったのだけれど。
2人を見送り、仕事に戻る。新人でもあまりしない、しかしめんどくさいケアレスミスにひとりイラつきながら修正をすすめる。
「吉野さん」
聞きなれた声に顔を上げると、笑顔の斉藤さんが目の前に立っていた。
「あれ、帰ったんじゃ……」
私の返事聞かず、彼女は缶コーヒーを渡して隣の席に腰掛けた。
「社員さんの言う通り、タイムカードは切ってきましたよ」
悪戯っぽく笑う彼女の手にも同じコーヒーが握られていた。
「田辺さん、いつも私を捕まえて愚痴を言うんです。雨の日はお子さんのお迎えで急いで帰られるので大丈夫なんですけど……でも今日吉野さんが声をかけてくれたおかげで断りやすくなりました」
彼女は缶コーヒーを掲げ、私も釣られて乾杯する。なるほど、雨の日にしか彼女に会えなかったのはそのせいか。
「だから、たまに晴れた日にも遊びに来てくださいな」
背もたれに顎を載せながら、上目遣いでこちらをみつめてくる。
「もちろん」
彼女も私と同じ気持ちだったのか。独りよがりじゃないと安心した私は、満面の笑みで返事をした。
こいをくう 北路 さうす @compost
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。こいをくうの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます