第3話

 天気に関係なく会うようになった私たちだが、会社が繁忙期になり社員である私と派遣さんの斎藤さんとは帰宅時間がずれ始めた。名残惜しそうに視線を残して会社を後にする斎藤さんと目が合っても、小さく手を振ることしかできない。忙しさに押しつぶされそうになり煙草を吸う回数が増えて、同僚にからかわれる。

「吉野さん、毎年たばこやめるやめる言いながら繁忙期になると完全にヘビースモーカーになるじゃないですか」

「タバコは数減らしてちまちま吸っていると結局やめられないらしいよ」

「はいはい、喫煙者は肩身が狭いねぇ」

 すでに煙草をやめた面々からのアドバイスには耳が痛くなるが、ここ1週間会社と家の往復しかしていない私にはこれしかないのだ。

「彼氏作りなよ。この会社のお給料ならヒモ飼えるって」

「すごい、ハラスメントの塊じゃない」

「私と煙草は男如きじゃ引きはがせないって。それより手動かして早く帰るよ」

 軽口をたたきあいながらも、両手は必死にキーボードをたたき続ける。半分投げやりな会話は疲れた頭にちょうどいい。確かに、皆彼氏ができたり結婚して子供ができると煙草をやめたように思う。そのままやめ続けることができているのだから大したものだ。大切な人のためならそのくらい楽勝なのだろうか。そう考えて、ふと斎藤さんの顔が浮かぶ。ぼんやりしてきたようだ。勢いよく立ち上がり、喫煙所で一服することにした。結局、仕事が終わったのは定時を二時間ほど過ぎてからだった。


 いつもの道をふらふらと歩く。おなかがすいて、コンビニで適当に買ったおにぎりにかぶりつきたい衝動に駆られる。でもそれすら面倒で、どうにか家に向かって足を進めていた。

 斎藤さんのマンションを通り過ぎるとき、ふと彼女の住む部屋を見上げてしまった。すると、ベランダで何かの影が動くのが見えた。驚いて目を凝らすと、影から手のシルエットが伸び、こちらへ手を振り始めた。

「吉野さん、寄ってってよ!」

 影は斎藤さんだった。不審者ではなかったことに胸をなでおろす。大きく手を振る彼女に苦笑しながら、私はお言葉に甘えて部屋にお邪魔することにした。


「ずっとベランダにいたの?」

 夏も終わりかけとはいえ、夕方は風が吹くと肌寒い。ゆったりとした半そでのワンピースで出迎えてくれた彼女に疑問を投げかける。彼女はにんまりと笑ってベランダに案内してくれた。ベランダにはプラスチックの人工芝がひかれ、小さなテーブルと椅子が置かれていた。風よけになりそうな衝立までおいてある。

「ベランダで快適に過ごせるように作ってみました」

 彼女はもう1つ椅子を出してくれた。テーブルにはいつもの紅茶とお菓子ではなく、おかずが何品か並べられ、香ばしいほうじ茶が運ばれてきた。

「最近大変だよね。でもちょっと寂しくって。付き合ってくれてありがとう」

「私こそ、こんなにごちそうになって申し訳ないよ」

 会社の愚痴をこぼしながら、2人でちまちまおかずをつまむ。きんぴらごぼうも、名もなき野菜炒めも、自分で作る味とは違うけれど安心する味だった。自分以外が、というかまともな食事をとったのが久しぶりだった。

「私、この日が落ちていく瞬間が好きなの」

 街灯が順番に付きはじめ、空が茜色から濃い藍色に変わっていく。夕日が見えなくなっても、しばらく残った明るさの余韻を二人で眺める。こんなにゆっくり日の移り変わりを見たことはなかった。

「本当ね。とてもきれい」

「よかった。好きな物が共有できるのうれしい」

 斎藤さんの顔がぱっと明るくなり、私の手を握ってきた。一瞬の間があって、顔を赤くして手を放す。

「ごめんなさい、私距離が近くて……」

「そんなの気にしないでいいよ」

 そう微笑んでみたけれど、私はドキドキしていた。今日もたくさんの煙草を吸った手は、当たり前のようにその匂いが染みついているはずだ。その匂いが彼女の良い香りがする手に付かないか気が気ではなかった。

 空が完全に暗くなったころ、明日も忙しいからとお暇することにした。もちろん、お風呂場のミケにも挨拶をした。私を見るなり、肉厚の唇をパクパクさせながらエサが降ってこないかこっちを観察し、何も持っていないとわかると水底にゆっくりと沈んでいった。


 ベランダ越しに、斎藤さんが手を振っているのが見える。マンション群に隠れるまで、ずっと手を振ってくれていた。最後に手を振り返した後、自分の手をかいでみる。彼女の家で使ったハンドソープの上品な香りに交じって、うっすら煙草の臭いがした。彼女の整えられた家に、自分が煙草の残り香を残してしまっていたのか。煙草、やめてみようかな。減らすんじゃなくて。中身の少なくなった最後のひと箱を握りながら、そう考えた。

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