第1章 秒針を刻む

ある朝、都会はいつもと変わらない喧騒に包まれていた。


ただ一つ、真木修二の家だけが静まり返っていた。


風が窓を吹き抜ける音、



鳥のさえずり、



そして壁時計の針が刻むわずかな音すら、



凍りついたかのように静まり返っている。




真木紗英子は、夫・修二のベッドサイドに座り、青ざめた顔で彼の冷たい手を握りしめている。


彼の頬はかすかにやつれ、目を閉じた表情には穏やかさが残っている。


誰がこの静けさを、彼の死と結びつけるだろうか。



「修二さん…修二さん!!!」



紗英子は涙を溢しながら叫声をあげる。



夫がこんなに早々に尽きるとは、想像すらしたことがなかった。


彼は常に健康に気を遣い、規則正しい生活を送っていた。


文学界における彼の評判は揺るぎない一つの大きな盾だった。


誠実な夫、尊敬される父親、そして誰からも愛される絵に描いたような成功者だった。


しかし、そんな彼が突如として息を引き取った。


何の前触れもなく、永遠にこの世界から去ってしまったのだ。




その訃報の知らせは刹那のように広がり、


彼の家には同業者、友人、編集者、そしてメディア関係者までが押し寄せ、


真木修二という作家の死を悼むために、重たい足音を立てながら訪れた。


彼らの表情は皆一様に驚きと悲しみに染まっていた。



「信じられない」



と口にする人が多く、まるで一日がこのまま終わらないのではないかと思った。




一方、真木亮太は、父の死をどこか現実として受け入れることができなかった。


リビングの隅に立ち、彼はただ虚空を見つめていた。


彼の頭の中で父の死を整理しようと試みては、そんな事をしても無意味に思えた。


修二は、彼にとって遠い存在だった。


それは物理的な距離ではなく、心の距離だった。


父がどんなに成功を収めても、どこか壁のようなものが二人の間にあった。


子供の頃、父と過ごした時間は限られていたし、家庭よりも書斎で過ごす時間が多かった。


亮太はいつも、父が向き合っているのは息子である自分ではなく、その無数の書物や原稿だと思っていた。


そして、その距離は父が死んだ今、一層広がり、もはや永遠に埋めることのできない溝となってしまった。



しかし、家族や友人が悲しみの中、ただ一人、異なる視点から事態を見ていた者がいた。



佐久間智久――



真木修二の親友であり、長年の編集者だ。


彼は、修二の死に直面して、何か腑に落ちないものを感じていた。


死の数日前、修二はいつになく落ち着きのない様子を見せていた。


表向きは穏やかな作家ライフを送っているように見えたが、


智久は敏感に彼の変化を感じ取っていた。



「修二、お前何かあったのか…?」



智久はふと、あの最後の会話を思い出した。


それは修二が亡くなる二日前のことだった。


仕事の打ち合わせの名目で彼を訪ねたが、いつもとは違う、


重苦しい空気が彼の書斎に漂っていた。


机の上には無造作に散らばった原稿用紙。


普段の几帳面な修二からは考えられない散らかり方だった。


話しかけると、彼はいつも以上に短い返事を返し、どこか上の空だった。


そして最後に、意味深な言葉を口にした。



「智久、もし僕に何かあったら、これを頼む。」



そう言って渡されたのは、表紙がボロボロの古びた一冊のノートだった。



「何だよ、辛気臭い。また今度来たら見せてもらうよ。」



智久はその場では深く考えず、その場で深く問い詰める事はかったが、


今、そのノートが気になって仕方がない。


修二は一体何を託したのか? そして、そのノートの中には何が書かれているのか?




数日後、修二の葬儀が行われた。


雨が降りしきる中、彼の棺は運び出され、曇天の空の下に姿を消した。


雨粒が地面を打ちつける音が響き渡る中で、


智久はふと、修二の家に向かう事にした。


あのノートを確かめなくてはならない。


修二が最後に残した頼みが何を意味するのか、それを知る義務が自分にはある。



その夜、智久は修二の遺品整理を手伝うため、書斎に足を踏み入れた。


机の上にはまだ修二が執筆していた原稿が残されていた。


その原稿の下に、目立たぬように隠されたノートがあった。


智久が手に取り、ページをめくると、そこには修二のものではない、異なる筆跡で書かれていた。



「これは…誰の字だ…」



智久はそのノートを読み進めていく中で、


ある名前を見つける事になる。


安西誠。かつて修二と大学時代を共にし、作家としての道を歩もうとしていた友人。


しかし、その名前を聞かなくなってからは長い年月が経っていた。


そして、その名前が何度も出てくるたび、智久の脳裏に浮かんだのは、


修二の死がただの偶然ではないのかもしれない、という恐ろしい見解だった。


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貴方は独りの畢生を潰す 翡翠 @hisui_may5

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